舐める


 今日も今日とて朝のお茶を点てる。

 でも今日はひとつ課題があった。

「目を閉じてすべてやってみろ」とセイに言われたのだ。

 わたしはセイの「胸当て」を顔に被せられ手を引かれてカウンターキッチンに立つ。

「セイにはこういう嗜好があったんだ」わたしは手で茶筒を探しながら冗談を言う。

「舐めてんのか。いいからやれ」

 セイの声を聞きながら、このつっけんどんな声も、普段無表情な顔も頭に浮かんできて小さく笑みをこぼす。

 こつん、と甲に何かが触れてかんっとアルミの茶筒の倒れる音がした。なるほど、動きに慎重さが求められるな、これは。

「ひとつアドバイスをしよう。あるべき場所にあるのなら、それは今日までの点茶と何も変わらない。ここで茶を点てるようになってから二週間ほど経つな。君が真剣にやっていたのなら君の身体は覚えているはずだ」

 少し、空気が震えた。ぴんと張りつめた。わたしの気のせいかもしれない。でもセイは今初めて厳しいオーラをその身体から醸し出している。

 考えて、手が止まった。あるべき場所に。それは当然道具のことだろう。だけどどんなお茶を点てても「うん」としか言わず一切感想も注意もしなかった彼女が、そんなアドバイスをわざわざするだろうか。わたしに考える事を唯一させる彼女が。

「長考していい。できると思ったら始めろ」セイの声が遠くで聞こえる。遠いような気がした。

 まず、考える事は。そうだな、まず、この落ち着かない気持ちを落ち着けよう。息を吸い吐いた。もう一度こんどは深く呼吸する。そして浅くもう一度。

 良し。うん。じゃあどうしよう。とりあえず普段置いていた位置に道具を持っていくか。さっきの事があったので動きはゆっくりと。頭の中でイメージする。茶碗は正面に、右手の届くところに茶筒と茶せん。左手奥にポットとコップ。

 こうやって手探りしていて改めて感じる。これはずいぶんと変則的な茶道なんだと。だって座敷でも正座でもなく、使うのは棗でも茶釜でもないのだから。しかも言葉に浮かべると違和感だ。茶道にコップとポットって。

 セイはこの茶道の真似事で何をさせたいのだろう。

「セイ。聞いてもいい?」

「なんだ」

「わたしのやり方は、いろいろと間違っているよね」

「そうだな」

「じゃあ……」

「君がしてきた事を君はただやればいい。以上だ」

 あっさりだなー。予想通りと言えばそうだ。まあいいや。手探りでポットから湯をコップに入れる。それを茶碗にうつす。茶筒を開ける。香る。蓋を伏せる。茶碗の位置。抹茶を入れようとして、手が茶碗の熱を感じる。そうだ、この湯を捨てなくては。いつもだったら目で見てそうだと分かるのに、出来上がりつつあると思っていたルーティーンが視覚を奪われただけで簡単に崩れる。

「ボールを取って来よう」声がそう言って動く気配がした。

 こんなにも傍にいたのだ。微かな足音とガラスの音がして、近づいてきた気配がわたしの左手にボールを触れさせる。今はもう、そこにいるのだと分かる。匂いが気配がする。

 湯を捨てる。もう一つ気づいた。こうしていると自分の考えが、感情が、よく見える。また息を吐き、茶碗に抹茶を一掻き半。少しこぼした事が右手のわずかな重みの違いで分かる。再びコップに湯を入れ茶碗にうつす。量はどうだろう。そうか。今まで耳と傾けたコップの重みで分かっていたような気がしていたが実はここも目で見ていたんだな。茶碗を持ち上げる。少し重いくらいだ。

「今日はそれでいい」と聞こえた。

 指先がゆっくりと茶せんに触れる。右手の収まりの良い場所にそれを構え左手を茶碗に添える。

 点てる。

 丁寧に。均一に混ざるように。そして腕を振る。茶せんと茶碗が触れ合う音がする。しゃかしゃかしゃかしゃか。右手の感覚が、そうである事を告げる。最後にゆっくりとかき回しすうと茶せんを引いた。

