アートの純潔性
2021年8月、山梨県の清春白樺美術館でダグラス・ダンカンの写真展が行われた。これはダンカンの作品展というより、彼によって切り取られた”ピカソ最後の17年”の日常風景から、20世紀最大といわれた芸術家の源泉を紐解こうとする企画であった。
妻ジャクリーヌが寄り添う一枚がポスターに据えられ、その右端には<人生で最もすばらしい癒し、それが愛なのだ――>というピカソ自身の言葉が添えられた。
――何をぬかすか、色ぼけジジイ。
ハリセンで、ハゲた後頭部をひっぱたいてやりたい。
ピカソ91年の乱倫ぶりを挙げ始めたら、それだけでこの記事が終わってしまう。前述ジャクリーヌはピカソ80歳の時の再婚相手で、歳は50近く離れていた。
また、「どちらが出ていくべきか!」と始まった愛人同士にたいし、「ふたりで争って決めたらいいじゃないか」と言い放ち、その取っ組み合いを半笑いで眺めていた男である。ちなみにこの『ゲルニカ』創作中のエピソードを出版したのも、後のそのまた愛人である。
よい作品は、良い人間性から生まれてほしい。
その作者に迫った時、なるほど人徳者であってほしい。
ところがその傑作を生み出した男の日常を覗いてみた時、そこがあまりにもピンク色やグレーで散らかっており、さらにその病のために周囲を何人もを自死に追い込んだとすると、何も知らず作品に感銘を受けたこと自体、どこか自分の目が節穴だったのではないかと恥ずかしくなってしまう。
マジシャンとしての哲学を育ててくれたのは、テレビでも大いに活躍されていたF氏である。2000年代初頭のマジックブームを支えた氏は、私にとってあこがれのスーパースターだった。
偶然にも歩いていける距離に住まわれていたこともあり、同じく氏を尊敬する仲間たちと一派を立ち上げ、2年ほど氏から直接ご指導いただいた。
レクチャー会の後は、近くのファミレスで氏を囲んでの朝までコースが殆どでだった。きっかけは思い出せないが、「みんな、年金払ってる?」という話になったときの話である。
「ぶっちゃけ年金なんか払い続けるより、生活保護もらったほうがよほど成り立つからね」
半分は大学の奇術サークルの学生たちで、他は私を含むいつもの取り巻き連中だった。氏の言葉にうなづく者もいれば、「そうなんですね!」と感心している学生もいた。しかしこの瞬間、私の中で何かが異音を立てて崩れたのを覚えている。
どんな種類の違和感なのかその時はわからなかったが、明け方になって帰宅した際、「オレ、マジシャン辞めるわ…」という言葉になって表れた。
偉大なアート作者やプレイヤーにたいし、人間性まで要求するのはあまりにも一方的すぎる。その日常がどれほど奇行にあふれ、女房子供を泣かせるようなものであったとしても、仕事は仕事として評価すべきだ。
風紀にうるさい昨今の風潮を是とすれば、太宰治など何度も映像化されることなどあり得ない。クラシック音楽の上演も近代絵画の来日も、そのたびに慎重に議論されなければならなくなる。
前述のF氏にしてもいい迷惑である。
どれほど運用に課題があろうと、国民年金への加入は法律で定められている。安易に生活保護に頼ればいいという発想を私は支持しない。
とはいえ、勝手に崇め奉り、その上高邁さまで求められ、たかが飲みの席での発言にまで幻滅されてはかなわなかっただろう。
しかし私にとってアート活動とは、人としての最低限をこなしてからのものであって、そのために破滅し、ましてや近しきを傷つけるものであってはいけない。
アートに限らず、世界記録をたたき出すアスリートであれ、ホールディングスの会長であれ、やはりその日常は親切にあふれたものであってほしい。そうした意味でも、私にとってスティーブ・ジョブスはやはり悪い例である。
ただ年嵩ゆえか、だいぶ「どうでもよくね?」という方にたどり着きつつある。
第一、他人の日常にまで踏み込んで正義の物差しを振り回すことに倦み始めている。決して極端さを許容しようというわけではないが、そもそも琴線に触れるものが少なくなってきているのも事実である。
それを老いという。そうではなく、もっと多様性の分かる、おしなべて丸い人間になりたい。
おそらくアートを通じて救いを求めるからこそ、少しのシミや汚れも信仰心に差し障るのかもしれない。そういう付き合い方ではなく、良いものは良いと素直に受け入れてしまったほうが、世の中はすっとアートにあふれているのではないか。
好きなコピーライターである糸井重里氏の対談の中に、「円グラフを書いて、パックマンの口ぐらいの部分は『よくわからない』にしておく」というものがあった。多様性をテーマにしたものであったが、私に足りないのはまさにこれである。
気象庁によれば、今年の開花予想は23日。
春である。そろそろパソコンを閉じて、すこし無駄に散歩してみようか。
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