Bibbidi―Bobbili―Boo


 明けがた眠りから覚めた。

 自然に覚めたのだ、この環境だから。

 薄闇の向こうに鳥の声がしてカーテンを開ける。朝が始まる。わたしにとっていまだ新鮮であるこの部屋で起きる朝が。眩い太陽。空は軽く風は悩むことなく吹きゆく。


「おはよう。セイ」

「おはよう。みはる」

 現実ではないかのようだ。夢のように綺麗な彼女と朝のあいさつを交わすのが。そしてその美しい人が、いつの間にか当たり前のようにわたしの名前を発音するのが。部屋着の、黒の上下のハーフトップとスパッツ姿の彼女は朝一の煙草を丁寧に消して足を組んだ。すべてが、輝いていた。その足もそう。その身体も顔も胸も。纏う光が、ある。

 セイは眉間と目が日本人らしくない。眉とまぶたの間隔が、とても狭い。それなのに目は大きく、使い古された言い方をするならビー玉みたいだ、腹立つくらいにアーモンド形の。一般的なショートヘアより短い黒髪は光沢をたたえ、通った鼻と厚い唇がエキゾチックな色気に花を添える。身体も、背丈に逆らうように細い。まるでモデルかアスリートのよう。例えがやっぱり月並みだな、セイの美しさをあらわす言葉なんてわたしの貧困なボキャブラリーでは難しいのだ。

 そしてもうひとつ。ここで暮らし、はじめて知った。セイが外出時に胸を潰していることを、窮屈なうすいチューブトップのような下着をブラジャーの代わりに身に着けていることを。セイは胸まで大きかったのだ。あんまりすぎる。神さまのえこひいきだと思う。でも、わたしには彼女がそうする理由が何となく分かる気がしていた。だから聞きもしなかった。

「すぐにお茶を点てる?」わたしはセイに尋ねる。

「いや。今日は朝食を作ろうと思う。コンビニに行くから、欲しい物があれば言ってくれ」

「特にないけど」

「そうか。じゃあ行ってくる」

「ちょっと待って! その格好で行くの!」わたしの声のボリュームが大きくなる。

「何が問題なんだ?」心底不思議そうにセイが首を傾ける。

「だって。ブラもいつものチューブトップもなしにその格好って……」

「ああ、胸当てのことか。ばかばかしい」そう言ってセイは本当にそのまま出て行ってしまった。

 理由、勘違いしてるのかな、わたし?


 ダイニングテーブルにはハムとチーズとレタスのサラダ。こんがりとトーストした玄米ブレッド。ゆで卵。そして大福があった。

「この組み合わせに大福なんだね」わたしは目の前のコンビニ大福を見ながら何とも言えない気になっていた。

「目についたからな。甘いものは嫌いか、洋菓子の方が良かったか」

「ううん、好きだけど。それより、手伝わなくてよかったの」

「娘の飯くらい母親が作るものだ。気にせずに食え」

「いただきます」

 顔を俯けてわたしはパンにかぶりついた。駄目だ、それは。とっても駄目だよ。自然であろうと努めているのに、食べながら目が思いもかけずうっすらと潤んでいた。

 母親と娘という単語の、この暴力。母親の作る朝食、その弾けるような幸せの響き。鋭い右ストレートに叫びだしたくなる。顔を上げられなかった。母親だとはとても思えなかった。だって目の前にいるセイはセイなのだから。

 でもセイの顔を見たらきっとこの涙は零れてしまう。

 感情とは素晴らしいものだなと、セイの優しい声だけが聞こえた。


 食器を洗いお茶を点て終え、セイはいつものソファで目を閉じていてわたしはその姿をダイニングテーブルに頬杖をついたまま見ている。

「詮索する気はないんだけど」

「ん、なんだ」

「この数日、セイはわたしにかかりっきりだよね。外出とか、その、仕事とか、そういうのどうなんだろうって」

「ああ、仕事か。忘れてたな」

「ウソですよね?」呆れすぎて、思わず敬語なわたし。

「じゃあたまには行くか。玄関扉がオートロックだから今日は留守番していろ。昼飯はあるもので適当に食え。何をしていてもいい。自分の部屋に勝手に入って物色してくれてもいい。だが……」

