其は彼方
身体が疼いて目が覚めた。
窓を開け放して寝ていた寝室に、八月末のうすら暑いぬる風が澱んでいてシャツが汗を吸っていることが分かる。でも、そうじゃない。
この疼きは暑いからじゃない。身体がとても、苦しいのだ。ここで暮らし始めてもう二か月。初めてを経験してから二か月もわたしの中に他人を受け入れなかった事なんてなかったから、身体は疼き、火照るのだ。そこに指を当てると体が痺れる。朝起きてまずするのがオナグサメとはかなり情けないな。指を動かしながら、快感に身を委ねながら、わたしの頭は回り続けている。
セイに二つのアドバイスをもらってから、わたしの頭は常に稼働している、この二か月間ずっと。信じられないくらいに。忠実に。自分でもなんでそこまでってくらい。マシーンのように、その作業に埋没していた。
この瞬間ですら、わたしのこの心は言葉で満ちている。
最近はもう反射に近い。たまに勝手に何かを考えているわたしの頭に怒鳴りつけたくなるくらいフラストレーションが溜まるときもある。中度のノイローゼと同じだ。
今考えているのは性欲とはそもそも何だろうという事だった。
本能、なんて分かったような言い回しは、思考を止めてしまう。「むやみに知識を吸収するな」と言った彼女の言葉の意味が最近感覚として理解できるようになっていた。
何を見てもまず最初に名前を胸の中で呼び、それがどんな姿形かを表し、そこに付随する価値や他のものとの関係性を想像し、そしてわたし自身がそれをどう捉えているのかを考える。そうしていると、最初の頃は気づかなかったが、自分、というモノを常に意識するようになった。当たり前のことだったのだ。物も生き物も、何もかもは星の数ほどあるのに、それを受け止めるのは常に自分だけなのだから。
空しい一人遊びも終わり、わたしは朝食の準備をしていた。
自分が食べる用だ。セイはいつも朝昼の食事を食べたり食べなかったりするので、セイが食べない時は自分の分くらい自分で作るようになっていた。料理は、楽しい。別に女の子らしくそう思っている訳ではなく、食材を見て手を動かし考えながら料理する事はお茶を点てることにも通じていて、そして常に言語化するための訓練でもあった。
例えば。今手にとっているサニーレタスはどこで栽培されどう育てられていたのか、とか。そこに関わる人や気候。手元に届くまでの経路。そもそもレタスの原産はどこなのか原種はなんだったのか。美味しいレタスとそうでないやつとの違い。他の家庭ではどうやって調理するのか。レタス一つで思考は無限に広がる。地球に生えた最初の大樹の根のようにどこまでも伸びてゆく。そして、その永遠の広がりはわたし、という何かに収束してゆく。
だけどわたしという「わたし」の事を考える時、思考は止まる。
ありきたりな、聞いたことのあるような言い方をすれば、悩み苦悩した果てで「わたしは、わたしなんだっ!」とバカのように悟ったふりをして投げ出してしまうのも手だとは思う。でもわたしはもう知っている。わたしはわたしというモノのことを、何も知らないのだ。
その時リビングの扉が開き、黒の上下のハーフトップとスパッツ姿のセイが「おはよう」と言って入ってきて、いつものソファに座り煙草に丁寧に火を点けた。彼女はふうと煙を吐き出し、料理していたわたしの顔を見て、「だいぶきわまってきたな」と言った。
「どういうこと」
「君は最近鏡を見たか」
「毎日見てるよ」
「何を感じた?」
「何を感じていいのか分からなくなっていたところ」
なるほど、とセイは呟いて手のひらであごを支え指を頬に添わせながら楽しそうに笑った。
「何がおかしいの」少し、むっとした。
「茶を点ててくれ」
「目は見える? わたしは今調理中なの」
「朝からオナニーする元気があるんだから自分みたいにプロテインドリンクでも飲んでりゃ充分だ」
「見たの?」声に怒りが増す。
「声聞こえてたぞ。君は色んな事に自分より奔放だが、さっきも言ったように、だいぶきわまってきたな」
「だから何なのそれ!」ついカっとなって大声を出した。わたしのイラ立ちにとり合わないセイが憎かった。セイは冷静に私の顔を見つめた。
「落ち着け。簡単に感情が激っするのは心が凪いでいない証拠だ。今すぐ茶を点てろ。これは命令だ」
