0日目 彼女のささやかな悩み

「よし、閉店っと」


 日が暮れて数時間、客の姿が無くなってしばらく経つと、ミリーナは扉の鍵を閉めて札を引っくり返す。

 厨房の片付けも済み、モップ片手に客席の掃除をしていると、昼間見た紙がそのままテーブルに乗っているのに気がついた。


「あれ、持って帰らなかったのか」


 仕方ないなと手に取り、何気なく眺める。

 二度目でも色褪せないその姿は、さぞ年頃の女性の心を掻き立てていることだろう。

 その写真に添えられたタイトルは、成人した大鷲の君・伴侶を求める。


(……あれ?)


 王子様の通称が大鷲の君と言うのはよく知られていることだが、そういえば本名は聞き覚えがない。

 不思議に思い他の文章を斜め読みしてみると、なんでも伴侶が見つかるまではその通称を名乗り続けるのが決まりだそうだ。

 なにかとややこしいんだな、と身分不相応ながら同情の念を覚えつつ、ミリーナは掃除を済ませ、その紙をカウンターに放って客席を後にした。


 

 厨房の奥にある小さな扉をくぐり、短い廊下の両側にある扉の左手の方に入る。ここがミリーナの自室のようだ。

 木製の小さなタンス、机、ベッド。それだけしかない、年頃の少女にしては簡素すぎる部屋だった。

 タオルと部屋着を片手に部屋を出て、廊下の先にあるガラス戸を開ける。

 そこにあったのは一般家庭にありがちな狭い脱衣所と、その奥には小さな浴室。片手で肩を揉みつつ蛇口を捻り、白いバスタブにお湯を溜めていく。

 中程まで溜まったのを確認すると、きゅっと音を立てて蛇口を締めた。


「もったいないもんね」


 どうやら、なみなみと溜めるのは気が引けるらしい。

 一人だからという言い訳も立たないくらい恥ずかしげも無く服を脱ぎ、下着と共に洗濯籠に放り込む。

 きちんと纏め上げていた茶色の髪も解き、ばさばさとほぐしながら洗い場の椅子に腰掛けた。

 桶で湯をすくい、肩まである髪の毛に水分を含ませる。母親譲りの少しくせの付いた髪は、丁寧に洗わないとすぐに絡まってしまう。

 面倒な髪質だと思いつつ、母親の面影を自分で感じることができることは嬉しいらしい。

 王都で流行っている香りの強い洗髪剤は使わず、自分で採ってきたハーブを混ぜた石けん水で、汗の染みこんだ髪の毛を洗い上げる。

 頭皮を揉み解し、湯でしっかり洗い流せたのを確認すると、保護剤を馴染ませてからタオルを巻いた。

 身体を洗い、ちゃぽんとバスタブに入り込む。小柄な身体には丁度いいサイズで、少し膝が曲がる程度の姿勢で落ち着く。


「王子様かぁ……」


 思い浮かぶのは昼過ぎからひっきりなしに聞かされていたその話題。自分の店に若者はあまり来ないせいか、その話の矛先は全て自分に向いていた。

 週に何度も通ってくれる中年夫婦も、もはや自宅気分で過ごす老人も、近所で店を営む奥さんも、結婚適齢期に差し掛かったミリーナを心配しているのだ。

 相手が少々突飛ではあるが、このタイミングでその気にさせないとこの子はいつまでも一人で暮らすだろうという危惧も含まれている。


「まぁ、わたしの料理は合わないよね」


 普段は調理服に隠れている、真っ白で染み一つ無い艶肌を、入浴剤を混ぜたお湯で撫でる。これもミリーナが自分で作ったもので、父方の祖母からの直伝らしい。

 宮廷料理の筆頭は豚の丸焼き。次いで鳥の姿揚げ。そりゃたまにはいいとは思う。ただ、毎日食べるものではないとも思っている。

 天井から落ちる雫の音をぼんやりと聞きながら、思い浮かぶのは数年前。両親がまだ元気に働いていた頃のことだった。



 父親が厨房に立ち、母親は客席を周る。この国の住民にしては珍しい、すらっとした体格の二人だった。


「初めてお母さんに出会った時は驚いてな、お父さんの倍くらい大きかったんだよ!

 手料理はそりゃ美味しかったんだがな? このままだと夫婦揃って脂身になっちゃうと思って、お父さんの地元の料理を食べさせるようになったんだ」


「いやだわ、そんな昔のこと! でもお父さんのお料理は美味しくて身体によかったみたいでね、お母さん、すぐに今のようになったのよ」


「別にこの国の料理が悪いなんて思わないさ。ただ毎日食べるのは、人によってはしんどいものかなとも思うんだ。だから、お父さんはこの食堂を始めたんだよ」


 遠足のお弁当に、友達みんながやたらと肉ばかりを詰め込んできたのに驚いて両親に聞いた時の会話だった。きっと外での食事にお母さんが張り切ったんだろうね、と笑っていた気がする。


(そういえばその頃の友達は今はすっかりぽっちゃりさんだ。昔は華奢で可愛かったのに)


 そろそろ頃合だろうとざばりと湯から上がり、髪の保護剤を流して脱衣所へ戻る。

 大きな姿見に写るのは、ほんのりピンク色に染まったほっそりとした身体だった。


「はぁ……」


 この国ではよく食べることが美徳と言われているが、太っていることが良いという訳ではない。むしろそこは一般的に中肉中背が好まれている。矛盾した風習だ。

 その点では彼女の体形は好まれる部類であるが、本人は不満があるらしい。


「寄せて、上げる?」


 じぃっと見つめる先は、全身と同じようにすらっとした胸部だった。

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