サークルコンパと帰り道
「それではーっ、我が漫画研究部の定例会を始めまーす!
未成年の飲酒はしないように! 一気飲みの強要も禁止! あとコース外の注文も……」
「かんぱーい!!」
部長の真っ当かつ真面目な音頭を遮るように、既にテンションマックスな人たちがグラスをぶつけ合った。
夏休みも間近な時期に開かれたのは、所属する漫研の定例会……という名の飲み会だ。
店内でも一段高いお座敷には、数十人の若者がひしめいている。
学内でも深めのオタクさんが所属しているというこのサークルだけど、イメージと違って明るい雰囲気のようだ。
その上いくつかの大学と連合のようなものも組んでいるようで、交流も盛んらしい。
つまり、まだまだ知らない人ばかりの中に更に他校の人が居るということだ。
大学生になったところで持ち前のコミュ障が治るわけもなく、私は隅っこの端っこというぼっち席を確保していた。
本当なら紗織ちゃんと一緒に来るはずだったんだけど、バイト先からヘルプ要請が来てしまったらしい。
かろうじて仲良くなった人も他のテーブルに居て、わざわざ席替えを申し出るのは無理だろう。
こんなことなら来なきゃよかったかな……。
でも出席人数を数えて予約をしてくれてるんだから、理由のないドタキャンはよくない。
私と同じく戸惑っている人も多いテーブルを囲みどうしようかと思っていると、隣の人がずいっと座布団を寄せてきた。
「ドーモドーモ! キミ、一年生? 見ない顔だけど」
ジョッキを片手に持った男の人は、多くの部員の中でも毛色の違う格好をしている。
アメカジ風っていうんだろうか。ダメージジーンズを正しくお洒落に着こなしていた。
それに色白さんが多い中、こんがり焼けた肌に白い歯が眩しい。
って、さっきまでこんな人座ってたっけ……?
緊張のあまり縮こまっていたせいか、お隣さんまで見えていなかったらしい。
「漫研の子だよね? 名前聞いてい? 大学一緒?」
「え、あ、玄瀬、です。大学は……どうでしょう?」
そんな矢継ぎ早の質問に私が対応できるはずもなく、曖昧な相槌しか打てない。
多分自己紹介もしてくれたんだと思うけど、ずらずら続く話で頭の中に入ってくれなかった。
「じゃあクロちゃんね。どこ住み? 番号聞いていいっしょ?」
コミュ障の正反対に居そうなこの人はパリピさんに違いない。
そんな人がどうしてこんな場所にって思っちゃうけど、擬態が上手な隠れオタクさんなのかもしれない。
私たちの勢いにつられてか、戸惑い気味だった周りの人もそれぞれ会話が始まったらしい。
もしかしたら、これを狙っての行動だったのかな?
慣れない見た目と話し方に少し引いてしまっていたけど、第一印象だけで人を判断するものじゃない。
途切れることのない質問を受け流しつつ、オレンジジュースに口を預けた。
ひっきりなしの会話に流されていると、どうやらこの人は他校の上級生らしい。
心の中でパリピ先輩と呼ばせていただこう。
そんなパリピ先輩は、賑わっている席もあるというのに一向に立ち去る気配がない。
ぼっちな私に気を使ってくれてるのかもしれないけど、さすがにちょっと会話も苦しくなってきた。
というか、このサークルに居る割になんだかちょっとずれているような……?
当たり障りない相槌をしたいと思っているのに、首を傾げそうになるのを堪えてばっかりだった。
「オレチョーオタクだからさぁー、日曜朝のアニメとかずっとたまに観てっし」
ずっとなの? たまになの? どっちなの??
私は寝坊した場合に備えて録画予約はしてある。
「週刊誌もホラ、友だちが読んでるの見かけたら読ましてもらってっし」
見かけなかったら読まなくてもいいの? 毎週読みたくないの?
コミックス派の自分が言っていいものかは分からないけど。
「だから連絡先交換しよ? クロちゃん下の名前なんての?」
だから? どこがだから??
