エヴァンズ夫人の依頼③

かつて、エヴァンズ夫人の祖父の代よりも遡ること昔、このアルマ大陸には精霊人せいれいびと――古代アルマびと獣人けものびととも呼ばれる。彼ら自身は自らを精霊人と呼んだ。獣人は現アルマ人が付けた名称であり蔑称の意味合いが強い。――と呼ばれる先住民族が暮らしていた。


彼らは自然と精霊を信仰する文化を持ち、身体的特徴として動物や草木、岩石などの自然物の要素を身体に宿す独特の容姿をしていた。

また、彼らのうちの多くは超自然的な現象を行使する力を持ち、その力は主に狩猟や採集、神事などの生活の場に利用された。


彼らは海を渡り来訪した異邦人を帆の民スールと呼び、快く歓迎した。

しかし、異邦人はその数を大いに増やすと国を立ち上げ、新たな資源と土地を求めて大陸に勢力を拡大していった。


平和的で自然との調和を尊ぶ古代アルマ人はやがて異邦人から迫害の対象となった。

国を持たず、集落での暮らしを文化的基盤としていた古代アルマ人は優れた製鉄技術による武装と、統制された兵を持つ異邦人の前に次々と数を減らしていった。

結果として、異邦人に上手く迎合した古代アルマ人のみがアルマに血を残すことになるが、その血も次第に薄れていき、いつしか彼らがこの大陸を支配していた歴史はアルマの人々の中から忘れられていった。


以上がフェリダ王国の属するアルマ大陸の歴史の一端である。


フェリダでこの歴史を知るのは今ではごく一部の人間に限られる。

エヴァンズ夫人が、精霊人がアルマの先住民であることを与り知らないのは当然の帰結であった。

アルマ大陸の外には逃げ延びた精霊人の血と文化を継ぎ、民族として認められている国も存在するがそもそもフェリダを出たことがない彼女は精霊人を目にしたことすら無かった。


思わぬ形でのロナルド・フォクシーとの邂逅により、夫人は混乱していたがほどなく落ち着きを取り戻すと自らの過りに気が付き、慌てて謝意の言葉を述べた。


「先ほどはお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません!精霊人の方にお会いしたのが初めてでして少々、取り乱してしまいました。てっきり、お嬢様の方をフォクシー様だと思っておりましたので……。」


「いやとんでもない。どうせこの娘が貴女に名乗りもせず、一方的に話を進めたのであろう。彼女の名前はアリエル。少しばかりやんちゃで未熟な所も多いが、確かに腕は立つ。依頼を引き受けた以上は信用してよいと吾輩が保証しましょう。我が弟子の不肖については多少、水に流していただけると助かりますな。」


夫人はロナルドの言葉から少女の名前と二人の関係を知る。

「このお弟子さんが少しばかりやんちゃとかあなた正気ですか」という思考が頭を掠め、夫人としてはロナルドの言葉にいくつか訂正の余地があったのだが、大人な彼女は言われた通り水に流し、今は彼の配慮に心底安堵した。

彼は続けてアリエルに向かってこう諭した。


「さて、アリエルよ。見ての通り、このご婦人に悪気は無い。

お前は吾輩のことについて腹を立ててくれたのであろうが、聡いお前と違って世人というのはお前が求めるほどにものを知らぬ。

そして彼らはお前が考えている以上に情に厚く、繊細に人の心の内を気にする。

ここまで言えばもう解るであろう?」


腕を組み、ぶすっとした表情で話を聞いていたアリエルは一度バツの悪そうな顔をすると居住まいを正した。

それからエヴァンズ夫人の正面に立つと彼女に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。

少女の態度の変化に夫人は不意を突かれたが夫人が少女に優しく微笑みかけることで二人の間にあった気まずい空気は霧消した。


元を辿れば、事態の元凶は何の前触れもなく現れたロナルド本人にあったのだが、この天晴れな振る舞いで見事に場を収めて見せたふてぶてしい紳士に物申す者はこの場にいなかった。



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アリエルとエヴァンズ夫人がテーブルに着くと、アリエルはテーブルの上に2枚の羊皮紙と小袋を置き、依頼調査の説明を始めた。


「ミセス・エヴァンズ。これは私が貴方から正式に依頼を受ける上での契約書と誓約書よ。貴方がここにあることに目を通した上で了承したらサインを貰うわ。」


要点をまとめると契約書と誓約書には依頼期間や報酬と共に以下のことが記されていた。


・依頼者と調査委任者は依頼で得た情報について第三者への恒久的秘匿義務を持ち、その情報を依頼調査以外の目的で使用してはならない。

・依頼者の調査依頼目的は違法行為や公序良俗に反する行為、及びそれを助長するものであってはならない。

・調査委任者が依頼者に予め告知した依頼期間内に依頼が遂行されない場合、依頼契約は不履行となる。

・依頼者が依頼期間内に報酬の支払いが不可能な状況になった場合又は事前の承諾なく調査委任者からの連絡に3日以上応答しない場合、依頼は棄却される。

・依頼者側に約款への違反行為が認められず、且つ調査委任者が依頼契約を不履行とした場合、依頼者が負担した費用及び調査委任者へ貸与した品は全て調査委任者から依頼者へと返済される。

