根源の生物
鈴江さち
黄昏の街
「それは違う」とセイは言った。
わたしは木綿と絹について考えていた。豆腐のことだ。
「木綿豆腐の解釈はまあ間違っていない。木綿で絞めた豆腐。だが、絹ごしは舌に乗せた滑らかさから絹ごし豆腐と呼ばれるらしい。木綿からの絹っていう言い回しが粋だったんだろうな、昔は」
「知らなかった。紛らわしいね」言いながらわたしは脇を向いたセイの綺麗な横顔に目を走らせた。
二人で麻婆豆腐を食べている時だった。
バルで何回も遭遇して顔見知りではあった。この日、そのバルにはわたしとセイだけだった。わたしは食事に、セイは飲みにきていた。二人、という気やすさがわたしを饒舌にさせて今までよりも会話は弾んだ。そして「中華が食いたい」と言ったセイに初めて連れられて、わたしたちは小さな中華料理屋で麻婆豆腐を食べていた。
「君の母親は教えてくれなかったのか」
「わたし両親いないもの」
「住む場所は?」
「施設だった。春までは。今は友だちの家を転々と」
なるほど、と呟いたセイは赤辛い絹ごし豆腐の最後の一口を飲みこんで、着こなしたクレリックシャツがかすんで見えるほど綺麗なその顔で右目を笑わせた。
「男の家だな。よろしくない。うちの娘にしてやるから、あす君は鞄ひとつでうちに来ればいい」
セイはおかわりに半チャーハン、とでも言うようにそう言ってわたしの顔をひたと見つめた。
住む家が、できた。
わたしにはきっと、何かが足りてない。
生きる意欲とか、お金を稼ぎたいって熱意や、誰かに愛されたいって願望とか。
こんな風なのは、育った環境のせいかな? もともとの性格なのかな? 分からないけど、分かんなくていいし、誰かに頼って、のんべんだらりと生きて死ななきゃそれでいい。
孤児はハングリー。そんなのはウソだ。生きる意欲なんてない。あるのはそこにある好奇心と暖かい体温への渇望。それだけが、わたしの存在理由。
中学の頃のわたしの影のあだ名はビチハルだった。ビッチの、みはる。まんまだ。ころころといろんな男の子と遊んで、妬んだ女の子がつける、思春期らしいあだ名。
ライブに行きたいから、ゲーセンで賭けに負けたから。とっても些細な理由で男の子はわたしに触れたがってわたしは男の子に触れられる。それはとても自然なことで、陰口を言うくらいなら自分たちもそうすればいいのにと思う。
噂話は好きですか? 傷つけるのは好きですか?
人間はきっと、壊れた生き物だ。
深い愛も、深い理解もわたしには必要ない。こんな風に生まれついた事に、失望もない。分かり合える気がしてる人間。必要とされている気がしてる人間。その無神経さは、どこにある感覚なんだろう。
誰かの心にある愛を、軽蔑する、笑える、疑う、醜いわたしの心。
わたしにはきっと、何かが足りなくて、あるのは若い身体だけだった。
「一緒に居てもいいというのは最低限プラスになるという事だ。プラスマイナスがマイナスになった瞬間に君を追い出す。覚えておくといい」
セイはそう言って丁寧に煙草の煙を吐き出した。バルで最初に会ったとき、セイは自分を社長秘書だと言っていた。次の機会にはヤクザのイロ。その次が新聞配達員。ウソをつくくせに、それはとても分かりやすい子どものようなウソなのに、セイはその時々ウソであるのがウソのように堂々としていた。
「細かな話は追々詰めていこう。まず君は部屋に荷物を置きにいくといい。終わったらまたここへ。初日だからもてなそう」
わたしの目を、この人はじっと見る。じっと見るように、やっとなった。その透きとおるような大きな目で。それは「彼女」がようやくわたしを血のかよった人間だと認識したからなんだと、あとで気づいた。
「オーケー。10分くらいで戻るから」
