35.誘惑と現実と提案

 もう数十日寝るとお正月。そんな十二月のはじめ、私は一枚の紙を前にひどく緊張していた。

 今日は塾の個人面談。そしてそのために準備されているのは、先日行われた模試の結果だ。

 本来ならここまで緊張するものじゃないのかもしれない。いや、緊張するべきなんだろうけど。

 どうしてこんなことになっているのかというと、それは先月、とある約束をしていたからだ。


 もう何度目かというくらいに通った一ノ宮くんのお家で、怒涛のマンツーマン指導を受けていた日曜日。

 志望校は確定したし、願書の提出ももうすぐ。

 一ノ宮くんのおかげでかなり自信はついたものの、不安がなくなることはない。

 もっと勉強するべきなんじゃないか。これくらいじゃ足りてないんじゃないか。

 なんならもっとレベルを落とすべきなんじゃないか。

 休憩という名のおやつタイムなのに、お菓子に手が伸びずソファにごろりと倒れ込んでしまった。

 よそのお家でこんなにくつろいでいいものかと思うけど、今日は聡司さんはお仕事で居ないし、一ノ宮くんは気にせず床に座ってスマホゲーのスタミナ消費に勤しんでいる。

 凝り固まった身体を伸ばしてながらじたじたしていると、スマホを置いた一ノ宮くんがソファの角にちょこんと座った。


「なぁ、玄瀬。冬コミに行かないか?」


「行きたい、けどなぁ……」


 世界的に有名な最大規模の同人誌即売会。オタクなら誰しも聞いたことがある名前だろう。

 大きな会場で三日間開催されるイベントは、薄い本のやりとり以外にコスプレなんかも充実しているらしい。

 そんな天国のような場所、行けるものなら行ってみたいけど……。


「ずいぶん頑張っているし、息抜きも必要じゃないか?」


 もしかしたら一ノ宮くんは、私のこのじたじたの理由に気付いているのかもしれない。

 最近、ずっと参考書にかじりついているし、勉強後の遊びもかなり減ってきている。

 日々の潤いを得ずに苦行を課している身はそろそろぼろぼろだ。


「そうなんだけど……不安なんだよぉー……」


 じたじたじた。ふかふかのソファはそんな振動も吸収してくれるけど、私の悩みはどうにもしてくれない。

 回らない頭で高い天井を見上げていると、ふと一ノ宮くんが覗き込んできた。

 下から見上げる顔は相変わらず格好よくて、ついぼーっと見とれてしまった。

 モスグリーンのセーターからちらりと見える鎖骨は、覗きでもしているかのような背徳感を感じる。

 覗いてないけど。見えてるだけだけど!

 真冬と言える季節で厚着になっていたから、そんなチラリはご褒美だ。

 ちょっとした潤いに癒やされていると、半分に割られたチョコチップクッキーが口元に当てられた。


「お前は不安かもしれないが、俺は全然不安じゃないぞ」


「それは一ノ宮くんだからだよ……」


 口を開くと入り込んできたクッキーは、バターとチョコの香りが強くて美味しい。

 今日の手土産はクッキーやさんのクッキーセットだ。

 残りの半分を口に放り込んだ一ノ宮くんは、もぐもぐしながら何かを考えているらしい。

 あー、糖分美味しいなぁ。

 だけど吸収されるにはまだ時間がかかるだろう。頭はふわふわしっぱなしだ。

 もう一枚食べたいなぁ……また食べさせてくれないかなぁ。

 動きたくない私は、動物園の触れあいコーナーに居るヤギの気分だ。めぇめぇ。

 じっとテーブルを見つめていると一ノ宮くんの手が伸び、半分に割ったアーモンドクッキーを差し出してくれた。

 ありがとう、おいしいです。

 考え中の一ノ宮くんを邪魔しないよう黙ってもぐもぐしていると、突然こんな提案をしてきた。


「そろそろ模試って言ってたよな? それでA判定だったら行こう!」


「うー……それなら……あり、かなぁ……?」


 身体にしみる甘さを感じながらの返答は、一ノ宮くんの期待に添っていたらしい。

 ニッと笑った一ノ宮くんは参考書を手に取り、ぱらぱらと目を通していく。


「絶対に取らせてやる」


 自信満々の笑みを浮かべた一ノ宮くんの指導は、飴だけだった今までと違い、ほんのちょっぴり鞭の入ったモードになっていた。


 そんなスパルタ授業をこなしてから受けた模試の結果が、今目の前にある。

 塾の先生は会話もそこそこに結果をひっくり返し、机の上を滑らせてくれた。

 もはや見慣れたその紙の、他より大きなマス目の中に書かれた記号は……。


「やったぁっ!」


 ようやく見ることができたAの文字に、思わず椅子から立ち上がってしまった。

 みんな静かにしている場所での大声はよく響いてしまったようで、先生に苦笑と共に注意されてしまい平謝りだ。

 でも、そうか、そっかぁー……。

 あんなに頑張ったもんね。それに、一ノ宮くんもいっぱい教えてくれたもんね。

 その結果がこれとなると、なんだか嬉しくて暴れたくなってしまう。いや、暴れないけど。思っちゃうだけだけど。

 あくまでこれは模試だからという忠告はきちんと聞いておき、家に帰る前にメッセージアプリを開いた。


『A判定だったよ!』


 送信先はもちろん一ノ宮くんだ。

 喜び踊るスタンプも添えておき、さて帰ろうと歩きだすと、すぐにスマホが震えた。

 慌てて画面を見るとそれは一ノ宮くんからのメッセージで、一瞬で入力したであろう文章が表示される。


『やったな!』


 続いておめでとうのスタンプが送られてきて、思わず口元が緩んでしまった。

 いやいや、ここはお外だ。だらしない顔をしてたら不審者になってしまう。

 会話を続けたい気持ちを押し留めて急いで家に帰り、ただいまもそこそこに部屋へと駆け込んだ。

 机の上の青いあの子をちょんとつついてからスマホを取り出すと、早速返信を始めた。

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