浅ましさ
リビングのソファの前でわたしは太極拳をしていた。
テレビにはセイがくれた解説本の付録DVDが映っていて、その型のとおりにわたしも体を動かす。セイがダイニングテーブルに片手をついたままボトルから朝のプロテインドリンクを飲んでいて、その姿が窓ガラスに反射して見えている。
「足捌きが独特なんだよね」映ったセイに話しかける。
「つま先を正確に真似るのがコツだ」
「それはなぜ」
「聞くな。君の考えを言ってみろ」セイの声が言う。
「んーっと、元が武道だから、相手を身体の正面に捉えるため」
「なるほど。では手の動きはなんのためだ?」
わたしはくねくねと慣れない手足の動きをしながら考える。かかとをついて、くいっと足首をひねりながら下ろし、同時に両手も不思議な軌道を描きながら動いている。
「なんだろう、戦うならパンチでもいいよね。ん? 分かんない」
そう言うと、セイがボトルを置き近づいてきてわたしの横に立った。そして画面に映るのと同じように型をしはじめた。ゆるり、と動いては一瞬ぴたっととまり、よどみなく身体を動かしている。
「こんな事は言うまでもないが、ゆったりとした動きで、おのれの筋肉の動きや呼吸を感じているのは分かるな?」動きながらセイが言う。
「うん」
「太極拳は健康体操という認識が日本では広まっているが、君のいうとおり元は武道だ。起源は往古の中国、西暦で言うと1600年頃に生まれたという説がある」
「ふうん」
「日本はその頃安土桃山時代くらいだな。そして江戸時代に続いてゆく訳だが、その当時、日本や中国の戦闘術はなんだったと思う?」
「いや、そんなのわたしが分かるわけないじゃん」
「じゃあ武器はなんだったろう」
「えーっと、剣とか槍とか、あと弓とか。鉄砲もあるか、一応」
「おおむねそうだろうな。中国もそんな類だろう」
「それが?」
「争いがまだあり、武器がある世の中なのに、素手の武道が生まれた。これはなぜだろう」
「武器をなくしちゃった場合に備えて」
「真面目に答えろ」
「分かんないよ」
「はははっ。まあいいだろう。当然武道として徒手空拳同士で競い合う事はあったろうが、実戦において敵は武器を持っている。その手の動きは武器を持つ格上にたいして、軌道を逸らしたりいなしたり、つまり勝てない相手に負けないためにあるんだ。相手の力や速さに、同じ土俵で対抗しない。拳を握らない意味は分かったな?」
「ああ、そうか。パンチじゃ届かないし、素手で剣を受けたら痛いじゃ済まないよね」
セイはひとつ頷いた。
「では次だ。私が包丁を持っていて、君は私とケンカしなきゃならない。さあどうする」
「後ろからぶん殴って、逃げながらわたしも武器を探す」即答する。
そう言うとセイは「ほう」と言い珍しくにっこりと笑った。
「正しい選択の一つだろうな。武器を持っている相手に素手は悪手だ、加えて後ろから殴る。正面切って戦わないって選択は正しい。君はあの子どもじみた思考の迷宮の中で、どうやら『自分で考える』という基礎を身に付けつつあったようだな」
「死ぬ思いだったもん」
「ではもう分かるな、足捌きの意味を」
「回り込むため、ズラすため」言いながらなるほどなと思う。
「そうだ。これらの動きはすべて移動する相手に、同じく移動しながら身体の芯を落ち着けるためにある。今で言う体幹トレーニングだな。だから今は健康体操なんだ。加えて言えば、剣の太極剣や太極刀という武術もある。太極とはそもそも陰陽思想という、道教や儒教に影響を与えた教えの事を言う。こんなマークを見たことはないか?」
セイはダイニングテーブルに移動して紙に何かを書き込み、戻ってきてそれをわたしに見せた。