わたしはそう言って、普段より大げさに作り笑いをする。彼女は右目で笑って、ソファから立ち上がった。背が高くすらりとした、美しい黒鹿のような後ろ姿がキッチンへと向かう。
美醜で言えば、飛び切りの良。これ以上ないくらい、女にしておくのがもったいないくらい、美しい。彫刻のような彼女が男だったらなと、拾われた身の上で図々しく思う。
何も知らないのにドキドキする。何も知らないのにそんな気持ちになるのは不公平だ。彼女は何故、わたしを拾ってくれたのだろう? 見た目が普通のわたし。女だから身体って事もないのだろう。セイのような人が、わたしを拾ってくれた。それは不思議で、ラッキーで、意味が分からない。
ざわざわした。そうだったから、羨む感情を、脳に入る前に下に流した。これは持ってちゃいけない不純物。求めたら手痛い、過ぎたもの。
でも。今は、ただただ。
わたしはセイの背中を何となく目で追いかけながら溜息をつきそうになる。セイは後ろからでも前からでも下からでさえも綺麗だ。
羨ましい、くらいに。
その部屋は簡素だった。
入って正面の一番奥に窓があり、開けられたそれから初夏の夕暮れ時の心地良い風が吹き込んでいる。南向きの窓か、とわたしは太陽の位置で思った。西日になりかけた太陽がフローリングの木目をオレンジに染める。
ベッドに、机に、クローゼット。
それがこの部屋の全部だ。クローゼットを開けると中には夏冬の布団が一組ずつ。毛布とタオルケットが二枚ずつ。そして季節がでたらめな男物の衣類が数点入っていた。わたしは持ってきたひとつまみのリュックサックの中身をクローゼットに入れて、タオルケットをベランダの物干しにかけて空を見上げる。右手に太陽が沈んでいく。タワーマンションの23階から見る空は手を伸ばせば届きそうで、群青と淡い雲と濃い橙に赤く染まっている。
わたしは空が好きだ。
美しくある。残酷でもある。あるがままに、感情のない、ただの圧倒的な空。
吸い込まれてしまいたい。死にたい、ではなく、溶けたい。
あるがままにある空。
見降ろせば街は見たことのない高さのミニチュアで、並ぶビルの群れ、川面にかかる橋と、海へと流れる川と海そのものが西陽を受けて乱反射し、この街を銀色の朱に浸している。
ここは、黄昏の街だ。そう思った。
リビングにもどると彼女はキッチンで抹茶を点てていて、わたしに気づくとお茶に目を伏せて言った。
「一つ言い忘れていた。基本的に何をしてもかまわないが、自分の寝室のとなりの部屋には入るな。自分はたまにあの部屋にこもる。どれだけ緊急の用事があっても、例えうちが火事になってもノックすらするな」
「何の部屋なの」とわたしは聞いてみる。
「知らなくていい。君は若く愚かで、時に賢く、何よりも無知だ。いまさら知らないことがひとつ増えたからなんだ」
「オーケー。約束する」
「それでいい」
彼女は茶椀を二つ両手に持ち、ダイニングテーブルに置くと手でどうぞと向かいの椅子を勧める。こういうところは紳士なんだなと思う。
「作法とか、よく分からないんだけど」
「ただ飲めばいい」
「じゃあ、いただきます」
目の前に深緑の茶碗。両手でつつみそっと傾ける。甘い。糖分の甘味ではない薫り立つ甘さがする。苦味は、口に含んで飲み干した後味にほんのりと残るほどだ。ほとんど初めてちゃんとした抹茶を飲んだ気がする。抹茶ラテとかならわりと飲んでるけど。よく分からないが、これが美味しいお茶というものなのだろうか。
「この味を、覚えておいて」
彼女はわたしが抹茶から口を離すとそう言って少し笑った。わずかに柔らかな言葉遣いになった彼女に笑顔で頷く。
「明日から、茶は君が点てろ。それが最初の仕事だ」
そう言って彼女は自分の茶碗を両手で取り上げてすすった。
そんな風なのはどんな風ですか?