ここまで来たらクロちゃんとパリピ先輩で成り立ってるんじゃないかな。私は呼んでないけど。
関連性がまったく見えない会話もしんどくなってきたから、そろそろこっちから話題提供してみよう。
ちょうど昨日はこの夏一番熱い深夜アニメがやってことだし。
アニメ好きなら誰でも知ってる案件だし、リアタイしてなくても乗ってはくれるだろう。
「あの先輩、昨日の夜、観ました?」
「昨日? オレ毎日クラブ行ってっけど興味あり? 一緒行く? じゃあ連絡先交換しよ?」
「え? いえ、ちょっと……」
あれ? 動画配信派かな? でも毎日夜遊びしてたら観る時間ないんじゃないかな?
あまりにも噛み合わなくなってきた会話に四苦八苦しつつ、やけに挟まれる連絡先交換を受け流す。
サークルの連絡は部長がちゃんとやってくれてるし、個人でやる必要はないのに。
なんだかおかしいなって思っていたら、入り口のほうが賑やかになってきた。
隅っこの端っこからでも見えたその場所には、真っ赤なカーディガンを羽織った後ろ姿。
あれは見るも明らかな、スタッフモードの一ノ宮くんだ。
大学は違えど同じ漫研。連合としての関わりがあり、今日の定例会のことも話には上っていた。
イベントにスタッフ参加するから参加は難しいかもって言ってたけど、どうやら間に合ったらしい。
「あっ、××大の赤い彗星だ」
「三倍速いの?」
「原稿はいつも早割入稿」
「やべぇすげぇ」
謎評価がそこかしこから聞こえる中、一ノ宮くんは幹部クラスのテーブルに引っ張られていった。
高校を卒業しても有名人。
部長たちとも親しげに話していて、相変わらずの交友関係に感心してしまう。
「クロちゃん、あいつ知ってんの?」
「あ、はい。高校の同級生で……」
ようやくまともな会話になるかと思って答えたのに、パリピ先輩はなんだか不満顔だ。
やっぱり賑やかなほうに行きたいんじゃないかな。
もう大丈夫ですって言おうかと思っていると、パリピ先輩はジョッキのビールを一気に飲んだ。
ちょっと! 一気飲みは……強要じゃないからいいのかな? どっちだ?
居酒屋のマナーなんて知っているはずもない私には判断がつかなかった。
「新入生が権力者に取り入るとか、いけすかねー奴」
「……えぇ?」
ジョッキに入ったコーラを手渡された一ノ宮くんは、いつものようにすいすい飲み干す。
イベント終わりの定番みたいだし、今日は暑かったもんなぁ。
……って、パリピ先輩、今なんて言った? 取り入るとか言った?
向こうのやりとりはとても親しげだし、歳上相手に対等ですらあるように見えるのに。
そもそも一ノ宮くんがそんな思惑を持つ必要はないし、ぱっと見でそんな評価をされる筋合いはない。
「どーせ人脈作りを作りたいエセおたくっしょ。あーヤダヤダ」
……やっぱり、この人苦手だ。
最初からパリピ先輩の勢いに引き気味だったけど、今はそれに不満が乗っかってしまった。
行き先は見つけてないけど、ひとまずトイレでもどこでもいいから逃げよう。
そう思ってグラスをテーブルに戻すと、新しいビールを手にしたパリピ先輩にずいっと身体を寄せられてしまった。
うぅ、お酒臭い……未成年はお酒に耐性ないんです。
パーソナルスペースガン無視なところもだけど、さすがにこれはきつい。
「オレのほうがメチャクチャオタクだしー。だからクロちゃんさぁ、連絡先教えてよ」
やんわり受け流し続けてるのをいい加減察していただきたい。
というか、エセオタクと言うならどっちのほうだ。
一ノ宮くんなら最近のアニメは全部チェックしてるし、懐かしい系も網羅している。
直近の人気アニメすら知らない人が、どうして一ノ宮くんをエセオタクだと判断できるのか。
「抜け出してカラオケでも行こうよ。二人で」
お酒臭い誘いと一緒に、テーブルの上で握りしめていた手に触られる。
……さすがに無理!