「いやだ。わたしはお腹がすいてるって言ったでしょ」あとで思えば、甘えがどこかに、確かにあった。甘えた鬱憤の矛先に、セイは容赦をしなかった。
「いいからやれっ!」
突然、セイが怒鳴った。熱が、退いた。信じられなかった。セイが、わたしを怒鳴ったのだ。どんな時にでも余裕の表情ではるか高みにいるあのセイが……。
冷たい蛇に絞め殺されるような静寂がキッチンに揺蕩っていた。
気がつけば静かな声が聞こえた。
「自分が怒る事はないとでも思っていたか」
「やります……」
「それでいい」
わたしはショック状態で火を止め、カウンターキッチンに向かう。心が真っ白だった。並べてあった茶器に震えそうな手を伸ばそうとするとセイの声が後ろから聞こえた。
「点てる前に、正座して目を閉じろ。別に罰じゃない。最近は正座を体罰だなどと言うが、あるべき場所に心を落ち着けるために非常に有効な手段だ」
わたしはおとなしくリビングの床に正座する。無意識に「正座とは」と頭に浮かびかけて発狂しそうになった。わたしはきっと、限界だった。今日、限界だった。セイは精巧な細工模様のように、それを見抜いていたのだ。
気配で、セイがわたしの前にいることが分かった。おそらく、セイもわたしの前で正座している。
「君は今日まで忠実に自分の言いつけを守っていたようだな。褒めてやる。そして、今まで君がしていた事は児戯だったということも付け加えておこう」
「じぎって、なんだっけ」
「読んで字のごとく、子どもの遊びだ」
「そうなの? こんなに訳が分からなくなってるのに」
「おそらく、君がしていたのは君なりのただの連想ゲームだ。真の禅とは似て異なる、ままの子どもの遊びだ。まあいい。そんな君に唐突だが、無になる方法を教えよう。これは実は子どもでもできる。瞼を閉じているな? そこに何が見える? 純粋な視覚として、何が見える?」
閉じた目で見てみる。
「暗くて、部屋の、入ってくる日差しのせいでちょっとだけ赤く光っている」
「なるほど。では両手で瞼を覆え。手のひらでもいいが、お勧めは握った拳の親指と人差し指の窪みに眼球を押し当てる感じだ」
その通りにやってみる。
「今度は何が見える」
「暗くなった。あと、さっきまでの赤が、残像のように残っている」
「正座のまま手はそのままで、楽にしろ。目に当てている拳の力を抜け。どこも力ませることなく同じ姿勢を保て」
しばらく、無言の時が過ぎる。どれくらいの時間が経ったのか分からなくなる頃、セイの声がそっと響いた。
「何が見える」
「ただ真っ黒な、黒。でも何かがもやもやとしてる」
「いいだろう。では次だ。君は今どうしている」
「正座」
「そうだな。他には」
「手を目に」
「他には」
「黒を見ている」
「それはもう聞いた」
「分からないよ」
セイはすぐには答えなかった。セイの触手は今きっとわたしの身体を丸裸にしていて、実験台の標本のように無防備にその手に触れられている。
幼い自分が、恥ずかしかった。
何故今追いつけないのかって、自分が歯がゆかった。
綺麗で大人な女の人の前で、幼いわたしはまるで剥きたてのタマゴだった。
「君に見えていなかったものは、なんだろうか。この姿勢で、黒を見て、さっきよりも落ち着いた気持ちで、私の問いかけに従う君の身体は今、何をしている」
「何もしてないよ」
「それは違う」
「ウソじゃないって」
「では君の胸が膨らみ、戻り、また膨らむのは何故だ」
「息をしているから」
「そうだな。その通りだ。じゃあ何故聞かれないと答えられなかったんだ」
「それは……」
「いいだろう。茶を点てることを許可する」
「はい」
「うん。最近の中では今日の茶が一番美味いな」
「えっ!」
信じられなかった。セイが、美味いと言った。言ったのだ!
「なぜだろうね。この茶が美味いのは」
「さあ、久しぶりに落ち着いた気持ちで点てたからかな」
「もうひとつ忘れていないか? その落ち着いた気持ちで、私のために点てたんだろう」
「うん。忘れてないよ」
この茶は、と言いさして、セイは茶碗から目を離ししばらくわたしの顔を眺める。
「この茶は、自分の点てた茶に近いと言っていい」
「ホント?」なんだなんだ、今日のセイは、厳しくて優しくて、まるでセイのようなセイじゃないかっ!
