太陽
「ホットドッグでもよかったの」
「あ?」
「フィレオフィッシュでも揚げドーナッツでも。でも、セイと一緒に、食べたかったの」
「フィレオフィッシュと同格じゃ、大将も胃の痛い思いだろう」
セイが笑って炙った穴子をすすった。
「セイさんのお連れさんにそう言われちゃあ、ワタシもまだまだ頑張らんといかんですなあ」
お寿司屋さんの大将さんが笑って、新子だという握りをわたしの前に置いた。
全敗のゲーセン勝負のあとに、結局連れてきてくれたお寿司屋さん。フランス料理の時もそうだったけど、わたしのこの場違い感が半端ない。
そう思っていると、さっきの会話の続きを話すように付け台の向こうから大将さんが口を開く。
「でもね。味のウマいマズいなんてねえ、人それぞれです。美味いなら何度でも食べたくなるのが人です。お嬢さん。職人のこだわりなんて屁みたいなもんだ。美味い、また来たいって思ってくれるのが、ありがたいお客です。美味い、ってのは特別なんです。それが自分らの生きる糧なんです」
心に染みてくる、真心がある。きっと大将さんも家に帰れば一人の旦那さんで、誰かのお父さんだと思う。怒ったり笑ったり、普通のお父さんなんだろう。だけど今こうやって、わたしに笑いかけてくれる大将さんの目には曇りがない。わたしは何だか、口にほおばる新子に目頭が熱くなった。
「感性豊かだろう、この子は。大将に会わせてもいいと思った数少ない子だ」
セイが伏し目で日本酒のお猪口を握りながら大将さんに話しかける。
「職人ながら、嬉しい顔してくれますねえ」
「それがこの子のいいところだ」
「大将さん、ベリーグッド!」
「ベリーグッドか! そりゃあ良かった!」
人の感情が、ダイレクトに自分の喜びになる。
そんな幸せを、初めて知った。
帰りのタクシーの中で、濃紺の街に街路灯の灯りがよぎり飛んでいくのを窓ガラスの奥に見ていた。
「美味かったって、顔に書いてあるな」
「うん。すっごく美味しかった。でもセイは贅沢。今日改めて分かった。セイは贅沢だよ」
「なんだ、急に?」
「お会計の時の金額見ちゃった。連れてきてくれて当たり前のように食べさせてくれて、それでさっとお会計でしょ? カッコよすぎるよ。あんなお寿司を食べられるセイはやっぱ贅沢だ」
セイは笑って頬杖をついた。嬉しそうに前を見ながら語りかけてくる。
「美味くて技術のある食事が割高なのは当たり前だ。それでも食べたいと思うから人は店に足を運ぶんだ。大将も言っていただろう。美味いと思ってくれるのが上客だって。毎週のように来るからお得意さんなんじゃない。例えば年に一回しか来なくても、その一回を大事に味わう。確かな料理人は人を見るし、料理人もまた人だ。気に入った人に、丹精込めた自分の料理を喜んでもらいたい。当たり前の話だ。茶にも通じるだろう?」
お茶にも通じる、心の話。しばらくお互いに口を開かず、それぞれの思惑にふける。
わたしがずっと、封じ込めていた感情。憧れっていう不相応な感情。でもわたしはセイと出会ってしまった。いつの間にかセイのように、と思ってしまった。綺麗で、余裕があって、優しくて、大人で。全部わたしにはないもの。少しでも近づきたいと思ってしまった。その場限りで生きてきたわたしがいつの間にか。
暗い夜道に、人口光が浮かんでは消える。
そっとセイを見ると彼女は視線に気づきふっと笑ってわたしの頭を撫でた。
わたしは考えていた事をセイにぶつける。
「お茶とお寿司と。ほかもぜんぶ。考えてたんだけどね、わたし、ちゃんとマナーを学びたい。知っているということを、もっと大事にしたいの」
「知っているを、か」
「心が大事っていうセイの言葉は分かるよ。でも今日、わたしはきっとマナーとかめちゃくちゃだった。セイがせっかく連れてきてくれたのに、きっと恥をかかせちゃった。知りたいの。洗練されて、いつか辿り着く礼儀や作法なら、知っていたい。今」
その答えにセイは黙り、肘をついていた右手で額の髪をかき上げた。
「知りたいのなら、考えろ。そして必要なら自分が教えよう。だけど、約束してくれ。捉われないことを。大人のマナー、みたいな低俗な書籍が世の中には溢れている。その通りにやって、『気の利いた一言』が言えるのがマナーなんじゃない。前にも言ったな。君らしくいること。それを大事にして欲しいって」
「分かってるよ」
「それは違う」とセイは言った。「今日の君は100点だった。自分は恥をかいたなどと思ってはいない。それでもマナーを知りたいという君の気持ちは今、自分に向いている。本当はただ、それだけでいいんだよ」
