39.合格発表

 気付けばもう二月。

 試験が終わり、あとは結果を待つだけのもどかしい気持ちで過ごしているはずなのに、時間は瞬く間に過ぎていく。

 それはなぜかというと……。


『次のお薦めはこれだ』


 そんな一ノ宮くんのメッセージを見ながら、動画配信サイトに齧り付いているからだ。

 押し込んでいた煩悩が解放されてしまったんだ、私を止める術はない。

 漫画もアニメもゲームもやり放題、やっほー! ってしてたら、さすがにお母さんに雷を落とされたっけ。

 そして気付けば明日は合否発表の日。

 本命と記念と滑り止めがあるけど、本命以外はネットで確認しようと思っている。

 何度か行った本命の大学への経路を再確認していると、再び一ノ宮くんからメッセージが届いた。


『明日、発表だろう? 一緒に行ってもいいか?』


 そんな文章にぴたりと指が止まってしまった。

 うちの両親は残念ながら仕事で行けないと言っていたから、一人で見に行くつもりだったのに。

 だけど喜びか、もしくは悲しみを抱えるのに一人だと寂しいものがある。

 なので、私はすぐにオッケーのスタンプを押した。

 あんなに教えてくれたんだもん、きっと結果が気になるよね。

 待ち合わせの場所と時間を確認すると、私はいそいそと次のアニメを再生した。


 合否発表当日。私は大学の最寄り駅で一ノ宮くんと待ち合わせをし、賑わう道をゆっくりと歩いた。

 本当は朝一で行くべきかなと思ったんだけど、無理に混雑に挑むことはない。

 掲示から一時間くらい経ったこの時間、駅に戻る人たちは悲喜こもごもだ。


「どうしよ……今更緊張してきた」


 大学の門をくぐり、あと少しで掲示場所が見えるという位置。

 遠くからは賑やかなざわめきが響いてきて、いやがおうにも位置が分かってしまう。


「俺も、自分の時より緊張している」


「それはどうかと思うよ……」


 いや、指定校推薦の合格率はほぼ100%なんだから当たり前か。

 一般受験の私は、合か否かの二つに一つ。

 手の平にじんわり汗が滲むのを感じるけど、学校からの指示で着てきた制服を汚すわけにはいかない。

 慌てて鞄からハンカチを取り出しきちんと拭き取った。


「行くぞ」


「うぅ……行く」


 一ノ宮くんに促され、重たい足をじりじりとその場所に向ける。

 結果はもう張り出されているけど、私はまだそれを見ていない。

 つまり今は、私の結果は合でも否でもあり得る。

 観測者がいて初めて事象は決定する。つまり、ここで見なければ落ちるという結果も存在しない!


「箱猫の理論にすがるな。お前が見なくても俺は見るぞ」


「ひどいよー……」


 ちょっとした現実逃避くらいさせてほしいのに……。

 だけど、出ているものは出てしまっている。

 シュレディンガーの猫は観測されてしまっているんだ。ならばここは、腹をくくるしかない。

 一歩進むごとに早くなる心臓は、掲示板の前に行ったら破裂しちゃうんじゃないだろうか。

 見に行く人と見終わった人。

 流れる二つの人混みの片方に混じり、無理にすり抜けることなく進むのを待った。

 その間にもたくさんの歓声と落胆の声が聞こえ、何も見ていないのに涙がにじんできた。


「玄瀬、泣くのはまだ早いぞ」


「分かってる……っ!」


 気付けばついに目の前に来てしまい、ポケットから受験票を取り出す。

 皺が寄ってるけど番号を見るのに問題はない。

 すぐ隣に居る一ノ宮くんにも見えるように、二人の真ん中に差し出してから掲示板を見上げた。

 一番最初の番号から、下に向かってゆっくりと。下にたどり着いたら、もう一度上から。

 こういう時、受験番号が若い人は楽なんだろうな……。いや、ドキドキもなにもあったもんじゃないか。

 じわりじわりと数字が大きくなり、百の位が私の受験番号と同じになった時。


「……あ」


 すぐ近くから、そんな声が聞こえてしまった。

 思わず声のした方を見ると、一ノ宮くんが掲示板を見つめたまま口元を手の平で隠す。

 そ、それってどういう意味っ!?

