38.寒くて嬉しくてたまらない
とうとう迎えてしまった新年。
年末年始は僅かばかりに行事を楽しんだけど、あとはほとんど勉強だ。
一ノ宮くんの家庭教師ももうなくなり、ただひたすらに過去問を繰り返す毎日はかなり辛い。
だけど、今の頑張りがこれからに響くんだと思えばやる気も振り絞れるもののようだ。
冬休みが終わって学校に行っても、教室は最高潮にピリピリしている。
休んでいる人も何人か居るけど、ほとんどは普通に登校している。
なぜかというと授業はすべて自主勉強になり、先生に聞けばすぐに対応してくれるからだ。
そんな状態にさすがの一ノ宮くんも静かにしているみたいだから、みんなの気迫はよっぽどなんだろう。
学校、塾、家。空いてる時間をすべて勉強に充てていると、日にちが過ぎるのはあっという間。
気付けば明日はもうセンター試験という驚愕の早さだった。
「玄瀬、ちょっといいか?」
受験者への説明を聞いた後、帰り支度をしている時に一ノ宮くんが話しかけてきた。
なんだか声を聞くのも久しぶりだな……。
約半月ぶりにきちんと顔を合わせると、なんだかほっとしてしまった。
「うん。どうしたの?」
「いや、今日はどう過ごすつもりかと思ってな。ずいぶん疲れているようだから、無理は禁物だぞ」
端から見て分かるくらいなのかな。いくらみんな同じ状態といっても、指摘されるのは恥ずかしいものだ。
さすがに今日は勉強はほどほどで終わらせ、睡眠時間を確保することにしている。
塾でも学校でも体調管理に気を付けるように言われているし、前日に詰め込むくらいならコンディションを整えたい。
そう思って大雑把に決めている予定を説明すると、一ノ宮くんの気にしていたことは解消されたらしい。
それがいいって言ってくれたことで、私の気持ちも落ち着いたのは不思議だった。
「駅まで送るか?」
「ううん、今日はやめとく。先生に怒られちゃうとまずいからね」
二人乗りくらいじゃなんてことないだろうけど、一応注意はしておくべきだろう。
何度もついていこうかと言ってくれる一ノ宮くんを止め、折衝案として校門までは一緒に行くことになった。
「じゃあ、またね」
「ああ。玄瀬も、気を付けるんだぞ」
真っ赤な自転車を押して歩いてきた一ノ宮くんは、乗り込む様子もない。
きっとどちらかが動かないと、このままずっと帰れないだろう。
心地いい空気を感じる一ノ宮くんの横から思い切って離れ、駅のほうへと足を向けた。
背後から音がしないから、きっと一ノ宮くんは止まったままなんだろう。
振り返ったら笑ってくれるかな、なんて思ったけど……多分、きりがなくなっちゃう。
だから、私はそのまま足早に前へと進んだ。
家に帰ってご飯とお風呂を済ませると、頭にタオルを巻いたまま勉強机に向かう。
といっても、今から本格的な勉強をするつもりはない。
明日の準備は終わっているし、本当なら向かう必要なんてないんだけど……。
「あやかれたりしないかなぁ……」
机に置かれた一ノ宮くんと色違いのプラモデルを握り、ついため息が出る。
せめて一ノ宮くんの頭脳の一割でもお借りできればなぁ。
無理だと分かっていながらもティッシュで埃を落とし、さっきと同じように置き直す。
あとはちょっとだけスマホを見て、素直に寝てしまうことにしよう。
そう決めて髪をタオルで拭きつつスマホを見ると、メッセージアプリの通知が入っていた。
こんな日に誰だろう? 受験の済んだ久美か、それとも同じく明日が本番な絢ちゃんかな。
何の気なしにタップすると、それは予想していた二人のどちらでもなかった。
『少しだけ家の外に出られるか?』
そんな文章の送り主は、一ノ宮くんだった。
通知があったのはもう三十分も前で、慌ててカーテンを開けて外を見た。
「嘘……」
玄関のすぐ近くで、塀に寄りかかった後ろ姿が見える。
それが誰かなんて見間違えるはずがない。春からずっと一緒に居て、何度も見てきた姿なんだから。
寒そうに肩を縮めた様子から、長い間そこにいたんだろう。
とっくに夜の、こんな時間なのに。
そのことに気付くと急に胸の辺りが苦しくなって、肩にかけたタオルもそのままに急いで階段を駆け下りた。
どたばたと騒がしい音にお母さんが何事かと声をかけてきたけど、今はちょっと待っててほしい。
チェーンを外すのももどかしくて、何度か失敗しながら外へと走った。
「一ノ宮くんっ!」
思わずかけた声に、一ノ宮くんはぱっと振り返ってくれた。
温かそうなダウンジャケットを着ているものの、それだけで寒さがしのげるわけじゃないだろう。
玄関から届く光の中でも、耳が真っ赤なのが見て取れる。
「ごめんっ、お風呂入ってて、あの……」
「いや、約束もなしに来た俺が悪いんだ。謝る必要はない」
「でも……」
傍らには真っ赤なママチャリが停められていて、驚いたことに自転車で来たらしい。
私がお湯の中でぬくぬくしていた時間、こんな寒空の下に居させたと思うと申し訳なさでたまらない。
家の中に招こうかと悩んでいると、一ノ宮くんは私をじっと見ていた。
「髪、ちゃんと乾かしてこい。あと厚着もしてくるんだぞ」
「いや、大丈夫だから! 一ノ宮くんのほうが寒そうじゃん!」
「暑さ寒さはイベントで慣れてる。受験生の身体のほうが大事だろう」