円の中に、噛み合った白と黒の勾玉みたいなのが二つ。
「ああ、Tシャツとかでこんなのあるよね」
「これを陰陽魚と言う。ちなみに太極とは調和という意味合いがあることもつけ加えておこう。武道とは武としての力はもとより心の鍛錬も考えられている。まあ、そこが明確になったのは争いのなくなった時代からだろうが。興味があったら型だけじゃなく、そこに流れる思想というものを調べてみるのもいい。講義はここまでだ、さあ、朝の茶を点ててくれ」
お昼ご飯のあと、セイと二人でお互いに指定席になったソファーに座り、冷房の効いた部屋の中で麦茶を飲み日向ぼっこをする。
「ヒマだねえ」
「ああ」
「世界は今日も平和だねえ」快適な部屋の中、外の凶悪な太陽を見つめて他人事のように言う。
「平和なのは君の頭の中と、一部の国の人間だけだ」
セイは麦茶を一口飲み煙草に火を点けて丁寧に煙を吐きだした。
「ヒマだねえ」
「うるさいやつだな」
「ゲームしよっと」
わたしはそう言ってスマホを取り出す。最近お気に入りのアプリを起動する。画面にデフォルメされた動物がうつる。
「君はどんなゲームをやっているんだ」
「んとね、キャラクターとか家とか家具とかをデコレーションするやつ」
「それは何が面白いんだ?」
「お金をかけないで可愛い気分を味わえる庶民の娯楽。セイみたいに部屋に高級品、みたいな趣味持ったら破産しちゃうよ」
わたしはセイの部屋のあのあり得ない高級感を思い出してそう言う。
「別にあれらは自分の趣味じゃないぞ。この部屋に越す際に揃えさせたものだ」
「揃えさせた? じゃあセイの趣味ってなに」
「特にない。その時々目の前にある物を楽しんでいるよ。近ごろはおもに君を楽しんでいる」
「ふーん。わたし今まで遊ぶっていったらゲームだったから、ゲーセンとかよく行ったよ。施設だったから娯楽ってそれくらいだったしさ」
言いながら思う。そうだ、そうなんだよ。わたし、今年の春までは施設にいたんだ。なんだかこうしていると、セイと並んでどうでもいい話をしていると、昔っからこうしていたような気がしてたけど、セイとは共に過ごしてからまだたった二か月しか経っていないんだ。
セイの事をたくさん知った気になっていた。でも本当は何も知らない。仕事だってあの秘密部屋の事だって、彼女の交友関係だって、よく口にする「ある人」たちの事も、何も知らない。
この二か月ほど、とセイが口を開いた。「この二か月ほど、君にはあれこれとやらせてきたが、そろそろ百分の一人前くらいにはなったと認めてやろう。これからはしたい事があるなら自由に出かけていいし、泊ってきてもいい。正当な理由があるなら小遣いも少しはやろう。その上でアルバイトや趣味がしたいならすればいい。高校に行きたいのなら今からでも遅くはない、学費も出してやる。同年代の仲間の中で過ごすのも悪くはないはずだ」
じーんとした。深い何かが心を押す。目を細めたくなるような。なんか、なんかあれだ。セイの母性が、眩しい。ぶっきらぼうな母性が。
でも。
「高校は別にいいよ。でもそーゆーことなら、したいことがひとつある。バイクの免許がとりたい」
「バイクにこだわりがあるのか?」
「ううん。自分で好きな場所に行きたいの」
「それならば原付、原動機付自転車が一番手軽だが、免許取得は16歳になってから……」
「わたし来月にはもう16だよ。ねえ、細かい話はいいの、わたしは足が欲しいの」セイの言葉を遮るように言った。自由な外出や外泊が許可されると言うなら、この願いは切実だった。
「免許を取るのはかまわないがもうしばらくは乗せられない。自分で買ったとしてもだ」
「どうして?」