先輩相手に不躾な態度を取るわけにはいかないと思って我慢してたけど、もう限界だ。
間近に迫っていたパリピ先輩からぐっと身体を引き、どうしても納得できないことを言ってしまうことにした。
「一ノ宮くんはですね、先輩よりよっぽどガチオタなんですよっ!」
あまりにも苛立っていたからか、思っていたよりも大きな声が出てしまった。
その声は部屋の中でよく響いてしまい、そこかしこで賑わっていた会話がぷつんと途切れる。
うわ……うわ、やっちゃった。
声の発生源である私を補足できていない人も多いみたいだけど、近くの人の視線はばっちりこっちに向けられている。
「ハァ? 何言ってんの?」
パリピ先輩、すっごい怖い顔してるし。どうしよう……。
だけどこれは本当のことだし、撤回なんかしたくない。
大学デビューと言うほど華々しい生活ではなかったけど、これは早くもドロップアウトなのかもしれない。
「そう高らかに宣言されると、照れるな」
戻ってきたざわめきの中から、聞き馴染んだ声が届く。
パリピ先輩の背後。たくさんの人が入り乱れる中、そこにはひときわ目立つ赤色が立っていた。
いくつもの視線と一緒に近づく一ノ宮くんは、私のすぐ隣でしゃがんだ。
「一ノ宮くん……」
思わず呼んだ名前に、一ノ宮くんは目元でちょっと笑ってくれた。
だけどそれもつかの間。すぐさまパリピ先輩へと向き直り、うっすらと違う笑みを浮かべた。
「何か問題でもありましたか?」
笑っているのにひんやりしているその表情は、初めて見るものだ。
不思議な威圧感のある一ノ宮くんに、パリピ先輩も同じものを感じ取ったのかもしれない。
周囲からの視線を気にしながら、ずっと握ったままだったジョッキを手放す。
「べ、別に……」
「少し盛り上がりすぎましたか。俺たちはたまに、自己主張が激しくなってしまう時がありますから」
今日もいろんなところで喧々諤々の言論バトルが繰り広げられていたけど、どれも楽しそうなものだった。
性癖で殴り合う戦いは、最終的には互いを認め合う少年漫画的終焉を迎えるものだ。
とはいえ、今ここで起こっていたことはそれとはまったく近くもない。
「しかし揉め事と思われる事態は避けたほうがいいでしょう。
最近、純情なオタク女子を狙って騒動を起こす輩が発生しているようです。
要らぬ誤解は受けないほうがいいですよね?」
相手を労るような笑みにハッとする。
それって、今この状況のことなのかな……?
私がそんな事態に巻き込まれるだなんて、一切思ったことがなかったからよく分からない。
だから口は挟まず、続く一ノ宮くんの言葉をじっと待った。
「先輩はこの春から入部されたそうですね。こういう環境にいればそろそろ染まった頃でしょう?