ざわざわする。とても。
セイの腹筋は美しい。
見事、と言ってもいいくらいだ。
朝、リビングに向かうと彼女はラフな黒の上下のハーフトップとひざ丈のスパッツ姿で窓側の手前のソファに座り煙草を吸っていた。
「おはよう。よく眠れたか」
「うん。疲れてたのかな、寝過ごしちゃった」そう言いながらわたしの目は座っていてもほとんど弛まないラインの出た腹の筋肉にくぎづけだった。左手が無意識に自分の腹をなでていて赤面する。
「言っただろう。基本的にはどう過ごしてもかまわないと。ただし、君にはひとつ義務があったな」
声を少し笑わせたセイはキッチンに首をふった。短かな黒髪が揺れ、その一瞬まるで彼女が風をあてられている海外のモデルであるかのように感じられた。
「やり方がわからない」
「教えては意味がない」
短く答えたわたしに同じように端的に答える彼女。
「ひとつ言おう。家にいるときは朝昼晩茶を点ててくれ。何も無理やり役割を与えようとしてる訳じゃない。点ててみろ。しばらくそう過ごしていれば何かが見えるはずだ」
「何かって」
「見えない何かだ。凡人は主に視覚にたよる。これはアドバイスだ」
この人は、いつもこうなんだろうか。バルで初めて見かけたときから特別な人であることはすぐに分かった。話し方と低い声で最初美人な男性なのかと思っていた。彼がわたしの手をとり自分の胸に当てさせたとき、彼は彼女だったのだと知り詫びた思い出がある。
彼女はシェイカーでドリンクを飲んでいて、昨日から急に居候したわたしがいるのに、すでにくつろぎモード。大人だからなのかメンタルが半端ない。
「ところで、君はスマホを持っているか」とりあえずお茶を点ててみようとキッチンに向かいかけたわたしにセイが問いかける。
「ガラケーなら」
「そうか。ならこのあとまずは役所に行こう。そして携帯ショップだ」
「スマホの電話代なんて、わたし払えない」
「ちなみに、今までの収入源は」不思議そうに彼女が聞く。
「国からの補助とかNPOの基金とか。あとはたまに短期でアルバイト」
「なるほど」
そう言って彼女は黙る。わたしは白いカウンターキッチンに置かれた茶筒と茶せんと茶碗を眺める。セイがわたしの視線に気づき、頷く。
大人って、こんなだろうかと思った。教師でも施設のスタッフでもない、世に生きる大人の大人って。でも彼女はきっと、その中でもひと際ドラマみたいな非現実的な大人なんだろうと分かっていた。それは確信に似ている。
さて。んじゃまあ、やるか。
カウンターに立ちアルミ缶の茶筒を開けてみる。開けた瞬間香りが舞い上がって、昨日のあのセイが点ててくれた抹茶を思い出した。缶の中に耳かきのような物が入っている。これで粉末を器にうつすのか。目分量で二掻きほどすくい茶碗にうつす。縁に耳かきを当てて丁寧に粉を落とす。
「お湯はポットでいいのかな」
「お好きなように」
なんだか、どうとでもとれる言葉だ。自由に使っていいって事なのか、すでにもう何かが駄目だったのか、ただ単にどうでもいいのか。
とりあえずポットの前にゆき湯を注ぐ。しかしポットから予想外に強く出た熱湯は緑の水滴をキッチンに散らす。拭くものは。台拭きが流しの食器入れにかかっていたのでそれでこぼした抹茶を拭きながらちらとセイを見る。セイはそれまでわたしを見ていたらしいが目が合うと脇を向いて首を鳴らした。わたしはキッチンを見渡してふたたび食器入れから透明なガラスコップを取り出し、そこに湯を注ぎそこから器に静かにうつし替えた。あとは混ぜるだけだ。茶せんをのの字に回すと聞いたことがある。のの字に、のの字に。
見た目には、一応できたようだ。器を持ってソファの前の低いガラステーブルにそれを置いた。セイは普段から伸びている背筋をさらに凛と立て、両手で茶椀を包む。そして一口口をつけわたしを見て言った。
「うん」と一言。
「どうかな?」
セイは無言で器をわたしの前に置いた。飲んでみる。
「苦い」苦いことに自分でびっくりするくらいに苦い。
「同じ茶葉だ」
「どうしてかな」
「自分のアドバイスを覚えているか?」
「人は視覚に頼る、だっけ」
「そうだ。今なぜこの話をしたのかを考えろ。君が点てている過程を見ていなかったとしても、手に持った瞬間に自分はもうこの茶は駄目だと分かった」
セイは立ち上がりわたしは向かいのソファに腰かけたままで。セイは廊下へと歩きながら後ろ姿で言った。
「その味を、覚えておいて」
転居届とその他もろもろとスマートフォン。