それは、そうなのかもしれないけど……。
冷たい風が吹いてぶるっと震えてしまうと、一ノ宮くんはちょっと笑って言ってくれた。
「待ってるから、行ってこい」
そして、一ノ宮くんは再び塀に背中を預ける。
これは意見は変えないぞっていうことなんだろう。
だったら私にできることは超特急で身支度を済ませることだけだ。
出てきた時と同じように騒がしく家の中に戻り、ドライヤーでばっさばっさと髪を乾かす。
そして前にも着たもっこもこのコートを羽織ってから外に出て、一目散に一ノ宮くんの正面へ向かった。
「お、お待たせ……!」
「かえって急がせたみたいだな、悪い。すぐに済むから」
そう言うと、一ノ宮くんはちらっと視線を揺らしてから、じっと私に目線を合わせる。
それはいつものように優しくて、いつもと違って真剣だった。
「電話でも、メッセージでもよかったんだろうが……どうしても、ちゃんとお前に会って言いたかったんだ」
ほとんど音のない夜の中、一ノ宮くんは真っ直ぐに私を向いている。
そのことに緊張でもしそうなものだけど、私の気持ちは驚くほど落ち着いていた。
一ノ宮くんと居ると、落ち着く。ドキッとすることも多いけど、安心することだって多いんだから。
そして今は安心のほう。だから続く言葉をゆっくりと待った。
「お前が頑張ってきたことは、俺がよく知ってる。だから大丈夫だ。自信を持て」
はっきりと言い切った一ノ宮くんが浮かべていたのは、ニッと笑った自信満々の表情。
それを見た瞬間、つられて私も笑ってしまった。
できるだけのことはしたし、求める点数には届くと思う。
だけどそんなの、結果が出るまでは分からない。
そんな不安は僅かだけでも私にまとわりついていて、落ち着かない気持ちにさせていた。
なのに、一ノ宮くんの一言で、そんな気持ちが一気に消えてしまったんだ。
「持ってるとは思うがこれ、渡しておく。カイロとのど飴と、あと兄貴からブドウ糖タブレットを持たされた。
なんでも、効率よく糖分を取るならこれが一番って話だ。頭脳労働が仕事の人間の言葉なら信用できそうだろう?」
「うん、そうかもしんない」
一ノ宮くんは鞄からごそごそとそれらを取り出し、ぽんぽんと私の手に置いていく。
その時触れた指がびっくりするくらい冷たかったけど、それは言わないほうがいいんだろう。
鼻の頭まで真っ赤になってまで居てくれた一ノ宮くんの気持ちは、素直に受け取っておきたいから。
「一ノ宮くん」
「なんだ?」
「ありがと。すっごく嬉しい!」
もらったものを胸に抱き、思った言葉をそのまま口にする。
それは一ノ宮くんにもきちんと伝わったようで、目元を緩めて頷くと、そのまま真っ赤なママチャリに跨がった。
「湯冷めする前に帰るぞ。全部済んだら、遊ぼうな」
「うん! 私、頑張ってくるね」
「ああ、頑張ってこい」
そう言うと、一ノ宮くんは颯爽と駆け抜けていった。
今から自転車で帰るとなると、どれだけ時間がかかっちゃうんだろう?
でも、そうまでして会いに来てくれたんだ。
そんなことにまた胸がきゅっとしたけど、今は言われたとおりに湯冷めを警戒すべきだろう。
そそくさと自分の部屋に戻り、ベッドに座って枕を抱き締めた。
「うー……」
一ノ宮くんが応援してくれたことが、嬉しい。
誰に応援されてもそう思うのかもしれないけど、ここまでたまらない気持ちになるのは、相手が一ノ宮くんだからだ。
試験前日にこんなに喜ばせてどういうつもりだろう?
もらったものを大事に鞄に入れ、きちんと部屋の電気を消してから布団に潜り込んだ。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めて、お母さんが作ってくれた朝食を食べる。
昨日の夜に、朝ご飯はとんかつにするか、それとも消化のいいパスタがいいかって聞かれたけど、普段どおりにしてもらった。
というか、朝から揚げ物はちょっと苦しいよ……。
ご飯と、お味噌汁と、目玉焼きと、お漬物。いつもの和風な朝食でお腹を満たし、早めに会場へ向かうことにした。
幸い、天気は晴れ。
かじかむ寒さだけど、身体には貼るカイロをいくつもつけているし、手には昨日もらったものを握っている。
マフラー、マスク、耳当てで寒さとウイルス対策もバッチリだ。
開始時間より大幅に早くついたけど、私と同じ人は多いらしい。
指定された席に座ると、最後の見直しをしながらポケットのものを取り出した。
はちみつレモンののど飴と、個包装されたブドウ糖タブレット。
試しに真っ白なタブレットを食べてみると、すぐに溶けてなくなった。
うん、糖分! きっとこの甘さが頭にいいんだろう。
続いてのど飴を口に放り込むと、ほんのちょっとの酸っぱさの後に甘さが広がった。
気付けば受験生がどんどん集まってきて、張り詰めた緊張で息苦しい。
だけど……一ノ宮くんが大丈夫だって言ってくれたんだから。
口の中で飴をころんと転がして、カイロをぎゅっと握りしめる。
ついに始まる勝負に向けて、最後のもう一踏ん張りだ。
焦らないよう、たるまないよう気を付けながら時間を過ごし、ついに試験が始まった。
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