「だからもっとって思うの。このお寿司の握りが、どうすごいのかを言葉で表したい。敬意を所作で表したい。子どもでいられないの。いたくないの。今、らしくない自分でも、未来にそうあっていたいの。セイ。わたしもう来月には16だよ? 四年経てば成人しちゃう。四年後に大人になって、心のまま無邪気にベリーグッドとしか言えないバカな自分のままでいたくないの!」感情が高ぶっているのが自分で分かる。
「なぜ、そう思う?」わたしとは逆に、セイの冷たいような無機質な声が聞こえた。
「この感情を制御できないから」
「感情を持て余すのは、君が心を真っ直ぐに育ててきたからだ。そうだな、それもいいかもしれない」
セイは一言一言をはっきりと発音していた言葉を切って、沈黙のあとわたしを見つめた。
「君はそろそろ、真っ直ぐに生きなくてもいいのかも知れない」
「煙草の火、熱燗、会計。どれも『つける』だ。日本には実につけるものがたくさんあるな。電気も、気をつけるって言葉もそうだ」
「うん」
「日本語は美しく難しい言語だなどと言う人間もいるが、同音異義語が多い言語でもある。外国人がネイティブと同じくらい日本語を話せるようになるよりも、日本人が英語を流暢に話す方が簡単だ、と言われているのはこの為でもある」
「その話が、どこでマナーにつながっていくの?」
リビングの一人掛けソファに腰かけて、いつもの向かいに座るセイに首を傾げる。
「ふむ。じゃあ話を簡単にしようか。日本人と、例えばアメリカ人の違いはどんなところに感じる?」
「金髪」
「それから?」
「ハンバーガー」
「単語でしか話せんのか、君は」セイは呆れたように目を細める。
「うーん。見た目も違うし、言葉も違うし、文化も違うし。あ、コミュニケーションも違うよね。向こうの方がフランクで、日本人は奥ゆかしくて真面目みたいな」
「そうだな。当たり前だがあくまでそれは国民性だけどな。じゃあ問いをひとつ難しくしようか。物事の捉え方、精神の違いを言ってみろ。一般的な意見になってもいいから考えてみろ」
「そもそもわたし外人の知り合いいないし、ってのは言い訳だね」
頭を捻る。物事の捉え方と精神か。まず日本人は? 例えば日本に来た観光客に、日本人は他の国の人より親切だって聞く。あ、おもてなしってやつか。サービス精神? なんかこの言い方は合ってない気がするけど。ほかは、なんだろう。勤勉とか。あとユーモアが少ないとか、愛想笑いが多いとか。あとあれだ。集団で同じことをするってやつも。
雑に考えると、外人は全部逆って事か。だから違和感を感じるんだろうな。
「外人は不親切で不真面目で冗談が好きで愛想笑いしなくて集団で同じ事しない」
「はははっ。アメリカ人が聞いたら怒りそうだが、じゃあそれを踏まえて彼らと我々は何が違う?」
「全部違う」
「バカか君は。じゃあ同じところは?」
また考える。同じとこってなんだ? 何もない気がするけど。深く考える。だけど今度は何も浮かばなかった。そりゃ同じ人間だから何かしらあるんだろうけど、分からんもんは分からん。
「悩んでるみたいだな」
セイが笑って足を投げ出した。すらっとした生足が二人掛けソファの方にかけられる。わたしも足をかけてセイと同じポーズになる。
「どうやら君はこの手の質問に弱いな」
「そう?」
「覚えているか? 自分が怒鳴って、君が茶を点てる前に正座して話したことを。あの時、君の心は凪いでいたな。自分を深く見つめていたな。それなのに君の身体が呼吸している事に言われるまで気付かなかった」
言われて、何かが見えた気がした。さ、と光が差した気がした。
「セイ、もうちょっと、もうちょっと待って。何かつかめてきた」
「うん。そのようだな」
あの時、なぜ見えなかったんだろう。そして今、なぜ外人と同じ部分が見えないんだろう。
それは……。
「当たり前、には気付きにくい」
「そうだ」
セイは正解だというように右目を笑わせて息を吐いた。
「当たり前に気づかないという事。これはどういう事だろうか? 最後の問いは哲学だ。今までここで生活してきた君なら答えられるはずだ」
即答できる自信があった。そのまま、浮かぶ言葉を口にする。
「うん。今なら分かる。自分は、見えない。当たり前っていうのは、自分の感じ方なんだと思う。自分にとって当たり前だから、思考するまでもなく当たり前だから、だから言語化しにくい。違和感がないから、伝えるのが難しい。自分は自分だから。そして、そうか。セイはきっと、ずっと待っていてくれたんだね」
わたしの言葉に、彼女はゆっくりと瞼を閉じ、うっすらと透き通るような暗く深い瞳を細く開いた。