一日の半分はそれで過ぎてしまった。それにしても。泊めてくれる、ではなく、住む、という事がこんなにも簡単に決まってしまった。セイの驚くべき行動力と決断力はわたしにはありがたく、うっすらと畏敬のような感情の波が胸から背中へと流れていくのを感じていた。
夕食前に二度目のお茶を点てた。
セイは一口飲むとまた「うん」と言った。
「朝言った意味を考えたようだな。君は愚かだが考える力はあるらしい」
そう。わたしは考えた。人は視覚に頼る。つまり味わうものならば、味覚に頼る。セイは手に持った瞬間にと言った。ならばそれは視覚か嗅覚か聴覚か触覚のどれかだ。味覚ではない、と言うこと。
「茶碗をお湯で温めてみた。あのバルの肉料理のお皿みたいに」
「それから?」彼女は手のひらであごを支え指を頬に添わせながら楽しそうに、初めて楽しそうに笑った。
「セイのお茶とわたしのでは色が違った。セイのは柔らかな黄緑だったのにわたしのは深い緑だった。泡立ちも違った」
「なるほど」
飲んでごらん、と言って彼女は器をわたしによこす。手に触れると熱が違う。香りは朝よりも立っている。口をつける。少し、甘く感じた。その事を言うとセイは「次は作る過程で聴覚も使ってみろ」と言った。
夕食を食べに行ったあとお風呂を使い、出るとセイはいつもの一人掛けソファに座りお酒を飲んでいるところだった。
テレビ前の二人掛けソファの両サイドにコの字型に並んだ一人掛けソファが二つ。三つのソファが低いガラステーブルを囲んでいる。わたしが来る前は一人暮らしだったはずなのに、何で三つもあるんだろうと思う。
「飲むか?」
「それはなに」
「テキーラだ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
セイはガラス棚からショットグラスをとり上げて少量のテキーラを注ぎわたしの前に置いた。
「この量をワンフィンガーと言う。最もアガベの香りが引き立つ飲みかただ」
「アガベって原料のこと?」
彼女はそうだと言いわたしは一息に飲み干した。
「きっ、く」
「ふふっ、飲み方が若いな」
「こうやって飲むんじゃないの?」
「常識は常識でしかない。知っているのはいい。だが自分で考え辿り着いた生き方で生きてゆくのが人間だ」
「考えさせるのが好きだね、セイは」
セイは鼻で笑って愛おしそうに自分のテキーラの深い茶色を見つめていた。
様になる。失礼かもだけど、他に言いようがない。そして様にならないセイを、わたしはまだ見たことがなかった。
不思議な人だ。自然体で完璧だ。実は内面はすごく意識が高いんだろうか? でもそんな感じしない。あるがままの空のように。
この人とゆうこの人の事を、実はわたしは今の今までまっすぐ見ていなかったのだと初めて気づいた。
「セイは、どんな人なの」だからわたしはなぜだかとても抽象的な質問をしていた。
彼女はわずかな間ショットグラスの匂いを吸いこんでわたしの瞳を見つめた。
「霊媒師だ」
「オーケー。言いたくないんだね。じゃあ年は」
「36」
「へえ」
「君はいくつだったか」
「15」
「なるほど。成長するにはいい時期だな」低く唸るようにそう言ってセイは喉の奥でくくくと笑った。伏せた顔に前髪がかかり上目遣いでわたしを見る顔は気高い獣のようだった。
「セイは美女で野獣だね」
「こんなに心穏やかな野獣がいてたまるか」セイの右目が笑う。
「どうしてわたしを拾ってくれたの」流れで聞いた。聞きたかった。本当はずっと。何故、わたしであるのかを。セイは宙に目をやり唇を歪ませて笑う。
「うちのマンションはペット禁止だ。そして君は豆狸のように小さく可愛らしかった」
「タヌキ顔って自覚はあるよ。小柄だってことも」
彼女は糸を引くように笑って、少し真顔になって続ける。
「月並みだが、君は磨けば輝くと思った。自分で磨け。手伝いくらいはしてやる」
「どうして」
「さあな」
そう言った彼女の目は優しそうな悲しそうな複雑な色と熱を持っていた。
「もう一つ聞いてもいい?」
「なんだろう」
「家族や恋人は」
その言葉にセイの瞳はまた別の不思議な輝きを宿した。
「真に得る、とは簡単な事じゃない。血の繋がりとはただの免罪符だ。心で呼び心で答えてくれる相手ならばそれは家族であり、近しい誰か、という事になる」
「オーケー。わたしにはさっぱり分からない」
「ちょっと前から思っていたが、そのオーケーって言い方やめろ」
「アイノウ」
彼女は不機嫌にふんと鼻を鳴らし「まともに茶を点てられるようになったら教えてやる」と言った。
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