「できた」

「飲んでみろ」

 目隠しのまま口につける。

「やっぱりすこし薄いかな」

「見るのはそこじゃない。濃さ薄さ以外を見ろ」

「じゃあ、違いは特に感じないけど」

 どれ、と言ってセイはわたしの目隠しを取る。

「これが君が点てた茶だ」

 目を開けると、光が差し込んだ。目を凝らすと薄く泡立つ抹茶がある。

「目隠しの割には上手くできたと思ったんだけどな」

「だが違う」

「細かな違いというなら、確かにそうだね」

「そうではない。この茶には、人に出すという意思がない。この惨状は作業の果てだ。君が今まで点てた茶の中で一番不味い」

 そう言って、セイは飲みもせずお茶をボールに流した。セイが初めて、わたしが点てたお茶を、捨てたのだ!

 わたしは黙ってしまった。お遊びのつもりで目隠しをされて、引き締まった気配に本気になって、見えない中いつもと異なる感じ方に夢中になって。いつものように「うん」と言って、笑った右目で褒めてくれるんだと思っていた。ああ、わたしは、いつの間にかセイに褒めてほしくなっていたんだ。それなのに点てている時、わたしはセイの事を何も考えていなかった。褒めてほしくて、いつか言葉でも褒めてくれると信じて毎日点てていたお茶だったのに。

「言っただろう。あるべき場所にあるのなら、と。目を塞いだだけで君の胸から私は居なくなるんだな」


「本当は茶道である必要なんかなかった。この世にある何でも良かった。君を育てられるのなら」

 言いながら、セイがお茶を点てている。

 美しいのだ。美醜でも気品でもなく、美しいのだ。わたしと同じ動きなのに、柔らかく。雪に照り返す光のように眩く。茶器たちにセイは慈しむように触れ、そこに心が見える。すべての動作にそれがある。場所はさっきと変わらない。いつものカウンターキッチン。セイとわたしは同じように立ったままお茶を点てているのにセイの立ち姿は線路のように真っ直ぐと整っている。

「私は今何を考えていると思う」セイが流れる所作のまま口を開く。

「無になってる?」

「そうだ。雑念のない無。無心と作業は違う。もちろん何も考えていないだけとも違う。そして。その無心にひとつ、浮かぶものがある」

「…………」

「覚えておくといい。それは、みはるの笑顔だ」

 すっと差し出された茶碗に口をつけた。

「どうだ」

「…………、死んじゃいたい……」

 涙が溢れた。この荒れ狂う感情を。それなのに温かく守られているようなこの感覚を。白に黒を垂らしたように混沌と渦巻いている、わたしの色んな気持ちたち。

 この! この心はなんだ! セイから伝わってくるこの心はっ!

 聞きかじったよ、分かった気でいたよ。でもそうじゃない。お茶には、心が、宿っている。

 そんなわたしの様子を見て、セイは目を伏せ、静かに語りかけてくる。

「君は舐めていた。茶を点てるとゆう事を。作法も礼儀も本当はどうでもいい。それは茶を点てる各々が自然に洗練されて辿り着く一つの形でしかない。脈々と紡がれてきた先人の作法に敬意を払い、その上で君はもっと君らしく茶を点てろ。うまくできるのならミキサーを使ったっていい」

「うん。うん!」涙が、拭うほどに零れる、それでも聞き逃してはならないと感じていた。セイの教えが今、とても尊いのだ。

「君に頭と五感を使えと言ったな。考え、身体を動かし、その繰り返しが技になる。君はやがて辿り着くだろう。考える事なく体が動くその境地に。そこでやっと君は自分の心を垣間見れる。人を想い物とは何であるかを知り、そして終わりのない高みへの階段に足をかける」