「例の部屋には入らない、でしょ?」

「そうだ。まあぶち抜いても入れないんだけどな、本当は」珍しく彼女が高い声で笑って寝室に入っていった。

 謎だ。何がというならすべてが謎だ。セイという魔力なのだとわたしはあきらめたように思った。


 しばらくして出てきたセイにわたしはびっくりした。

 彼女はスーツだった。前みたいな女性のパンツスーツではなく本当に男性のままの背広姿。黒いワイシャツ、濃紺のジャケット、重い色の銀と緑のネクタイ。胸ポケットにも見せる用、みたいなハンカチの三角の角が見える。黒縁の細い眼鏡をかけていて髪はオールバックに近い雰囲気だが、インテリと言うよりもどこか線の細さを思わせる青年感がある。セイと出会う前のわたしがこんな男の人に声をかけられたらそのままどこへなりともついて行ってしまっただろうと思われた。

「見惚れたか」

「すごく」

「いい子にしてろよ」

 そのまま右目をつぶってあっさりセイは出て行ってしまった。帰ってきたら写真を撮らせてもらおう。

「いってらっしゃい」後ろ姿のセイはぴっと右手を上げて答えた。

 玄関の戸が閉まる。途端に、静寂。

 この数日で、思えば初めて一人になった。この広すぎるマンションの一室にわたしだけがいる。何をしようか。なんか無駄にワクワクしてエネルギーに満ち溢れている自分に気づく。とりあえず本人の許可があったのでリビングを出てセイの寝室の扉を開けた。

 まず目に入ったのは、キングサイズのベッド。綺麗に整えられていて枕かクッションのような物が四つ。その頭の部分は棚になっていてクラシックな物凄く高そうな置時計が無造作にあった。黄金の歯車が複雑に噛み合っている。美術品のようなそれから針の音が上品に刻む。ローマとかモスクワとかの美術館に飾られているような、そんな感じ。行ったことはないけど。

 化粧台には整頓されたコスメ。その横のボックスは眼鏡と宝石入れらしい。昔のわたしの冷蔵庫くらいある。飾り棚にはクリスタルの彫刻やベネチアングラス、分からないがアジアンテイストな置物。

 壁の一面は全部クローゼットだった。中には多種多様な洋服が山のように。男物も女物もあった。

 部屋の色調はモノトーンの黒だ。布団カバーも壁紙も敷物も目に映るすべてが黒のグラデーション。電気まで暗い色だった。そこでようやく気づく。わたしの部屋には窓があるのに、この部屋には窓がない。

 わたしはあんまりにも異次元な光景に眩暈がし、黒い部屋で立ち尽くす。

 あの人は、本当に何者なんだろうか。

 何を考えて、何をして生きているんだろうか。

 わたしは扉からいちど出て、買ってもらったばかりのスマホで一枚写真を撮った。そして電気を消し扉を閉める。高価なものや綺麗な洋服というものに、わたしはあまり興味がなかった。親のいない施設で育ってきた環境ゆえだろう。しかしそれでも「ワオ!」って言葉以上にありえない驚きのある部屋だった。期待を裏切らない満足のいく部屋だったなと思う。


 さて。次はやはり、あそこでしょう。

 セイの部屋を出てすぐの右手奥の扉を見つめる。セイの秘密の部屋。試しにドアノブに手をかけてみた。うん、開かないな。分かっていたから今度は力を入れて押してみた。びくともしない。ドアノブもがっちりと動かない。一応引いてみたり、ひょっとしたらと思って押し上げようとしてみたりしたが変わらなかった。ぶち破っても開かないっていうのは本当のようだ。

 これは、無理だと思った。あれだけ高価な物の置かれた寝室を好きに物色してもいいと言った彼女が、開かないと断言した部屋。少なくとも今のわたしでは逆立ちしても開けることはできないだろう。エッチなビデオの部屋かなと自分でも冴えない冗談を浮かべて、思いついた。

 セイの秘密部屋の扉に「検閲済み」と紙に書いて張った。

 帰ってきた彼女は何て言うだろうか?