近々交流会が開催されますから、その時はじっくり語らいませんか」
浮かべられた満面の笑みには、いつもの楽しくてたまらないといった印象は欠片も感じない。
そんな一ノ宮くんが少しだけ怖くて、知らない人みたいに感じてしまったのが悲しくて……。
「それと」
思わず伸ばした手が掴まれて、引き寄せるように肩を抱かれた。
「玄瀬は俺の彼女なので、不埒な真似はしないでくださいね?」
慇懃無礼とはこのことだ。目の奥がまったく笑っていない。
だけどまるで見せつけるかのような仕草に、周りからはわざとらしく囃し立てる声が響いた。
「ちょ、一ノ宮くん!?」
「なんだ、秘密にしてたほうがよかったか?」
「そうじゃなくて……!」
すぐ近くから向けられた顔は冷たさなんて一切なくて、言葉の通りに首を傾げている。
思ったことをそのまま出している表情はいつもどおりで、さっきのが特別なんだって分かった。
一ノ宮くん……私のこと、助けてくれたんだ。
あの、怖くて冷たい表情はそのためのもので、私のためにしてくれたんだ。
そう気付いたら、長く続いていた身体のこわばりがふっと解けてしまった。
ここに来てからずっと緊張していたみたいで、その反動でついぐったりしてしまう。
「大丈夫か?」
「うん……ありがと」
気にしてくれることも、助けてくれたことも。
手と肩に感じる温かさにほっとして、つい思ったことが口からこぼれていた。
「今、少女漫画みたいな気分」
「なるほど。なら、抜け出すか?」
集まりから二人で離脱するのも、少女漫画の定番シチュエーションだろう。
もうしばらくしたら解散の時間だろうし、それはそれでありなのかもしれない。
高校生の時、いたずらを企んでいたのと同じ顔で言われると、頷くのが当然な気分になってしまう。
「……そうしよっか?」
そんな話をしている間に、いつの間にやらパリピ先輩の姿は消えていた。
周りの視線に耐えかねたのか、それとも一ノ宮くんと離れたかったのか。
理由は分からなくても、いなくなってくれたのはありがたかった。
「今日は早川も一緒って言ってなかったか?」
「バイト入っちゃったんだって」
「そうか。来てよかった」
私の身支度を待ってくれる一ノ宮くんは、小さくため息をついている。
紗織ちゃんに会いたかったのかな?
でも、来てないのに来てよかったってどういうことだろう?
準備は上着と鞄を持つだけですぐに終わり、帰る前に部長に挨拶をすることにした。
無計画に抜け出していいのは漫画の中だけのはずだから。
幹部テーブルに行くと、千鳥足の部長がすぐさまこっちに来てくれた。
「あーっ、すまんね一ノ宮ぁー!」
「大丈夫ですよ。トラブル対応は慣れてますから」
「さっすが、スタッフさまさまだよぉー!」
部長はすっかり出来上がっているみたいだけど、一ノ宮くんとはイベント繋がりなのかな?
私は最後に一言だけ挨拶すればいいかと思っていたんだけど、部長はこっちにもぐらりと顔を向けてくれた。
「玄瀬さんも、気付けなくてごめんねぇー!」
「え? いえいえ、私も大丈夫です!」
部長は私なんかの名前をきちんと覚えていてくれたらしい。
こんなに大勢いるのにすごい人だなぁ……酔っ払いっぷりは別の意味ですごいけど。
「俺たち、今日はこれで帰りますので」
「えっ、一ノ宮帰んの? ここまで乗っけてくれたくせに送ってくんないの!?」
「悪いが一人で帰ってくれ」
すぐ近くから上がる不満の声の主は、まっ金きんの頭を持つ男子。
イベントで何回か会った、吾妻さんだった。
どうしてここにいるのかと思ったけど、いろんな人が入り乱れるこの場所では考えるだけ無駄だろう。
「でもそっかー、シロクロちゃんだもんなー」
「うるさい」
私だからなんだという疑問はあるけど、少しふて腐れたような一ノ宮くんは結構レアだ。
私の前では滅多に見せてくれない表情は、見るとなんだか可愛いなぁなんて思っちゃう。
「シロクロちゃん、知ってる? こいつ今日、イベント終わるなりダッシュして来たんだよ。
一緒に走らされるこっちの身にもなれっていうのに」
「もう乗せないぞ」
「ごめんってば!」
相変わらず遠慮のない会話をする吾妻さんに半ば強引に別れを告げ、お暇することになった。
居酒屋を出ると外は少し肌寒く、人の多い歩道をてくてく歩く。
駅とは反対方向に歩く理由は、駐車場がこっちのほうにあるからだろう。
実は一ノ宮くん、高校卒業してすぐに車の免許をとっていたりする。
「一ノ宮くんの交友関係って広いよね。こっちの部長とも知り合いなんて思わなかったよ」
「あの人はサークル参加の常連さんだからな。
スタッフ仲間も何人かいるが、そういう人は行動力があるからな。顔を合わせることも多いぞ」
世間は狭いものだなぁ……。いや、オタク社会が狭いのかな?