「はい」

「初めてはいと言ったな」

 降り注ぐような声。セイはこの世にあるもっとも優しい光を湛えた笑みでわたしの頭を撫でた。

「ねえ聞いて。はいとか、分かりましたって、嫌いなの。バカな大人にそんな言葉言いたくなかった。敬語なんて絶対使ってやるものかって思ってた。わたしのタメ口にバカはみんな怒るの。わたしの返事はうんでオーケーだった。なのにセイは初めからわたしの口調を当たり前のように受け入れてくれてたよね」

「オーケーは否定したけどな」

「セイが言うならオーケーもやめる!」強く言った。わたしの中の何かが、強く言わせていた。

「やめなくていい。それが理由なら折れるべきは自分だ。もう慣れてきたしな」

「オーケーの何が嫌だったの」

「ローマ字でOKと書くと、首を切られて横たわる人の絵のように見える。子どものころに発見してな。理由はただそれだけだ」

「そういう事か」

「まあ、君が君なりのこだわりを持って言葉を大切にしているのは分かった。これは自分にとって良いニュースだ」

「オーケー」わたしは涙を拭い、ようやく笑顔を浮かべる。

「ふん。君はもしかしたら才能があるのかもしれんな。ある人に言わせると自分は少々真面目過ぎるところがあるらしい」

「誰に言われたの?」

「近しい誰か、にだ」

 そう言って彼女はわたしの涙の痕を舐めた。

 舌で。ぺろりと。

「この味を、私は忘れないだろう」

 木霊のように、セイの囁きが耳を打った。


 湯気が立ち込めている。

「みはるはどんな人間になりたい」セイの声が良く響く。

「そうだなあ、セイのようになりたい」わたしの声も響く。

 午前のバスルームでわたしたちはひとつの湯に浸かり、話し合う。

「自分みたいに? くくく、これは傑作だな」

 濡れた髪を額に張りつかせたセイが低く喉を鳴らす。やっぱり笑い方が獣だ、と胸の内で思う。

「どうすればなれるかな」

「口で言って今日なれちまったら自分の立つ瀬がないだろう」

「またアドバイスが欲しいの」

 そう言うと彼女は綺麗に鋭角な眉を寄せて仕方ないなという顔になる。

「その気持ちは分からないでもない。かつて自分もある人に教えを乞うていた頃はそうだった」

「またある人なの?」

「自分が言う『ある人』とは、近しい誰かの総称だ。ひとりの事じゃない。だがある人はもっと厳しかったぞ」

「セイは優しいもの」

「本当は違うんだけどな」

 セイは左右非対称な顔で口を歪める。そのままお湯に広がるわたしの髪をすくいさらさらと梳いた。その指は白く長く、わたしの頬をそっと撫でて、それから胸の先をぴんとはねた。

「なにするの」

「娘へのスキンシップだ」

「どうして、わたしを拾ってくれたの」言いながら、二回目だなと思った。

「人はこのような時、自分と他人を確認したくなる。若いな、君は。肌もぷりっぷりだ」

「答えて」

「愛してるからだよ」バスタブの中で恥ずかし気もなくあぐらをかいて縁に両肘をかけたセイは恥ずかしげもなく真顔でわたしを見返し愛してるからだよと言った。

「暮らし始めてたった二週間なのに?」もう伝わってしまっているのにひねくれたセリフが口をつく。

「娘を愛おしくない母親がいるか」

「その言い方はズルい」

「信じられないから、確認したい。肌の温度で、言葉で、子どもは親の愛情を知り、子どもの体温で親は親になってゆく。さあ、スキンシップの続きだ」

 セイはわちゃわちゃとわたしの身体をもみくちゃにして、背中の流しっこをしようと言ってお湯から上がる。

 彼女が背中をこすってくれる。潤ったタオルでごしごしと。こんな風にただ誰かとお風呂に入るのなんて初めてだ。性の目的のない入浴は。

「気がつけば」

「ん?」

「はぐらかされた」

「ははっ。これもある人の常套手段だった」

「考えていたんだけどね、セイが自分のことを自分って言うのは自分が自分なんだよって自分で確かめたいからなんじゃないかなって」

 セイはごしごしと動かしていた手を止めて、数秒黙った。

「ふむ。なかなか面白い洞察だな、それは。君はまだたった15の小娘だが捉え方と想像のスケールが私とは異なっているな。面白い意見だった。言葉のリズムも悪くない、いっそ将来は詩人にでもなってみるか」