 リビングから廊下へ抜けると、まず左手にセイの部屋がある。右手はリビングにもつながる洗濯室。進むとセイの寝室の隣に、彼女の秘密の部屋。反対側はトイレ。さらに行くと広い物置部屋があり、向かいに和室、進んでバスルーム、そしてわたしの部屋となる。わたしの部屋からは出てすぐに玄関で、ルームシューズではなく「シューズルーム」とでもいうべき靴のための部屋まであった。

 もういい。もう疲れた。

 わたしはリビングに戻りいつもセイが座っている一人掛けソファに腰をうずめる。並ぶ食器棚もお酒関係のガラスケースも、ダイニングテーブルを挟んでまるでお店のようなカウンターキッチンも、広々として清潔なキッチン自体も。リビングの窓は大きく見渡せて、南から西へかけてカーブを描きながら6メートルくらい全面ガラス張りだ。その窓の向こうにはムカつくくらいのガーデンスペース。セレブがバーベキュー、みたいな空間が広がっている。負けたように立ち尽くして、本当は座ってたけど、かないませんなあと思ってベランダの壁に切り取られた半分の空が青く澄み切っているのをボーッと見つめた。

「ああ、空になりたい」

 意味もなく呟いてわたしは目を閉じた。


 おでこをビンタされてわたしは目を開けた。

「起きたか。なんなんだ、この張り紙は。まあいい。せっかくこの格好だ。たまにはまともな飯を食うぞ」

 わたしの顔を覗き込む、セイの顔。寝ぼけたわたしの中身が喜んで飛び出していってしまいそうな、セイの顔。

「今何時?」

「20時前だ。今日はどうしてた」

「部屋を見て回って、お昼寝して、冷蔵庫をあさって」

「それから?」腕組みしたセイが聞く。右手にはくしゃくしゃになった「検閲済み」の張り紙がある。

「ヒマになったから茶道についてスマホで調べて、ゲームをインストールして気づいたらまた寝てた」

「充実してたな。何よりだ」セイが皮肉っぽく言う。

 伸ばしているブラウンの髪を撫でつけながら、セイを見ていてわたしは思い出した。

「ねえ、セイの写真を撮ってもいい?」

「かまわない。ポーズでもとるか?」

「自然に立ってて」

 スマホをかざして一枚撮る。

「オーケー」

「それやめろって言っただろ。来い、行くぞ」


 フランス料理は初めてだった。そして生まれて初めてブランドのワンピースドレスを着た。白いレース生地に映える真紅の刺繍。どこかの王族のよう。

「変な気分」

「慣れろ。身につける物が違うだけで他人は変わる。私が朝のハーフトップで来てみろ。飯が出ないどころか下手したら警察に引き渡される。下らないがドレスコードとはそうゆうものだ」

 わたしは蒸した白身魚の切り身を食べながら、内心二つのことに気がついていた。

 一つは、セイのテーブルマナーがいつもと違うこと。いつも綺麗に食べるなと思っていたが、今日はもう、ひとつひとつの所作に微塵も無駄がなく優雅だった。男性的な落ち着きとでも言うような、なんかがある。