話しながら歩いていればすぐに駐車場に着き、何度も乗っている車が見えてきた。
ちっちゃ可愛い車は見た目の割に中が広い。
まるで一ノ宮くんの四次元鞄みたいな車は、誰が乗ってもいいようにか内装はシンプルそのものだ。
荷物を膝に助手席に乗り、慣れた様子でエンジンをかけるのを横目で眺める。
私は免許を持っていないから、運転する同級生は新鮮だ。
滑らかに動き出した車は、夜の道路をすいすいと走りはじめる。
自転車だと絶叫マシン級なのに、車だと安心安定の安全運転なのがちょっとおもしろい。
「何か曲かける? スマホ繋ぐ?」
車内はいつもと違って無音で、普段ならノリノリにかかっている音楽がないことに気付いた。
簡易カラオケにもなる車の中は、何もなければこんなにも静かなんだ。
「いや、今はいい」
一ノ宮くんはまっすぐ前を向いたまま答える。
運転中の一ノ宮くんはなんだか大人っぽくて、助手席に座っていれば横顔を見放題だ。
一方的に眺めることのできるこの時間が、実は結構好きだったりする。
ちらちら射し込む外の光が、どこか真剣な表情を照らす。
いつもの笑った顔もいいけど、こういうのも悪くない。というか格好いい。
惚れた弱みと言われればそれまでだけど。
普段は止まることなく喋っているけど、やっぱり今日は疲れてるのかな。
家までじゃなくていいよって言おうかと思ったら、車は赤信号で停まった。
「玄瀬、このあと予定あるか?」
「え? ないよ」
いくらお酒を飲まないとはいえ、飲み会の後に予定を入れる勇気はない。
あえて作るならアニメのリアタイ視聴くらいだけど、それは一ノ宮くんも同じだろう。
「うちに寄っていかないか? こないだやってたゲームの続きをしよう」
「うん? いいけど、遅くなっちゃうよ? 一ノ宮くん疲れてない?」
「全然疲れてないぞ」
言われてみれば、イベント慣れしてる一ノ宮くんならそうなるか。
青信号で走り出すと会話は途切れ、その間にカーナビに映された時間を確認する。
我が家には一応、緩いながらも門限がある。日付を越えたらアウトという分かりやすいものだ。
今からお家にお邪魔して、家まで帰る時間を考えると……。
「んー、ちょっとしか居られないかも」
長編RPGのラスボス手前で止めていたけど、時間内に終わるかな?
エンドロールまできっちり見たいから、焦ってやるのももったいないと思うんだけど……。
「なら、泊まっていくか?」
「……えぇ?」
あっさり言われた提案に、うっかり間抜けな声が漏れてしまった。
お泊まりって……私が、一ノ宮くんの家に?
さすがにそれはどうなんだろう。聡司さんがいるんだとしてもだ。
「今朝から兄貴が出張でな、明日の夜まで帰ってこないんだ」
……え、それって?
一ノ宮くんは、大学生になっても小学男子な部分が多い。
だけど、私に対してはそれだけじゃないってことも知ってる。
そんな一ノ宮くんが、誰かのお膳立てというわけでもなく、二人きりでお泊まりをしようって言う理由は……。
「えーっと……つまり、その、えっと、そういう……」
「……そういう意味で、誘ってる」
聞いたことがないくらい小さな声だけど、車の中ではよく響く。
意味を理解した瞬間、自分の顔が耳まで熱くなったのを自覚した。
そういう意味って……そういうの、だよね?
まさか、一ノ宮くんがこんなことを言うなんて……。
いや、興味がないわけじゃないって春に言われてたっけ。だけどこんな唐突な……!