 冗談のようにそういった声が機嫌の良い音で響く。

「それなら今日から、わたしは詩人を名乗ることにしようかな」

「では、無事に職業の決まった君に二つアドバイスをしよう」

 あのいつもの余裕たっぷりの声でセイは背後から指を二本立ててわたしのわき腹をさした。

「二つもしてくれるの?」

「ああ。勤労とはやはり偉大なのだよ」

「セイがそれを言うんだ」

「やめてもいいんだぞ」

「聞くよ」

「いいだろう。一つは、知識をむやみに吸収しないことだ。例えば、ありとあらゆる知識を吸収すると人はどうなると思う?」

「神になる」

「バカか君は。正解は普通にしかなれなくなる、だ」

「オーケー。理解できる。もう一つは」

「これは、自分がする極めて珍しい具体的なアドバイスだ。君の中のすべてを言語化して生活してみろ。いついかなる時もだ」

「そうするとどうなるの」

 鏡に映る彼女は一瞬曖昧な表情になり、まあいいか、と呟いて続ける。

「いずれロジックの限界に突き当たる。そこで君が見た答えが私を満足させてくれたのなら、これからも君に道を示す手助けをしよう。約束する」

「それってノイローゼにならないかな」

「なるかもしれない。これで当分アドバイスはなしだ。やはり思うよ。自分は大甘だとな。された事をそのまま娘の君にはできない。どれほどに甘いかと言うと、君に教えたいくつかの事を自分が知ったのは、君の10倍の時間をかけさせられてからだった。いや。10倍じゃ効かないな。月単位、年単位だ」

「そうだったんだ」

「だがね、甘やかしてみて気づいたよ。これでは君のためにならないと。あの頃あの人はなんと底意地が悪いのだろうと毎日のように恨んでいたが、優しさだけでは導けない。厳しく接するあの人の胸の内を、あの頃の自分は気づけていなかったんだな」

 わたしは少しのあいだ考えて、言葉を続ける。

「甘やかしてくれるのは、お腹を痛めて産んだ子じゃないから?」

「それは違う。だがある意味違う問題の解答にはなっている」そこで言葉を切ったセイはまた数秒黙り、息を吐いた。「完全に脱線するが、自分は自分の遺伝子を後世に残したくない。そうしない事をこの心に誓った。理由は聞くな。今のはただの母親のロマンチシズムだ。おセンチってやつさ」そう言った言葉じりの明るさとは裏腹に、その吐息は、ささやかだった。

「交代しよう」

 わたしはそう言って風呂椅子から立ち上がり、セイと入れ替わる。

 可哀想。

 言葉には出さずそう呟いてみる。どうしてそんな風に思ったのかわたし自身分かっていなかった。でもセイの中の何かがとても、可哀想に思われた。わたしは目の前に見えるセイの細い身体を後ろから抱きしめた。前で交差した腕に彼女のゆったりとした乳房が当たっている。そしてわたしの胸もセイの背中に触れている。あたたかだ。とてもあたたかで、わたしの熱がセイを何者かにしてあげたかった。

「セイ」

 そう言ってわたしは振り返った彼女の唇を舐めた。

 舌で。ぺろりと。

「この味を、わたしは忘れない」

 セイのように言った。

 閉じた瞳に窓からの陽の光を感じた。この窓はわたしの部屋と同じように南向きの窓だった。

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