in a word

 『もの思う葦』の中で、太宰治は伝聞として芥川龍之介の癖について紹介している。かの先輩は、「つまり?」と論敵を追い詰める癖があり、これにはほとほと閉口させられたとする人の懐古談を引用している。これについて太宰は一歩踏み込み、芥川はこの「つまり」を掴まんと血眼になって追いかけた果に服毒自殺に至ったと結んでいる。

 連載エッセイとして浪漫派の機関誌で始まった『もの思う葦』に触れるに、語られる言葉の煮詰まり様からして太宰晩年期の筆かと思っていたが、案外25、6の若造だった頃と知り二度驚く。この人もまた「つまり」を追う一派であることを自認しているが、その割にはあまりにも散文形式で、それこそ「in a word?(つまり?)」と問いたくたなる自己陶酔に少々読み疲れをする。


 さておき、自分はと思う。

 わたしという人間は、40を超えて増々喜怒哀楽に乏しく、かといって明鏡止水という境地には程遠く、そっと息をひそんで生息している。これは老い枯れからくる境地というより元来の性格か思考であって、そもそも物事に一喜一憂できない固さにある。

 2年前小説『ノンストップ・アクション』シリーズという36万字の塊りを仕上げた朝も、ねぎらいにスタバのカフェラテにスコーンを足しただけで、特にそれ以上を企画する気にはならなかった。ネット掲載とはいえ、長年練っていた初の執筆を終え、文庫本に直せば数センチほどの厚みになるものを仕上げた。もう少しはしゃいでもよさそうなものだが、駅ビルに飾られた巨大なクリスマスツリーを眺め飽きると、何やらニヤニヤしながら家に帰った。

 ともかくわたしはそうしてすべての喜びも悲しみも、相反する理屈で中和して生きてきた。街で知人と浮かれ、大いに笑って家路につく時も、「果たしてただの寂しさ紛れではなかったか」と30分前の余韻を寝室まで持ち帰らせない。消えてしまいたいと願った去年の秋口においても、「まあそれで楽になれるから」と危ない加速を考えたりした。


 わたしにとって世の中とは「つまり」もクソもなく、ただスライムのような頼りなさしか求めようもない器であり、株式市場が人の感情で上げ下げしているのと同じように、理り《ことわり》を導き出そうとするようなものではない。


 掴んでおきたいし、分かりきっていたい。

 ただそれがたどり着く徒労というか愚昧に思うことがあり、常に「反応の仕方」で飲み込んでしまおうとしている。


 ただこのほど太宰の散文を読むに、「俺は単に傷つきたくないからブヨブヨしているだけなんじゃないか」と思い至る。物事を「こういうものだ」と断定することは、強さでもあるが、あらゆる否定や反問と戦ってゆかねばならない。

 わたしにはそのヒリヒリする責任が負担なのだ。だから楽しい夜も、結局は「バカだったんじゃないか」と打ち消してバランスを取り返すことで、何事もなかったかのように振る舞っているのかもしれない。

 もっと素直に頬を緩め、裸足で外を駆け出すほど感情を爆発させてもいいはずなのだが、どうしてもそういう戦い方や傷つき方を避けるようにできている。


 軽く巡らせてみて、やはり自己肯定感という装置を与えてくれなかった父母のせいではないかと暗く思う。小説も、絵筆も、天体望遠鏡も、そしてマジックで得たトロフィーも、わたしが友として大事にする全てを暴力的に燃えるゴミに放り込んできた彼らの行為に何らかの罰が与えられるべきだと至る。

 その人生が辛い。どうして過去を肯定できないのかと涙が出る。そしていつも考えるのは「引き際の美しさ」だけであって、太宰や芥川が追いかけすぎて踏み外した「つまり」とも遠からずの心理である。


 これからもいくつかを丁寧に作り上げていきたい。目下楽しみは次回作『アフロディーテの食卓(仮)』であって、「人をもてなすとは」という壮大すぎるを掲げてチャプターを編んでいる。

 そうやって「つまり」を追い求めて死に、そして生まれ代わる。それがアーティストの生業なのか。あるいは情けないうぬぼれか――。


 春は近い。今朝も外に出かけてみよう。



 

 

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