返事すら浮かばないでいるとまた赤信号に捕まり、ちらりと隣へ顔を向ける。
そしたら一ノ宮くんはハンドルから片手を離して、こっちに手の平を向けた。
「今は見ないでくれ」
大きな手の平は一ノ宮くんの姿をしっかり隠し、指の隙間からも見ることができない。
だけど信号はいつかは変わるもので、青信号を確認した一ノ宮くんは手の平をハンドルへと戻した。
車の中に明かりはないけど、外灯は眩しいくらいに道路を照らしている。
強くなったり弱くなったりの光の中、一ノ宮くんの顔はしっかり赤く染まっていた。
「真っ赤だね?」
「ここで平然としていられるほど、無神経なつもりはないからな」
珍しい強がりも、その原因は私なんだ。
精神年齢は永遠の小学生のくせに、急に大人っぽくて。
元気で明るいだけじゃなく、頼りがいがあって優しい。
そんな一ノ宮くんが、私とそういう関係になりたいって言ってくれるのは……恥ずかしいけど、嬉しい。
滑らかに走る車は、交差点に近づくと速度を緩める。
ここをまっすぐ行けば、私の家に向かう道だ。
「お母さんに、怒られちゃうから……」
前も後ろも車は居なくて、ゆっくりな速度でも迷惑をかけることはない。
だけどそれでも限度はあるもので、青信号に急かされながら、思い切って言葉を続けた。
「……紗織ちゃんの家に泊まるって、連絡する」
そう答えると、一ノ宮くんは何も言わずに、カチンとウィンカーを光らせた。
さっきまでのゆっくりな速度とは段違いの、なんならちょっとスピード感のある運転に変わる。
「で、でも、ゲーム、クリアしてからねっ!?」
「速攻で終わらせてやる」
こっちをちらりと見ながらの、ニッと笑った顔はやっぱり赤い。
だけどその笑顔はいつもと同じ、楽しくて仕方がないって顔だ。
そんな顔をさせたのが私の答えなんだと思うと、思い切って言ってよかったって思える。
こんなことになるんだったら、紗織ちゃんに心構えを聞いておくべきだったかな。
次元の向こうの知識を総動員しつつの道のりは、あっという間だった。
カーテンの隙間から射し込む日差しと一緒に、鳥のさえずる声が聞こえる。
少し冷え込んだ夜だったけど、一ノ宮くんと一緒なら寒いなんてことはなかった。
身体の節々に痛みを感じながら伸びをし、珍しいことに疲れた顔をした一ノ宮くんに目を向ける。
一ノ宮くんにばっかり頑張らせちゃったもんね。
私ももっとできればよかったんだけど、経験値の差は大きい。
次からは力になれるように練習しようと心に決め……荘厳な音楽を奏でるテレビへ目を向けた。
「……まさか、ラスボスのあとに更にボスが居たなんてね」
「攻略を見ないでやった弊害か」
リビングは既に明かりをつけなくても十分な状態で、酷使した目に優しくない。
夜のうちに出してくれた毛布に潜り込みたい気持ちを押さえ、一晩座り続けたソファからお尻を浮かせた。
流れ続けるエンドロールには、これまでの戦いの軌跡が映っている。
あー、この敵倒すの難しかったんだよね。
戦闘がコマンドじゃなくてアクション要素強めだから、一ノ宮くんにばっかりやってもらってた。
一人用のゲームでも、一つのコントローラーを二人で使えば一緒に楽しめる。
そんな初めての遊び方を楽しんでいたけど、アニメ視聴の徹夜とはわけが違くて疲労感は段違いだ。
「眠いー……」
「さすがに俺も眠いな」
あくびを噛み殺した一ノ宮くんは、少し長い髪をぐしゃっとかき混ぜる。
とろんとした目元は新鮮でそわそわするけど、それより眠気が勝ってしまった。
座った姿勢のまま身体を横にすると、ソファはなんなく受け止めてくれる。
あぁ……これは駄目だ。包容力がありすぎる。なんというスパダリ。
普段だったらてきぱき片付けをする一ノ宮くんですら、床に座ったままスパダリなソファにもたれ掛かってきた。
さんさんと射し込む日差しを受けているというのに、目蓋はどんどん重くなる。
「寝るか?」
「うー……ここで寝ていい?」
「ああ。寒くないか?」
「だーいじょーぶー」
こんな時でも私を気にしてくれるだなんて、一ノ宮くんはやっぱり優しいなぁ。
そもそも、どうしてお泊まりしようってなったんだっけ……?