「そうだよ。君がここまで来ることを、一つの通過点として、自分は待っていた。みはるは今、自己を見つめるという、高く果てない階段の前に立っている。引き返すのなら、もう今しかない。正直に言うよ。私はみはるに、自分と同じ道を歩ませていいのか分からないんだ。そうなって欲しいと思う。そうならないで欲しいとも思う。きっと言ってはいけない言葉なのだろうけど、深淵に迫る、という事は、己でなくなる、という事だと思う。だから私は、事あるごとにみはるらしく、と言い続けた」
セイの鈍く死んだような声に、優しく答える。
「セイはやっぱり大甘だね」
「お願いだから、出て行くって、言ってくれないか? もう私とは会わないって、そう言ってくれないか?」セイは俯いて、泣いていた。溢れるほどに、次々に涙が溢れている。喉が、苦しそうに震えている。
強いセイ。美しいセイ。気高いセイ。皮肉屋なセイ。笑うセイ。眠そうなセイ。
そして。
吹けば消えてしまいそうな、この、目の前の弱く頼りないセイ。
「どこにも行かないよ。セイはわたしの太陽で、わたしはセイの太陽だから」
せめて、笑って言った。
若く愚かで何もないわたしだから。
セイはいつしか泣きやんで、ぐったりとしたように二人掛けソファでわたしの膝を枕に身を横たえていた。
「マナーの話の続き。知りたいか?」
「今はいいよ」
「じゃあ概念だけ説明する。マナーは、ただの常識人であるという証だ。街中で暴れるやつは捕まるだろう? 同じなんだよ。店に行って箸の使い方が下手なら、幼少期の教育や普段良い店に行き慣れていないって思われる。ただそれだけだ。世間の当たり前を刷り込む行為がマナーだ。君が思うようなエレガントな大人の世界なんてないんだよ。マナー、仕来たり、大暴走しなきゃ多少違ったっていいんだよ」
「でも一流の料理屋さんはマナー厳守でしょ? 前みたいにドレスコードとか」
「どのラインに最低限を置いてるかによる。格式高くマナー厳守にこだわる店は一流なんかじゃない。まあまあ美味い三流店だ。さっきの大将もそうだったが、店の雰囲気やほかの客に過度な迷惑をかけなければ、楽しく食事してくれるのが一番なんだよ。それが固定観念を外した、本来の人の気持ちというものだ。マナーから外れたら恥、なんてあざ笑うやつは蹴っ飛ばしてやればいいのさ。君は今日、君らしく振る舞って、あの場にいる誰もが君を温かく見ていた。それらしい振る舞いなんてそのうち嫌でも身に着くものだ」
「ありがとう」
セイは目を閉じてわたしのスカートで涙の残りを拭いた。
「焦ってくれてたんだな。私のために」
「うん。それに今日もセイはカッコよかったから、わたしもそうなりたかったの」
「さっきまであんだけ泣いてた自分みたいにか?」セイが照れたように呟いてわたしの素足の腿にキスをした。
「やっぱりスキンシップが好きだね、セイは」
「そうかもな」
「さびしんぼなんだね、きっと」
「何がだよ」
「可哀想な、おバカさん」
そう言って膝にいるセイの髪を抱いた。
「ずっとセイの傍に居るよ」
そこは真っ白だった。
何もなく、どこまでも広く、永遠が無限に広がっていた。
浮かぶのは思考のみ。
その思考も、彼岸の呼び声のように頼りない。
遠くにある現実は、どうやって手を伸ばしたらいいのか分からず、届きたいのかどうかさえも分からない。
手のひらを見る。
何もなかった。
ある筈の場所に、なにもなかった。
白の世界で、わたしの小さな心だけが、そこにあった。
そんな夢を見た。
目を覚ますと風がわたしを包んで、カーテンを撫でて部屋を通り抜けていく。
いつもの部屋。
いつもより少し早く起きた朝。
風が違った。
「秋風だ」
呟いていた。
残暑はまだまだ続くのだろうけど、やっと今年初めて秋の気配を感じた。タオルケットから抜け出し、ベランダに出た。
東の空に大気をそっと染める太陽が顔を出しかけていた。わたしはそれを眺めていた。切なくなるような鮮やかな薄紅色が広がっている。そして見る間に黄色がかった色彩に変化していって、やがて色を失い、少しずつ黄金の光に変わってゆき浮かぶ空の淡青と混じる。海の見えるこのベランダが、少しずついつもの場所に戻ってゆく。見える景色はいつもの風景に戻り、今が今になってゆく。
不思議な時間は一瞬だった。
あのわずか数分足らずで夜は朝になっていて、言葉にすればそれはただの朝焼けなんだろうけど、こんなにも美しい世界が毎日巡っていたなんてにわかには信じられず、お酒を飲んだ時のように何だかふわふわと軽く呆けたようにわたしは東の太陽を見ていた。
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