5日目 逃避行
アルフリッドにとっての普通の速さは、ミリーナにとってはまたも全力疾走のようだ。
見つからないように目立たない場所を通り抜け、ようやく厩に着いた頃には息も絶え絶えだった。
「大丈夫か?」
「は……はいっ」
「無理させてすまない。このまま馬に乗る」
「お任せ、しますっ」
ぜいぜいと息を整えている間、アルフリッドは番をしていた老人に話をし手早く鞍を準備した。
「さ、行こう」
差し伸べられた手を取るとそのまま馬上の人となっていた。ぎゅっと腰に腕を回され、咄嗟にアルフリッドの胸元に手を当てると、片手で器用に手綱を操り走り出した。
「殿下、お気をつけて!」
背後から聞こえる声はみるみる遠ざかり、人の気配の少ない小道を駆け抜けた。
夕闇の近付く街中、二人を乗せた馬は軽やかに走り抜けていく。広場に人が集中している為かいつも以上に人気が無いことをいいことに、走りやすい大通りを行くことにしたようだ。
乱れていた呼吸も整い、ようやく周囲を見る余裕の出来たミリーナは一つの行き先に思い当たった。
「あの! わたしの家に行くんですか?」
さっき一人で走ってきた道だと気付いて聞くものの、以前走った時よりも速度が速いのか、風切音でなかなか声が届かない。何度か繰り返しやっと伝わったと同時、アルフリッドは口元に笑みを浮かべ緩やかに首を振る。
このまま会話を続けるのは難しいと諦め、せめて邪魔にはならないようにとその場にじっとすることを選んだ。
気付かれないようそろりと見上げると、赤い夕日に染まるアルフリッドの姿があった。
黒い髪に、青と赤が入り混じるそれは夕焼け空のようで……見惚れていると、前に向けられていた瞳がちらりとこちらに向く。その瞳の中にも同じ色を見つけ、綺麗だなと見つめていると、腰に回された腕に力が入った。
「どうかしたか?」
耳元で囁かれはっとして首をぶんぶん振り、恥ずかしさを悟られないよう視線を胸元に戻す。と、そこに初めて見る文様のような物を見つけた。先程まであて布をされていた刺繍だが、ミリーナには見覚えが無かった。
(……鳥?)
よくよく見るとそれは大鷲に見えた。その文様と、先程の広場での話を頭に浮かべると、ミリーナの中にやっと今の状況が下りてきた。
(アルフさんは大鷲の君……王子様、だったんだ)
カインではなくアルフリッドが王子だった。
その事実はじわじわとミリーナの心を覆い、手を付く胸元をじっと見つめる。
銀糸で模られた大鷲の文様。何度も聞いた、何度も意識したその存在。
その存在がミリーナの頭の中を少しずつ冷やし始めた時、ゆっくりと速度が落ちていった。
「そろそろ着く」
そう言われ見回すと、そこは昨日も来た広く静かな湖だった。
夕日の赤さもほぼ無くなり、今度は月明かりに照らされた湖はとても明るく、その光を受けたアルフリッドの姿は青く輝いて見える。
ゆっくりと止まり前と同じように馬から下ろされると、やっと二人は向き合うことが出来た。まっすぐに見つめられ思わず俯きかけたが、それではいつもと変わらないと気付き、ぐっとこらえてその視線に答える。
「……急なことばかりで、驚かせただろう」
一歩近付き、ミリーナの頬に手が添えられる。それは少しひんやりしていて、火照った顔に気持ちよい。
「さっき言った通り、俺が王子だ。黙っていて、本当にすまなかった。カインが言ったように入れ替わりをしていた最中だったのと、何より……」
言いづらそうに口を噤み、指先でそろりとミリーナの目元をさする。そこには涙の跡がまだ残っていた。
「正体を知られたら……もう、会えなくなると思ったんだ。今日を終えれば確実にそうなる。だから最後まで、ミリーナにだけは知られたくなかった」
ゆるゆると頬を撫でる指先が、まるで縋っているかのように感じられた。頼りなさげなその感触に、自分の手をそっと重ねる。
(ちゃんと、言わないと。正直な気持ちを)
「ごめんなさい。わたし……アルフさんが王族だって分かった時、ひどい態度を取りました。そのことで傷付くなんて、想像もしてなかったんです。だからちゃんと謝りたくて……」
その言葉に目を瞠ったアルフリッドは、頬に添えた手を肩に動かし、少しだけ自分に近付けた。ミリーナはそれに反することも無く、馬に乗っていた時のように青い儀礼服を纏った胸に軽く手を置く。
「謝らないでくれ。もっと早く言えばよかったんだ。ちゃんと自分の口から」
素肌の肩に置かれた手はまだ冷たいけれど、その場所がどんどん熱を帯びていった。
同じように、自分の手を置いた胸元も温かく、その奥から響く鼓動を感じられる。
それはとても速く強く、同じものが自分の胸元からも発せられていることに気付く。意識すると自分の鼓動は耳に届き、とくとくと激しくも規則正しく音を立てていた。
王子の象徴の刺繍の奥から響くアルフリッドの音。自分と同じように発している音。
そのことに気付くと、心を覆い隠しそうだったものが少しずつ薄れていく。
(アルフさんは……王子様だけど、アルフさんだ)
身分を理由に逃げ、それでも諦められなくて、たくさんの人に背中を押されやっと辿り着いた答え。
「ミリーナ」