・調査委任者が依頼を遂行又は契約不履行とした場合、依頼者は依頼の内容と調査委任者に関わる一切の情報を忘れる。

・依頼者が依頼を棄却した場合、調査委任者は依頼者から報酬の5割を受け取る権利を持ち、依頼棄却後に依頼者は依頼の内容と調査委任者に関わる一切の情報を忘れる。


「まあ、かいつまんで言うと『依頼のことはお互いに誰にも言っちゃダメ』、『依頼の情報を別のことに使うのもダメ』、『依頼そのものが悪いことの為であっちゃダメ』、『依頼が失敗したら私に払ったお金と貸した物は全部返ってくる』、『依頼中に貴方が死んだり失踪したりしたら依頼は取り消される』、『依頼が終わったら貴方はここで見たことを全部忘れる』ってとこね。」


アリエルがペンの尻軸の先で条文をなぞりながら順を追って夫人に説明した後、ざっくばらんに重要事項を取り上げて説明した。

目が滑るような文章の嵐だったのでアリエルの説明に夫人は心底感謝した。


「あの、2つ質問よろしいでしょうか?」


夫人が手を挙げて質問すると少女が先を促す。


「もしも、約款に違反した場合はどうなるのでしょうか?」


「死ぬわ。」


少女が簡潔な言葉で回答する。「それは具体的にどのように?」という質問が喉から出そうになるが更に不明瞭な事柄と質問が増えそうなので夫人はグッとこらえる。


「では、もう一つ。依頼が終わった際に『忘れる』と記載がございますが、私、あなた方のことを忘れるどころか記憶の隅にも追いやる自身がございません……。

そうすると意図せず誓約違反になってしまい、私は死んでしまうと思うのですが……?」


エヴァンズ夫人は別に物覚えに自信がある人間ではなかったが、それでもこの強烈な印象を直接彫刻刀で脳裏に刻み込んでいくような個性の持ち主たちを脳の海馬から取り除いて見せるほどの神業を持ち合わせていなかった。

少女は握っていたペンを夫人の目の前に置くと、羊皮紙と一緒に運んできた小袋から印鑑を取り出し、こう答えた。


「大丈夫よ。ちゃんと忘れるようにできてるもの。第一、これは魔法による契約。

そのペンを使って貴方自身が署名して、ここにある印鑑で私が押印すれば意思に関わらず、お互いの約束事に背くことはできなくなるわ。

依頼が終われば約束通り、貴方は記憶を失う。だから貴方が死ぬことはない。

もっとも、何らかの魔法で無理やり約束を破ろうとすれば死ぬけども。

納得できたかしら?」


ここに来て初めて聞き慣れない“魔法”という耳を疑う言葉が出てきたが、夫人は奇妙なことに少女の言うことを否定する気になれなかった。

これは夫人がアリエルと初めて会った際に失くした記憶の中の出来事がそうさせたのであるが、むしろ、この時の彼女の中を占める感情はもうどうにでもなれという気持ちが大半であった。



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「これでよろしいでしょうか?」


エヴァンズ夫人が書類に署名をすると、不思議と身体の奥から力が抜けていく感覚があり、どっと疲れが込み上げてきた。

この屋敷ではペンで文字を書くことすらも一苦労なのだろうかと夫人は思わず疑う。

アリエルは夫人の署名を確認すると、それぞれの書類に押印した。

印には、先日夫人が目にした――とは言っても記憶は失っているが――クマのようなウサギのような動物が正面を向き親指を立てて微笑んでいる絵が描かれていた。


「これで契約は完了ね。それじゃあ、早速依頼に取り掛かりたいところだけど――」


途中まで少女がそう言って、指を振ると中空に水瓶が出現し、水瓶から夫人の空になったティーカップへ香りの良い紅茶が注がれた。


「貴方、さっきの署名で結構、魔力使ってしまってみたいだから特別にサービスするわ。それを飲むと疲れが取れるわよ。」


もう驚くことを諦めた夫人は少女の常人ならざる振る舞いを見て「優雅だなぁ」と呑気に思うと、お礼を良い、紅茶を一口含んだ。

すると、嘘のように身体の底から力が湧いてくる感覚があった。

いつの間にか姿を消したロナルドのことや魔法のことなど、正直、疑問が尽きない思いではあったが、とうに聞いた所で理解できるものではないと感じていた夫人は今はただ、目の前の少女の心遣いをありがたく思った。


そうして気分が良くなってきた所で、どうしても確認したいことがあり、少女に問いかけた。


「ところで、先ほどから気になっていたのですが、こちらの愛らしい動物は何というのでしょうか?」


夫人は書類の印を指差した。

例の正体不明の動物についての質問だ。

少女は夫人の質問を聞くと、「よくぞ聞いてくれました!」と言わんばかりに胸を張って嬉しそうな顔でこういった。


「これはね!子犬のポピー!私を象徴する印よ!!」


ふふんと得意げな顔をするご機嫌な少女を見て夫人は「そうですか。アリエル様らしくてとても可愛らしいですね。」と表情を緩めて言うとこれ以上、彼女らについて詮索することをやめた。

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