乾パン
グラッと来た時、台所で包丁を研いでいた。オヨヨと思っていると、被さるようにして家中がザワザワっと揺れた。
10月7日、千葉北西部を震源とするマグネチュード6.1の地震があった。震度5強以上の揺れを観測するのは東日本大震災以来だとか。
パニックに陥った42歳は、研いでいた柳刃を持ったまま玄関と居間を行ったり来たりしていたが、やがて静かになった。どちらかといえば、この年齢になっても事に於いて冷静さを欠く自分に恥じ入る結果となった。
翌日の朝刊には、寺田虎彦の言葉がお決まりのように引用されていたが、確かに天災は忘れたころにやってくる。家人に聞いたら、防災グッズは犬用のタオル類がしまってある納戸の奥だという。3.11以降、キャンプ用品メーカーに勤める知人のツテを頼ってまで手に入れた防災グッズは、アップデートされることもなく、普段目につかない場所に追いやられていた。あらためて”備え”の大切さを思う。
乾パンの缶の裏ぶたをあらためていて、ふと思い出したことがある。くだらない寓話だが残しておきたい。
二学期の始まりといえば、防災訓練である。大正生まれの祖母は、川向こうにあがる真っ赤な火の手を見たと、何度も孫の私に語ってくれたものだ。
学校から戻ると、そのまま地域の防災訓練に行かされた。もちろん防災意識からそうしているわけではなく、お菓子がもらえるからである。
考えてみれば妙な訓練である。「防犯」というワッペンをつけた変なオッサンたちは、パイプ椅子から腰もあげず、タバコやお茶を呑んでいるだけだった。時折”もっと早く!”と声をかけてくるが、「学校の避難訓練であんな態度だったら、先生に張り倒されるよ」と母に抗議した記憶がある。
ともあれ少年たちはビニール袋いっぱいの菓子や果物をもらえば、「おさない・かけない・しゃべらない」などお構いなしである。弟と二人でどっちが少ないなどとやりあったものだ。
乾パンが入っていた。キャッシュカードを一回り大きくした大きさの乾パンが4枚、真空パックの中に閉じられていた。当時は祖母も含め、5人家族だった。飼っていたキャバリヤ犬も入れれば、5.5人とも言える。
足りない。弟がもらってきた分を入れても、2日目には家族の何人かは空腹に耐えなければならない。その小学4年生なりのシミュレーションに、涙が止まらなくなってしまった。
――もし祖母がいう赤い空が再来したら。
当時は竹を編んだ垣根の家も少なくなかったので、下町はあっという間に火の海と化すだろう。
全員ガレキに押しつぶされずに生き残ったという仮定から始まるが、焼けくすぶる大黒柱を囲みながらどんな会話をするのだろうと考えた。
「アタシたちは大丈夫だから、乾パンはおまえたちが食べなさい…」
それはとても10歳には処理しきれない感情だった。家族5人が揃っての我が家なのだ。煤で汚れた両親の横顔を見ながら、俺たち兄弟だけ乾パンをむさぼることなどできない。気付いたら乾パンの袋を握りしめて嗚咽を漏らしていた。
それから数日後のことである。冷蔵庫の上にあるかき餅の空き缶から、乾パン4枚とも消えるという事件が起きた。私は怒りに震えた。部屋に戻るなり、弟の襟首をねじり上げた。
「やぃテメェ!乾パンを喰いやがったな!」
今から思えば可愛そうなことをした。騒ぎを聞きつけた母親に引っぱたかれた。犯人はこの主婦だった。
「あんなモソモソしたの食べないでしょ?だからアタシがピーナッツバターを塗って全部食べた。缶の中のお菓子がいつまであると思うんじゃない!」
――こうして私は10歳にして無情を知り、理不尽を学んだ。それは災害に逢うのと同じぐらいの衝撃であり、コップの淵からこぼれた感情が戻ることはなかった。
それから30年以上が経ち、孝行を兼ねて年に一度はちゃんとした食事に連れていくようにしている。両親とも70代になり、「遠慮なく食べてくれ」と勧めるが、そう箸が進むわけではない。
礼の言葉もそっけない
「ごちそうさん」
「まぁ美味しいんじゃない」
私は茶をすすりながら、無表情な彼らの横顔をじっと見つめる。
――そんな恥ずかしまぎれなどいらん。それより30年前の乾パンのことを謝れ!
地震のたびに南海トラフの話題になり、コロナもまだすぐそこにある。崩れるときは、心の準備など待ってくれないだろう。
今年は上野の鰻にでも連れていこうか。家族が揃っているうちだからこそと思う。
しかしそれとは別に、30年前の禍根はキレイにしてから片付いてくれよという気持ちも増してきている。少年の涙も知らず、いざというときの大切な乾パンにピーナッツバターを塗って食べた罪は重い。
――あの時は小腹が空いておりつい魔が差してしまった。家族愛をあのような形で裏切ってしまい申し訳なかった。
その一言で救われるはずである。それを言うまで毎年メシに連れて行っては、”他に言うことはないのか?”と睨みつけてやろう…。
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