「君は今高速で走る車体を操作し、周囲を的確に観察しながら無心の中で考えられるか?」
「それは……」
「まあまあできたとしてもだ、一度の、一瞬のうっかりが事故につながり君の人生を変える。過保護だから言っているんじゃない。ただのお気楽な子どもが運転するのはかまわない。だが君は運転に慣れてくると必ず無心になろうと試したくなり、無心の中で思考しようとするはずだ。太極拳のあの動きの中ですらまだできていない未熟な君がだ。はっきり言おう。今の君の精神練磨ではまだ早い」
「…………」
わたしは奥歯と唇を同時に噛みしめていた。悔しいけどその通りだ。わたしなら絶対に試す。でも、そんな言いかたって。
セイはさっきまでのリラックスした表情から僅かに目をキツくしていて、その美貌で睨むように見据えられると委縮してしまうような、弱い動物になったような、そんな気にさせられる。
「今まで」低い声。
「え?」
「今までなぜ、自分は君に思考と無心をさせていたと思う?」
考えがよぎったことはある。でもわたしはその時々目の前にある課題に一生懸命で、深く考えていなかった。最初は、お茶を点てる心構えだと思っていた。一人前のお茶を点てられるようになるためだと思っていた。実際その通りなんだろうけど、セイはもっとその先を見ているような気がした。自分で考える力を身に付けろと言われていながら、わたしはやっている事の理由と目標を、完全にセイに委ねていたのだ。
思考と、無心と、無心の中で思考する理由。
「高めるため」自分でも声が頼りないのが分かる。
「何をだ?」
「心を」
「思考を深め無心に至ると心は高まるのか? 心を高めるとどうなる?」
「…………」
「目標のない努力は、いつか行き当たる。心を高めて、君はどうありたいと願う?」
「考えていなかった」下を向いた。
「愚かな答えだ。今、自分がいなくなったら君はどうするつもりだったんだ?」
「与えられた課題を……、こなしているだけでした……」
セイは息を吐き、遠くを見つめた。その気配がした。それが、その仕草がすごく、悲しかった。
真夏の暑い太陽と音も立てずに回る冷房と、このいやな静寂。
沈黙の後に、そっと顔を上げるとセイは斜めを見たまま言った。
「みはる」
「はい」
「ゲームセンターにいこうか」
自分に落ち込んで、セイの態度に落ち込んで、なんとなく嫌な気配になりそうな時、唐突にセイの口からゲームセンターなんて俗っぽい言葉が出てきたから落ち込んでいたのも忘れてわたしはまじまじと彼女の顔を見つめる。
「セイってゲームする人なの?」
「自分をなんだと思ってたんだ。行ったことくらいある。どうだ、行きたくはないか?」
「そりゃ行きたいけど」
「ならば行こう。すまなかった。そんな顔をするな。生き急ぐほど、君はまだ老いてはいない」
違和感だ。がちゃがちゃとうるさい馴染みの空間に、セイがいる。
そして駅前のゲームセンターに、タクシーで乗りつけるという違和感。
美しい彼女がセミカジュアルな服装でそこにいるという違和感。
「よし、では自分とゲームをしよう」セイがサングラスのまま店内を見渡して、その視線をわたしに戻す。
「今からするんでしょう?」
「ゲームの勝敗をかけた自分とのゲームだ。自分に勝ったら褒美をやろう。何がいい?」
「えーっ、急に言われても」
「ないのか。じゃあ別にいいんだぞ」
「待って待って。じゃあ、あれだあれ、お寿司が食べたい」勢いこんでわたしは言う。ご褒美、と言われてお寿司。バカだなあわたしも。
「この時期の寿司は足が早いから嫌なんだが、まあいい。ではまずはあれだ」
セイが指さしたのはバイクゲームだった。ん? もしかしてセイ、これのためにゲーセンに来たのかな?