低く囁く声に惹かれ見つめていると、ゆっくりと動く唇から、そっと言葉が零れた。
「……好きだ」
きらきらと月明かりを反射する湖のすぐ側、その光を纏いながら囁かれる言葉は夢の中で聞くようで、それでも自分の手から伝わる鼓動はそれが現実であることを主張していた。
「わたしも……です」
その拍子にぽろりとまた、涙が零れた。
小さく届いた答えに微笑みその場で片膝を折ると、ミリーナの左手を取り、まっすぐに見上げて問われた。
「俺と結婚して欲しい」
さわさわと吹く風になびく黒髪は月明かりに青く光り、儀礼服に施された銀糸の刺繍もそれにつられるように輝く。真っ黒で、でも少し青を帯びた瞳は真剣さを纏い、ミリーナの瞳を射抜いている。
「……わたしでよかったら、喜んで。アルフさん」
にこりと笑みを浮かべワンピースの裾を摘まんで礼をすると、アルフリッドは満面の笑みを湛えて手の甲に唇を落とした。
「ミリーナがいい。他では駄目なんだ」
ぽろぽろと涙が落ちる頬にアルフリッドの頬を当てられ、そのくすぐったさに少し身を捩ると背後から温かい感触がした。
「……ルイ君?」
突如後ろからミリーナの肩にすりすりと顔を寄せる白馬の様子に、アルフリッドは眉をしかめる。
「ルイ、近い」
むっとした口調に思わず笑いが漏れ、くすくすと声を上げているとアルフリッドに渋面が広がる。
それすらも可笑しく感じ、笑いはなかなか止まらなかった。
「くしゅっ」
「大丈夫か? だいぶ冷えてきたな」
日が暮れてずいぶん時間が経ち、湖畔ということもあり気温が低くなっていたようだ。
普段着慣れない服装であるのも関係しているかもしれない。
「いつもと雰囲気が違うから、驚いた」
薄水色のワンピースは風にふわふわとひらめき、紺色の刺繍が不思議な模様を作り出している。
「サリーが着せてくれたんです。受付でいきなり引っ張られて、びっくりしちゃいました……」
その時に施した事の苦しさや恥ずかしさを思い出し、言葉尻に疲れが混じる。そういえば自分の格好をちゃんと見てないことに気付くと、そわそわと落ち着かなくなってきた。
サリーの着付けもパトリシアの化粧もきちんとしているものだと分かってはいるが、それが自分にされているということでどうしようもなく不安になってくる。
「あ、あの……大丈夫ですか? 変じゃないですか?」
「似合ってる。ただ……」
いきなり自分の上着を脱ぐとそれをミリーナの肩に掛け、そのままぎゅうっと胸に抱きこんだ。
「肩、出しすぎだ」
「ご、ごめんなさい」
「……このまま戻って、他の男に見られたりするのが嫌なんだ。それくらい、綺麗だ」
掛けられた上着はほんのり温かく、その上から抱きしめる腕はとても熱かった。頬を重ね合わせ、お互いの体温が交じり合うと胸の奥が温かい物で満たされる。
初めての感覚に戸惑うものの、それはとても心地よいもので……いつまでも身を委ねていたいと思ったが、アルフリッドはゆっくりと離れていった。
「そろそろ戻ろう。ミリーナが風邪をひいたら嫌だし、それに……」
言葉を続けようとしているがなかなか口を開かない様子に小さく首を傾げると、大きく息をついた。
「止まらなくなる」
そう言うと同時に額に唇を落とし、そのまま一歩後ろへ下がった。気まずそうな表情を浮かべる姿を見て、ミリーナは顔をかぁっと赤くさせる。
歳若いという程でもなく、常連の女性との会話もあって、アルフリッドの言葉の意味が分らない程子供ではない。離れて寂しいという思いもあるが、恥ずかしさが勝ってこくこくと首を縦に振った。
「も、戻りましょう! きっと皆さん、アルフさんのこと探してますよ!」
「俺と、俺の花嫁をな」
一瞬頭に疑問がよぎり、それが自分を示していると気付くと再び顔に熱が集まる。小さく笑みを浮かべるアルフリッドがとても嬉しそうで、それがとても嬉しくて……手綱を持ち、こちらに差し出された手をぎゅっと握った。
「あと……もう一つ謝らなければいけないことがある」
馬に跨りミリーナの手を引く前に、少しばつの悪そうな様子で言う。
「なんですか?」
「馬の二人乗りは普通、きちんと跨るものなんだ。……帰りはどうする?」
昨日初めて乗った時には何も言われず、促されるまま横に座るものだと思っていた。よくよく考えれば跨ったほうが安定するし、その時のミリーナの服装は短パンで何の支障も無かったはずだ。
不安定だったから身を寄せ腕を回された。その事に気付くとなんだか嬉しくなり、上に手を伸ばし少し勇気を出して言ってみた。
「きちんと乗ったほうがよければ直します。けど……今日はまだ慣れてないので、さっきと同じでいいですか?」
「……ああ。少し急ぐから、しっかりつかまっててくれるか?」
笑って引き上げられ、背中に腕を回す。下に着ていた真っ白なシャツを前に、化粧を付けてはいけないと顔を離していたら、片手で頭をきゅっと抱え込まれた。
「しっかりって、言っただろう?」
薄手のシャツからアルフリッドの体温を間近に感じ、耳に心地よく響く鼓動を前に、こくりと頷いた。
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