 そしてもう一つは「自分」ではなく「私」と言ったこと。

「なるほど。二つ気づいたな」と唐突にセイが言ったのでわたしは心の底から驚いた。

「なんで分かるの?」洞察力半端ねえ、と内心叫ぶ。

「君は表情豊かだな。私、と言ったのはそう言おうと思って言ったからだ。食べ方が違うのは君よりも大人だからだ」

 そう答えて彼女は右目を細め、それから溢れんばかりのバラの花束のような笑みを浮かべた。

「このように、大人だから余所行きの笑顔も艶やかだろう?」

 セイは、初めて見る子どものような、得意げな顔で目を垂らす。バラの笑顔のあとで。こんな顔を、するんだ。キラキラと色を変える、光の玉のようだった。

「食事が終わったら、二人で写真を撮ろうか」とセイが言う。

 セイには、わたしの心が見えるんだろうか。嬉しかった。すごく。


 食後、お店を出て不思議な雑踏と光の中で夜道を歩く。

 わずかに汗ばんでいた。初夏の夜はゆっくりと、まだ牙を隠したまま夏になろうとしていた。

「この辺に来たことは?」となりを歩く彼女が聞く。

「ほとんどない。高級店ばかりでしょ、食事も服も。ご飯よりこのドレスの方が高かったんじゃない?」

「当たり。本末転倒とはこの事だな。それから……」

 言いさしてセイは背広のポケットに手を入れて、それをわたしに差し出した。

 ん? これは……。

「車のキー? わたし免許なん……」

「誰が君みたいな子どもに車なんか買ってやるか。これはマンションのキーだ」

 わたしはてっきり、それを高級車のキーだと思っていた。鍵をさすタイプではなく、小さな黒いリモコンのような、あのキーだと。同じものが今までもリビングに置いてあるのを見ていたはずなのにわたしは今日までそれが車のキーだと固く信じて疑わなかった。

「マンションもリモコンで出入りする時代になってたんだね」

「今まで二人でロビーを抜ける時、どうやって開いてると思ってたんだ?」

「コンシェルジュさんが見て開けてるのかと思ってたよ」

「じゃあ部屋自体は?」

「監視カメラで、コンシェルジュさんが」

「そんなコンシェルジュはいらないな」

 当たり前なのか? 当たり前のようにそう言ってくるけど、最近のセレブはほんと何考えてんのか分からん。


 わたしのキーで、もう一度言おう。わたしのキーでロビーを開け、エレベーターでわたしのキーをかざしてロックを解除し、わたしのキーでわたしたちの部屋の扉を開ける。

「満足か?」

「おおむねね」

 二人で靴を脱ぎ、廊下へと出る。

「ひとつ、試したいことがあるの」

 わたしの意図に気づいたのかセイは苦笑してどうぞと言った。秘密部屋の前に立ちキーを押す。うむ。シーンとしてますな。

「開いたか?」

「駄目みたい」

「それは残念だったな」

 笑い合いながらリビングに入る。セイはいつものソファに。わたしはドレスをひるがえして歩き回る。

「今日はどうだった」

「シンデレラの気持ちが少し分かった気がする。セイは魔法使いでもあったんだね」

「魔法使いか。ならこれからはそう名乗ろうかな」彼女はまんざらでもなさそうに息を吐き両足を二人掛けソファの方に乗せてリクライニングする。

 くるくると回りながら来客用の液晶モニターがある台の上の、別のリモコンキーを押すと大窓のカーテンが自動で閉まっていく。文明は偉大だ。

「今お茶を点てるね」

「ご機嫌なお嬢さん。そのドレスで茶を点てるのはよろしくない。今日は休みだ。着替えて酒を飲もう。陽気な夜は酒を飲むものだ」

「脱いだドレスはどうすればいい?」

「洗濯室にボックスがある。そこに入れておけ。クリーニングして戻ってくるから」

「それもキーで操作するの?」わたしはふざけてそう言ってみる。

「いや。それはコンシェルジュさんの仕事だ」

 イタズラっぽくそう言ったセイの言葉に、わたしは大笑いしながら洗濯室に駆け込んだ。

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