「遠く及ばないが、ようやく同じカテゴリーには属したといった程度だ」
「それでもいいよ」
「それではご褒美に、自分の物をひとつプレゼントしよう。少し待っていろ」
セイは寝室に入りすぐ戻ってきた。
「本?」
「それは太極拳の解説本だ。似たものは街の本屋にもたくさんあるがちょうどいいから君にあげよう」
「つまり、心を鍛えきったから、次は身体を鍛えろってこと?」
「ウルトラバカだな、君は。ははっ、久しぶりに君らしい君の発言を聞いた気がする。今鏡を見たらきっと驚くぞ、さっきまでとはまるで違う」
「じゃあこの本の意図は?」
「さっきも言ったが、君の茶は自分の茶に近くなった。なぜならば茶を点てる時、君は無心でありながら考えられるようになりはじめたからだ。矛盾した言い方だと思うか」
「ううん、分かるよ」
「これは、君の愚かな努力の賜物だろう。そしてさっき。君は点茶以外で初めて無心になったはずだ。正座してな。では次は何だと思う」
「すごく雑に言うと、太極拳をしながら無心でいられるために」
「そう。自分という身体を見つめ、動かしながら無心でいられるためにだ。おそらくこれは時間をかければ非常に簡単なはずだ。理由は、茶を点てる時動作しながらも君は無心だ。茶以外でも、深く落ち着ける環境以外でもそれをやれってだけの話だ」
セイは久しぶりに先生モードのセイになっていて、わたしは普段無限に甘やかしてくれるセイもその偉大さと深さに敬服するセイも大好きだったけれど、先生モードのセイの前では、教えられているのにワクワクするような気持ちになる。
でも。
「それは表面的な説明だよね。その上で何を掴むのか、って事でしょ」
「ふむ。君も言葉の裏を酌めるようになってきたか。だが自分にとって君はまだ裸の赤ちゃんと同じだ。図に乗るなよ」
言葉とは裏腹に、目を垂らしたセイがわたしを抱きしめた。わたしの長い髪がセイの首筋にあたっている。わたしはセイの胸に抱かれながら、今、はじめて生まれてきたかのように感じていた。
「みはる」
「なあに」
「私はとても孤独だ。とても長い距離を、階段を、もうずいぶんと登ってしまった。だけど見上げたその先には登ってきた距離が零に見えるほど果てない階段が続いている。みはるは今、無心でいられるのはごくわずかだろう。そこに入る事自体にもまだ高い集中と時間がかかるはずだ。だが私は瞬きをする間に無心になれる。いいや。常に無心でいられるんだ。この心持ちでいると、色んなことが見えてくる。すべては、繋がっている。だからひとつの事を極めると、他の色んな事ができるようになるんだよ。それはとても楽しくて、同時に私の命の儚さを知るんだ。忘れないで。みはるはみはるでしかないということを。そして、私は私でしかないということを」
セイの腕の中で、すべてが穏やかに吸いこまれ吸いこみ溶けあっているようだった。緩やかな、セイの鼓動を聞いた。セイには、赤い血が流れている。青でも緑でもなく赤い血が。わたしと同じ血が。溶けているセイが流れ込んできた。セイの立つ場所は、彼方だった。でも今は等しく混じりあっている。目を閉じれば彼方だった。
無心と無心はわたしとセイの唇を重ね合わせ恍惚と喪失に似た何かの感情を、無心の中で感じていた。
川との境目、海が橙に輝いている。キラキラ、キラキラと眩さは終わることがない。
水平線の向こうへと太陽は少しずつ沈んでゆく。橋の欄干は鋼材とアスファルトで組み上げられていて、わたしはそこに両腕を乗せ体を預けながら通り過ぎる船や空を舞う鳥たちの動きを見つめていた。
「知っているかもしれないが、この時間帯を黄昏と言う」
セイは紺のノースリーブのピタッとした上と細いブルージーンズを履いていて、途中で買ったウィスキーの小さな角瓶を片手に持ってそう言った。
「それくらいはさすがに。こう言いたいんでしょ、黄昏はたれぞかれが語源だって」
「知っていたか。じゃあ本来の読みを知っているか。黄に昏いと書いて何と読むか」
「えーっと、こうこん?」
「ふふっ。当たりだ」
「ふふん。中卒だからってそれくらい分かるよ」
「この夕焼けの向こうにいるのが誰だか分かり難い、つまり、たれそかれ、たそかれが、いつしかたそがれになり、同じ意味のこうこんの文字を当て字に今の黄昏という言葉が生まれた」
「へえ。思ったんだけどさ、知識を得過ぎるなって言うわりには、セイはよく豆知識を披露するよね」
「そうだな。器の未熟な君には多い言葉は邪魔になると思った、と言うのは詭弁だな」
「じゃあ本当は?」
「前にも言ったが、自分にはどうやらユーモアのセンスというのが足りてないらしい。その替わりだな」
セイは苦笑して角瓶に口をつけた。
「すっごーーく、バカなことを言ってもいい?」
「いつも言ってるだろう。なんだ」
「無心ってさ、心をオフにするってのに似てない? 疲れた現代人が『蒸気でアイマスク』外した時みたいな」
「くくく、なるほどな。よし、じゃあ裏技を教えてやる」
「なになに」
「穏やかな気持ちでベッドに横になり、そっと性感帯を触ってみろ。それもまた無心だ」
「ウソだあ!」
「あながちウソじゃない。自力で無心になるか外的要因で無心に持っていくかの差でしかない。まあ、誤解覚悟で極論するならそうだ」
「わたしは今まで何をやらされてたの?」
「自分がしろと言ったのは、思考を深め、そして無心によりそこから抜け出す、ということだ。もちろん真の心の無心とは似て異なるがな。君がいっぱいいっぱいだった時、今朝も朝からオナニーしてただろう。身体は無意識に分かっていたんだよ」
「酒をよこせ」
「よかろう」
わたしは憮然とした気持ちでセイの手から角瓶を奪いとりラッパ飲みした。
「きわみを教えよう」
なに、と目で聞く。
「酒を飲んでオナニーしながら『蒸気でアイマスク』したら完璧だ。覚えておくといい」
口に含んでいたウィスキーが、霧のように吹きだされた。
「言っておくが、今のは冗談だからな」
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