知ったかぶり
”知ったかぶり”を笑った噺は多い。『やかん』や『茶の湯』などの滑稽噺を聞くと、勢いと年嵩だけで講釈してくる”現代のご隠居様”の顔が何人か浮かぶ。それは違いますよと水を差す負担を考え、感心したふりをして頷いている。
そういう私も恥なら負けていない。3月のその日、自転車にまたがって近所を通り過ぎようとしていたとき、公園の入り口に見事なピンク色が咲き乱れているのに気が付いた。思わず立ち止まり、パチリと一枚収めると、満員電車の中から「見事なモモノハナです」と写真付きでツイートした。ところがすぐにそれを見られた方から「梅の花では?」とご指摘をいただいた。
額に浮かんだ汗をぬぐいながらGoogle先生に尋ねたところ、花弁の違いから図説してくれるサイトにたどり着いた。”こんなボクでも花を愛でる気持ちぐらいあるさ!”というところを見せようとした結果、逆に学のなさを晒してしまった。
ひとつ言い訳をすれば、少し前に保育園の先生とその子どもたちが、つぼみの下で”ひな祭り”を歌っていたのを目撃していた。「♪おはなをあげましょ もものはな♪」というアレだ。ご指摘いただいた方からも「まぁ、ウメに似た桃の花もありますので」と慰めていただいたが、穴があったら入りたいとはまさにこのことだった。
知ったかぶりと言えば――。今から10年以上前の話しだが、短期間だけとあるセミナー会社にお世話になっていた。霞が関や経済界の最前線から講師を招き、マーケターや経営層向けのビジネスセミナーを開催していた。
ここの会長というのが凄まじい人だった。爆発すると4階下の玄関まで聞こえる九州男児で、暴力・暴言三昧という、今時ネットで晒されたらひとたまりもない65歳である。代表には自分の娘をすえているが、とにかくあのゲーハ―頭が真っ赤に燃え盛るのが怖くて、誰も何も言えない会社だった。(とっくに脳血管でもブチ切れて戦死したと思っていたが、2021年7月現在未だに取締役会長の座に就いている)。
当時私のような短期バイトも含め、スタッフは10名程度だったが、とにかく会長のアクが強すぎていびつな組織だった。会長の下には秘書兼統括兼サンドバッグ兼??人らしき、”N”という名のババアがいた。何処が気に入ったのか、デスクには『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープの写真を飾り、黙っていればいいものをいちいち会長に告げ口するものだから、若手から”妖怪クソ撒きババア”と呼ばれていた。
ちなみに営業部長は、Nの元旦那である。数字が思わしくないと「営業部長がだらしないから」とNが朝礼であげ連ねるため、朝から折れた定規やビリビリに破かれた企画書を掃除しなければならなかった。あのじいさんよく飛び降りなかったなと思うが、圧倒的な恐怖で縛り上げる手法はまるで北と同じである。
ある日大事件が起きた。キヤノンのプリンターが故障したのである!。この程度のことですら爆発的な事態を招き、案の定お昼から帰ってくるとロッカーが凹んでおり、会長はいなくなっていた。(噴火するとどこかへ消えてくれるルーティン)。Nは頭を抱えたまま微動だにせず、営業部長は額に氷嚢を当てたままうずくまっていた。
クソ撒きNの直下ではないが、その日はパートのおばあちゃんが出社していた。「ちょっとKさん(パートのおばあちゃん)、キヤノンに電話してくれる?」。サーバー設置作業で忙しい私に声をかけるわけにいかず、Nは苛立った声をパートのおばあちゃんに投げつけた。
Kさんはいい人だ。大阪に嫁いだ娘さんを想い、時々窓から有楽町を過ぎる”のぞみ”を見て涙ぐんでいるような人だった。お茶出しや会場設営、DM発送ぐらいしかしていないパートのおばあちゃんに、お客様センターへ技術的な質問など荷が重すぎた。
「アソコが壊れている」、「なんか様子がおかしい」、「変な匂いがする」など意味不明なやりとりを背中で聞きながら、この人も可愛そうだと思っていた。
しばらく受話器を握りしめていたKさんが、クソ撒きNに振り返った。「…スミマセン、純正のインクって何のことですか?」。そこからのレベルの人なのだ。にも関わらずNは眉を八の字に曲げて薄ら笑いを浮かべた。…そんなことも知らないでよく生きてきたわね。ところが次にNの回答を聞いた私は、まるで落雷に直撃されたような衝撃を味わった。
「…純正?ハッ、にごってないってことよ」。
にごってない??。清酒とどぶろくを間違えたのか知らないが、腰を抜かす珍回答に私は背中の震えが止まらなくなった。後ろではKさんが受話器を握りしめ「にごってないそうです!」と繰り返しており、笑いすぎて失禁してしまうと思った私は慌てて部屋を飛び出した。
政府は今月12日から来月22日まで、4回目の緊急事態宣言を決定した。野村総研の試算によれば、経済損失は1兆円、失業者は4万人増とのこと。政府は「国民への負担は重々承知」と重ねるが、知ったかぶりを吐くなと叩かれている。ニュース番組と政府だけが盛り上がっているオリンピックにどれだけ冷ややかな視線が注がれているか本当に理解しているのか。ビアガーデンの季節だと浮かれている場合ではないというが、その結果家族を養えなくなる人々の涙を汲んでいると言えるのか。
政府の”知ったかぶり”に黙って頷いていた人々さえもそろそろ言い返してやりたくなっている。思い切ったかじ取りは必要だが、本質に対する理解のなさは言葉では隠し切れるものではない。クーラーの利いた永田町を出て、少しは市井を歩いてみてはどうか。
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