「60分4,000円コース」
まずはくだらない小噺をひとつ。これは今から1年ほど前の出来事である。
「…あ、もしもし。今夜予約できます?…うん60、いや90分コースで。はい、そうですね。〇〇さん指名できます?…あぁそうですか、じゃあ指名なしで大丈夫です」
廊下でこのやり取りを聞いたアルバイトが、呆れた表情でこちらを見ていた。
――このコロナ禍に何考えているのか!
スマホをポケットに突っ込むと、小走り気味に彼女を追いかけた。
「帰りに新宿でマッサージを受けようと思ってさ。それで――」
と、その時、ちょうど数人が廊下の角を曲がって現れ、会話は中断された。
この不完全な言い訳が疑惑を深めることになった。
――アノ人、さっき歌舞伎町の怪しいマッサージを予約してたよ。しかもご指名付きで!
その夜、たしかに新宿に行った。
しかし向かったのは歌舞伎町ではなく、西新宿のオフィスビルだ。
…アロマディフューザーと仄暗い照明。出されたジャスミン茶の香りに目を細める。
「失礼します。お着換えは済みましたか?」
薄く開けたカーテンの外から声がした。
「よろしくお願いします」
…さぁ金曜日だ。背中に掛けられたタオルの上をやわらかい手が滑っていく。
うつぶせになって目を閉じる。首は動かすだけでメキメキと鳴り、肩や背中の鈍痛から微熱すら感じる。
そもそも整体マッサージを”性感”マッサージと聞き間違えた彼女の聴力に問題がある。
――今頃女王様のヒールでも舐めているとでも思っているのか。
妙なことを想像していたら急にくすぐったくなり、思わず変な声をあげてしまった。
「肩甲骨ひきはがし」、「疲れもスッキリ!ヘッドマッサージ」というのぼりを見かけると、つい足を止めてしまう。
だが、慢性的な肩や背中の凝りを本気でケアをしたければ、まずは普段の姿勢から改めるべきだ。
60分4,000円の効果など、せいぜい家に帰るまでだ。シャワーだけで済ませてしまう習慣も見直すべきだ。(スマホなど持ち込まず!)ぬるま湯にゆっくり浸かって目を閉じるだけでも全然違うはずだ。
それでも「月に一度ぐらいは」という気持ちはある。実家には年代物のマッサージチェアもあるが、やはり手の平の優しさとは比べ物にならない。
だからこそ月に一度のこの贅沢は、完璧なものでなければならない。わざわざ指名料を払うのは、力任せの新入りや、プロとして明らかに間違っている担当者を避けるためだ。
本日の笑いは、これまで出会った”二度とご勘弁マッサージ師”たちとの死闘を語る。
File1:「無慈悲な仙人」
地元商店街に小さな整体が出来た。本当はいけないことだが、保険診療を適用してくれるので1回500円でマッサージが受けられるところが魅力だった。
ところがここの店長という人が、全てを台無しにしている。何のこだわりかアゴ髭をのばしており、密かに「仙人」と呼んでいたのは私だけではないだろう。
最大の問題は、この仙人の指圧が痛すぎることだ。よほど皮膚感覚の衰えた老人でさえ、耐えかねてギャッと言わせている。
滅多なことで苦情を言わない性格だが、拳を握ったり歯を食いしばるのに耐えかね、「…スミマセン、ちょっと痛いです」とお伝えした。
ところがである。「そんなはずはないんだけどなぁ…」とこちらの感覚を全否定したのである。痛みに耐えただけの30分。逆にこわばった背中を持ち帰ることになった。
ちなみに今、その店の外には閉店の張り紙がしてある。
File2:「ぎもぢわるいどごろないでじゅが?」
この人は秋葉原にいる。チェーン店なのだが、かつて乗換駅だったのでよく通った店のひとつだ。指名なしで入るとよく当てられるのが、「じろう」という名札を付けた若い子だ。
彼には色々言いたいことがあるが、まずは「鼻をかんでからにしよう」と言っておこう。
”病気だから”許されるというのも程度の問題である。どうしようもない鼻炎持ちらしい。
指圧は適度でよいのだが、人の耳元で鼻をすすりながら「ぢがらがげんはいががでじゅが?」というのは辞めたほうがいい。施術中、汚いものを頭の上に垂らされないか常に張り詰めておかねばならない。
「ぎもぢわるいどごろないでじゅが?」
――おまえじゃボケ!。
File3:爪痕のケンジ
人の体を触るという職業において、最もマズイのが次の「ケンジ君」である。
誰も彼に伸びすぎた爪のことを言わないのだろうか。そんなこと当たり前すぎて、この店の接客マニュアルから消されてしまったのかもしれないが、彼はもう一度専門学校からやり直すべきである。
腹立たしいことに、こういう手合いに限って、やたらおしゃべりで寝かせてくれない。
「…やっぱり亜鉛ですよ。日本人のほとんどが亜鉛不足だっていいますからね。ええ、その辺で売ってるサプリで充分です。だいぶ疲れ方が変わってきますよ」
…貴様が先刻から俺の背中にリズミカルに刻み続ける爪痕のせいで、何一つ頭に入ってこない。
金曜の夜に爪痕だらけの背中で帰宅したら家人はどう思うだろう。「一体どういう”マッサージのお店”に行ってきたのか?」と厳しく問われることだろう。
――いいか?カネをもらった時点で、どんな仕事だってプロとして見られるんだよっ!。
これは若かりし頃、ある師匠筋からいただいたお小言である。
まさにその通り。
コンビニのアルバイトは、品物がどこに陳列されているか瞬時に答えられなければならない。定食屋の娘なら「おススメの日本酒は?」と聞かれたら、味の違いから産地まで言えなければ失格だ。
プロフェッショナルとは、当たり前を淡々と繰り返すことで非凡さを達成している。その”当たり前”とは徹底的にまで「相手」であり、そこにおいて少しも思い上がりなどない。独創性や新たな価値基準ではないのだ。何を求められているか正しく理解できてこその、職業プロフェッショナルである。
振り返ってみて、思うことはたくさんある。
これまで発表してきた作品においても、読者の方々をきちんと意識できたか――。
難解な言葉を並べて気持ちよくなっていなかったか。目が滑らないよう行間を適切に使えたか。一度に読む分量として適切だったか。地の文で説明しなければならない箇所を面倒くさがり、読者に任せていないか、などなど…。
自粛明けとなり、街が週末の活気を取り戻しつつある。すっかり引退のつもりでいたが、こんな私のところにもハロウィン前辺りからありがたいお話しがいくつか舞い込み始めている。
芸人仲間だけでなく、お世話になっていたレストランやホテル関係者も”やっとおもてなしができる”と喜んでいる。
そんな中、まずは我々に何を求められているのか、お客様の前に立つ前に今一度考えたい。いくら自粛が解除されたとはいえ、従来のような感覚ではまずいはずだ。
サービス業仲間の間では、「すべてコロナのせい」という風潮がある。だが、お客様の声を無視し、客前に出る前のエチケットも分からない人間までコロナによる被害を訴えることに前々から疑問がある。
カネをもらう以上プロフェッショナル。ご指名料まで支払ったお客様をがっかりさせないでほしい。
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