 私より先に数字を辿ってしまったらしい一ノ宮くんに聞きたい気持ちはあるけど、それより自分で確認するべきだ。

 目を離してしまった列の頭から下り、着実に近付く番号を祈るような気持ちで辿っていく。


「あ……」


 一度するりと通り抜け、数字が大きくなったことに気付いてまた戻る。

 そして目に入ったのは……手元の受験票と同じ数字だった。


「い、一ノ宮くん……あったっ!」


 思わず受験票を握りしめ、くしゃっと潰れる音が響く。

 一ノ宮くんは口元を隠したまま私を見つめ、受験票ごと私の手を握って人混みから抜け出す。

 急なことに驚いて脚がもつれると、一ノ宮くんはそんな私の身体をふわりと持ち上げた。


「やった……やったなっ!」


 すぐ目の前に迫る一ノ宮くんの顔は、いつもと同じ、ニッとした笑顔。

 そんな表情が嬉しくてそれに答えようとした時……ありえないことに視界がぐるりと傾いた。


「えぇぇぇぇ!?」


 どうしてそんな状態かというと、私を持ち上げた一ノ宮くんがその場でぐるぐると回り始めちゃったからだ。

 そんなことをしたら私には遠心力が働き、脚を浮かせてぐるりんぐるりんと回されることになってしまった。


「すごいぞ! 合格だ!」


「待って待って待って!」


「やったぞ! おめでとう!」


「分かったから止まってぇぇぇっ!!」


 周りにはたくさんの人がいると分かっていても、想定外の事態に叫びが止まらない。

 止めて降ろして助けての懇願を聞き入れてくれたのはずいぶんあとで、ようやく地面に脚がついた時にはふらふらになっていた。

 ひどいよ一ノ宮くん……喜ぶ暇がなかったじゃんか。

 さすがに文句を言おうと顔を上げると、今度は私の身体に一ノ宮くんの腕が回された。

 え、ちょっと……?

 ふらつく頭で考える前に、私は一ノ宮くんの腕の中に居た。


「い、ちのみや、くん……っ?」


 これは……疑う余地もない抱擁だ。

 ぎゅうぎゅうと力が込められる腕に、お互いの距離はまったくない。

 顔も、胸も、腰も、脚すらも、ぴったり触れてしまっている。

 そのせいで、私の顔には一ノ宮くんの鼓動がしっかり聞こえてしまっているくらいだ。

 速くて強い鼓動は、ぐるぐる回ってしまったからか。それとも結果に興奮しているからか。

 あるいは……私と同じ気持ちだったりするんだろうか?