ふわふわする頭で考えていると、床に座ったままの一ノ宮くんが自分の毛布に包まった。
「あれ、ここで寝るの? ベッドのほうがよくない?」
フローリングの上のカーペットじゃ、絶対身体が痛くなる。
数歩歩けば自分の部屋なんだから、無理してここで寝ることないのに。
「玄瀬が居るのに、別々に寝るわけないだろう」
いつもの元気溌剌な声とは正反対の、ぼんやりした声。
聞き慣れない声で言われた言葉に、思わず顔を上げてしまった。
「チャンスだったのにな……」
ほとんど閉じた目と、全然力の入っていない身体は、もしかして寝ぼけてる?
だけど眉は寄っていて、そんな顔と言葉によってふわふわな頭に記憶が戻ってきた。
そうだ……どうして、じゃないよ!
ちゃんと目的があってお泊まりすることになったんだ!
すっかり忘れていた目的を思い出して、一気に顔が火照ってきた。
「……どうしてゲーム、中断しなかったの?」
お泊まりの口実にしたのなら、無理に終わらせることはなかったはずだ。
それでも続けたっていうことは……やっぱりいいやって思ったとか?
それとも、思ったより疲れてたとか?
一人でドキドキしながら待っていると、うとうとした声が返ってくる。
「ゲームクリアのために来たんだから、目的を達成しなきゃ駄目だろう」
真面目か!
いや、そういう約束を守ってくれるところは、一ノ宮くんらしくていいと思うけど!
うっすら開いた目は、何も映さなくなったテレビに向いている。
だけどほんの少しだけ唇が尖っていて、拗ねているような仕草が可愛く思えてしまう。
寝ぼけているのは分かってる。
だからこそ、なのかもしれないけど……私は静かに身体を起こした。
振動が伝わらないようにゆっくりと動き、力なくもたれ掛かる一ノ宮くんに近づく。
ほとんど目が閉じているのを確認して、思い切って顔を寄せた。
「今度はさ……他の理由とかなしで、誘ってね」
聞こえなくてもいいってくらい、小さな声で。
気付かなくてもいいってくらい、微かな力で。
徹夜明けなんて思えないくらいきれいなほっぺに、そっとキスをした。
私からしたことなんて、今まであったっけ?
それくらいレアな行動だけど、寝ぼけてる一ノ宮くんは気付かないはず……。
なのに、重たそうだった目蓋がぱっちりと開き、真っ黒な目がしっかりとこちらを向いた。
「お、おやすみなさいっ!」
何かを言われる前に慌ててソファに倒れ込み、毛布を頭から被る。
うわ……うわぁ……! 私、なんかとんでもないことしたかも!?
寝ぼけていたのは一ノ宮くんだけじゃなかったらしい。
恥ずかしすぎる行動はしっかり認識されちゃったみたいで、毛布の向こうから衣擦れの音が聞こえた。
「玄瀬」
短く呼びかける声に返事なんてできっこない。
おやすみって言ったし、徹夜明けなら即落ちしたっておかしくない。
だから私は毛布の中でじっと動かないことにする。
「くーろーせ」
のんびりとした声はあんまり聞かないもので、恥ずかしさの中にきゅんとしたものが混じってしまう。
ソファに肘でもついたのかな。
身体が少し傾いて、一ノ宮くんが近づくのが分かってしまった。
「ぐーぐー」
「さすがにそれは騙されないな」
分かってるよ! だけどこれくらいしかできないんだよ!
一ノ宮くんは強引に毛布をめくることはしないけど、上からぽんぽんと位置を探っているみたい。
頭のてっぺんから始まった調査は、優しく下へと下りていく。
おでこと、鼻と、次はもしかして……。
そんな緊張を裏切るように、その手は私のほっぺをむにっと押し込んだ。
「むぅ」
全然痛くはないけど、うっかり声が出てしまう。
一ノ宮くんの小さな笑いが聞こえたと思ったら、今度は違う感触が押しつけられた。
指みたいに固くはなく、手の平みたいに大きくもない。
ふかふかの毛布の感触に負けてしまいそうなものの正体は、一体なんだろう?