お金を入れてシートにまたがる。となりにはセイ。セイはスロットルの握りを確認してまっすぐに画面を見つめる。なんら躊躇もなく、彼女が画面を選択していく。スタンバイになり、わたしもグリップを握り直す。
通常のコースを3周。最初は互角だった。折り返してわたしが3位。セイは6位だった。2週目で差が縮まった。セイは3位に付けていた。わたしは2位。そして最終コース。結果はセイが1位でわたしが6位だった。
「くやしいいーーー」
「派手にすっころんでたな」セイが笑う。
「バイクゲーム初めてってほんと? カッコいいから初めてって言ってるだけなんでしょ?」
「バカか君は。運転の経験はあるし、最初は操縦しながら君を見ていた。初見の自分に負けるとは情けないな、バイク好きのお嬢ちゃん」
にっくたらしい! ひにくや、いじわるっ!
「はははっ。次は何にする? 自分はクレーンゲームというものをやってみたかった」
「のぞむところだ!」
クレーンで惨敗、落ち物ゲームで惨敗、リズムゲームで惨敗、最終手段の格闘ゲームでも惨敗。わたしの得意が、音を立てて崩れてゆく。
「寿司食わせてやりたくてもこのままじゃなあ」
喫煙スペースで彼女は煙を吐き出し、わたしはなんとか勝てるものを、と店内を凝視する。
「セイはゲーマーだ。そうじゃなきゃおかしい。初めてってウソはもう聞き飽きた」
「ウソってなんだ。逆に君は何なら自分に勝てるんだ? ゲームが得意だというから連れてきてやったのに」
「色気」
「果てしなく愚かだな」
「セイはわたしのこと可愛くないんだ。可愛くないから負けてくれないんだ。セイみたいな美人は、非美人をバカにして生きてるんだ」
「感情的なすり替えは女の手法だ。よろしくない。その微妙な外見を卑下するものではない」
「ひっどーい」
セイは辺りも気にせず大声で笑って息を切らせた。そんな様子を、わたしはあたたかな目で見ていた。
「ねえ、セイの爆笑って初めて見た」
「ん? 自分は笑うぞ。君には笑わされてばかりだ」
「セイがすっごく好きだよ」
そう言うと、セイは煙草の火を丁寧に消してサングラスを外し、その大きな目でわたしを見つめた。セイの目は穏やかで、どこまでも遠くを見通している気がして、その中央にわたしが映っていることが現実ではないようだった。こんな人が、わたしの母なんだ。セイは若くて、綺麗すぎて、そんな彼女からの愛情を感じすぎて、どうしたらいいのか分からなかった。抱きしめても違う。キスをしても、きっと粘膜と粘膜を触れ合わせても。
食べたかった。
もぐもぐむしゃむしゃとセイを食べ尽くしてしまいたかった。セイの特別であるわたしを縛りつけて殴り倒してしまいたかった。今の今までのあたたかな気持ちであったのと同時に、沸き上がった衝動が座って優しい目をするセイを犯したかった。愚かで浅ましい考えが、セイを犯している。
「セイ。わたしなんか変だ。幸せなのに、愛されてるって伝わってるのに、それを逆に壊したいような。何でこんな気持ちなのか、自分で分からないの」
「思考」とセイが言った。「その感情は変でも何でもないよ。自分は今日まで君を育ててきて、育って欲しいと思っていたが、それ以上に君を止めてしまいたい。小さく矮小な君を、これ以上成長させたくないとも思う。何も知らない無垢な君を、自分も愛おしく壊してしまいたいと時によぎるよ。心の中は、常に泥に満ちている。君にどう見えていようが、自分の中は泥にまみれている。それが人間なんだ。人間の心理はいつだって紙一重だよ。何もかも許されるなら、嫌いな人間は殺したいだろう。何もかも許されるなら愛する人を裏切りたいだろう。愛情の極みとは、どこまでいっても理性の狭間だ。だから私たちは伝えねばならない。内の汚れを秘めたまま、君を愛していると、言葉で」
「わたしもセイを愛しているよ。どうしようもなく」
そう言うと、セイは瞳を閉ざし、すっとあけた目でわたしの中心を射抜いた。
「自分はみはるという存在を……」
言葉を切った。セイが。
「とても愛しく思うよ」
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