 運動でもなく、興奮でもなく……もっと、別の気持ち。

 こうしていることが嬉しくて、楽しくて、安心できて、幸せで。

 そんな気持ちの意味なんて、一つしかないだろう。

 強く強く抱きしめてくれる一ノ宮くんの腰に、そっと自分の腕を回す。

 伝わる感触は、二人乗りをした時以来の、あんまり柔らかくない男の子の身体。

 前は極力距離を取っていたけど……今日は思い切って、抱きつくように力を込めた。


「玄瀬、合格おめでとう」


 一ノ宮くんは自分の頭をこつんと私にあて、耳のすぐ近くで囁いた。

 周りの喧噪の中でもその声ははっきりと聞こえ、私の腕に力が入った。


「あり、がとっ……」


 抱き締められて、抱きついて、囁かれて、囁き返す。

 出てきた私の声は震えていて、気付けば涙がこぼれていた。


「合格、したよぉーっ……嬉しいぃー……!」


「ああ。合格だ、頑張ったな」


「ひっく……頑張った、よぉー……!」


「偉いぞ。玄瀬の頑張りが報われて、俺も嬉しい」


「わ、私も、嬉しい……っ! うぅー……っ!」


 涙はあっという間に嗚咽に変わり、一ノ宮くんの肩に顔を埋めてわんわんと泣きわめいてしまった。

 人の目なんて知ったことか。嬉しくて泣いちゃうことなんて、受験生には日常茶飯事なはずだ。

 あぁ、でもここで泣いたら制服濡らしちゃう……。

 そう呟くと、一ノ宮くんはポケットからきれいに折りたたんだハンカチを取り出した。


「俺は玄瀬に濡らされるなら構わないんだがな。お前が好きなものを守る努力はしよう」


 肩に置かれたハンカチには一ノ宮くんの体温が残っていて、なんだか落ち着く匂いがする。

 そのハンカチに顔を埋めると、痛いくらいに抱き締めてくれていた腕は緩み、今は労るように触れてくれていた。


「今日、は……袖じゃ、ないんだ、ね?」


 つっかえつっかえの私の言葉に、一ノ宮くんは小さく笑う。

 その振動すら伝わる距離は、苦しいけど離れがたいものだ。


「漫画だったら袖じゃなくてハンカチなんだろう?」


 ずいぶん前に言ったことを、ちゃんと覚えていてくれたらしい。

 なんだかそれが楽しくて笑ってしまうと、温かな身体がゆっくりと離れた。


「さて……親御さんに連絡したらどうだ? それに、入学の書類ももらわなきゃだろう?」


「あ……そ、そうだよね!」


 腕を解いた一ノ宮くんは、いつもより断然近い距離なのに、いつもと同じ口調で言った。

 私はまだまだドッキドキだし、恥ずかしさで爆発しそうだっていうのに……。

 ということはやっぱり、一ノ宮くんにとってこれは喜びの抱擁だったんだろうか。

 よく考えてみれば、そうだよね。なんかこう、感極まって、みたいな。

 ちょっと赤く見える耳だって、単純に合格っていう結果に対する興奮が残っているだけなんだろう。

 そのことがちょっと残念だけど、抱き締めてもらえたことは思い出として残る。

 そう。そういうことにしておかなきゃ。

 合格の嬉しさの中にちょっとだけ寂しさを感じつつ、足早に事務所へと向かった。


 必要な書類をもらい、両親にメッセージを送ってから戻ると、一ノ宮くんはぎゅっと腕を組んでベンチに座っていた。

 思った以上に時間がかかってしまったから、さすがに寒かったのかな……。

 慌てて駆け寄ると、一ノ宮くんはパッと顔を向けてくれた。


「連絡ついたか?」


「うん、仕事中だから報告だけだけど。一ノ宮くん、寒かったでしょ? 遅くなってごめんね」


「いや、全然寒くないぞ。むしろ暑いくらいだ」


 そう言って立ち上がった一ノ宮くんは、耳の赤さが抜けていなかった。

 それはさっきも思った興奮冷めやらぬからか、それとも寒さからかの判断ができない。


「玄瀬、このあと用事はあるか?」


「えっと……学校に報告に行くくらいかな」


 書類関係の処理があるからって、ちゃんと登校するように言われてるんだ。

 正直、ここからだと家に帰ったほうが早いんだけど、決まり事だから仕方がない。

 渋々そう説明すると、一ノ宮くんはよしと頷いてこう言った。


「じゃあ遊びに行こう! 兄貴が軍資金をくれたからな。久々にカラオケで思いっきり歌わないか?」


「行きたいっ!」


 そんな提案に思わず即座に返事をすると、書類を持っていないほうの手をすっと握られた。

 いや、だからこれは、はぐれないようにって意味だから! ドキッとしないでよ心臓!


「今日はお祝いだからな。ハニトーもつけてやろう」


「いいの? 私一人で一個食べるの、やってみたかったんだけど」


「もちろんいいぞ。だったら一つずつ頼もうか。平日昼間だからフリータイムでいけるな」


 そんな会話をしていると、動揺していた鼓動も落ち着いてくる。

 それがいいのか悪いのか、どっちなのかを決めたくはない。だから、私から手を離すことはやめておこう。

 人がずいぶん少なくなった道を歩き、駅へと進んでいる間も、その手が離れることはなかった。

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