「お返しだ」
うっかり毛布をめくってしまいそうになる前に、同じ場所から声が響いた。
お返しって……。
からかうような声と、それが響いてきた場所を考えれば、答えは一つしかない。
毛布一枚向こうには、一ノ宮くんの顔がある。
そんな一ノ宮くんが押しつけてきたのは……。
気付いてしまったら、顔がかぁっと熱くなってしまった。
なのにそんな私に気付くことなく、一ノ宮くんの気配は遠ざかる。
いや、当たり前か。毛布を被ったままの私が悪い。
毛布を広げる音がするけど、床で横になってるのかな。それとも、自分の部屋に戻ったのかな。
耳からだけの情報じゃ、何が起こっているか全然分からない。
だけど恥ずかしくてドキドキしてきゅんきゅんしてる状態で、顔を出すなんて不可能だ。
往生際悪くもぞもぞしていると、ソファの端が少し揺れた。
「起きたら遊ぼうな。おやすみ」
そう言って、私の腕にとんと何かが触れる。
あったかくて固いものは、頭かな?
離れることも居なくなることもない一ノ宮くんは、ちゃんと私を置いていかないでくれる。
じわじわと伝わる体温を感じていると、なんだか気持ちが落ち着いてきた。
私にとって一ノ宮くんは、ドキドキする相手であると同時に、心底落ち着ける相手でもあるらしい。
我ながら都合のいい考えに、あんなに緊張してた身体がふっと軽くなる。
そうしたら少しだけ薄れていた睡魔も戻ってきて、一瞬のうちに意識は遠のいていった。
ガチャンという音の後に、間隔の広い足音が続く。
せっかく気持ちよく寝てたのに、誰? お母さん?
毛布の中で身体を丸めると、遙か上から低い声が聞こえてきた。
「京伍……これはどういうことだい?」
けいご……? 聞き慣れない名前に、ようやくここが家じゃないことを思い出した。
思わず飛び起きると、寝る前と同じ格好だった一ノ宮くんが目をこすっている。
そんな私たちを厳しい目で見おろしているのは、出張に行っていたという聡司さんだった。
リビングには出しっぱなしのゲーム機に、長時間過ごしたことが丸わかりのお菓子や飲み物。
射し込む日差しは赤色で、ぐっすり眠っていたのもあわせればお泊まりしたのは明確だろう。
いくら面識があるとはいえ、保護者の居ない家で男女がお泊まりだなんて、許されっこない……!
「ご、ごめんなさ……」
「朋乃ちゃんと徹ゲーするなんてずるい! 僕もやりたい!!」
……え?
怒られる前に謝ろうと思っていたのに、想定外の主張が返ってきた。
だけど一ノ宮くんは驚くことなく、寝癖のついた髪を適当に手で直している。
「兄貴はもうこのゲーム、終わってるだろう?」
「妹と一緒にやることに意義があるんだっ!」
うん……聡司さんの謎理論、久々だ。
ずるいずるいと連呼する聡司さんに、一ノ宮くんは深いため息をついた。
「分かった分かった、これからやろう。玄瀬、いいか?」
「え? う、うん」
寝起きでぐだぐだな私と一ノ宮くんに、スーツのままの聡司さん。
すぐに起動したゲームは終わりのないパーティゲームで、コントローラーを手にした聡司さんはご満悦だ。
えーっと……これでいいの?
ちらりと一ノ宮くんを見てみると、呆れたような苦笑を浮かべている。
もしかしたら、なかなか進展しない理由は私の臆病さだけじゃないのかもしれない。
これでいいのか悪いのか分からないけど、いつもの通りのやりとりに笑えてしまった。
そうして始まったゲームは夜遅くまで続き、門限ギリギリに家に飛び込むことになったけど、やっぱり楽しい時間だった。
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