クワイエットルームへようこそ
細胞検査の結果を待った今年のゴールデンウィークは、人生の中で最も呪わしい休日となった。幸い良性の腫瘍だったが、声帯の左側に重なるようにして出来たそれについて、「とりあえず切るしかないですね」と医者は淡々としていた。
病巣とはいえ、体にメスをいれるという一大事に「とりあえず」とは何事だ。居酒屋の注文じゃねぇぞと背中の辺りがゾワゾワした。しかし担当医は容赦なかった。「このままいけば窒息ですね」と。そういうわけで連休明け5月18日に緊急手術を受けた。
「…終わりましたよ」というやわらかい声に起こされた。薄目を開けると美しい看護婦さんが微笑んでいた。彼女はシッと人差し指をふくよかな唇に当てると続けた。
「――ではここから1週間、ぜったい声を出してはダメですからね」。
声を出してはいけない。注文はそれだけである。
しかしそれは容易ならざることである。お目覚めの「う~…」もダメ。「いただきます」や「ごちそうさま」もダメ。東京03のコントを見て笑うなどもってのほか。一切の喜怒哀楽が禁じられた地獄の1週間について振り返ってみたい。
筆談と身振り手振りだけで世の中を生きる。そこには普段見えない世界が広がっていた。しゃべれなくなってまず気付いたのは、世の中いかに無駄な会話が多いかということである。
近所にワンタンメンの専門店ができた。仕事を休んでいる今しかないので行ってみた。大将が威勢のいい声が迎えてくれる。「アラッセェーッ!」。強引に文字に起こしたが、どう聞いても「マンセー!」にしか聞こえない。そのマンセー大将が伝票片手に近づいてきた。「麺の固さはどうしやしょ!」。必死に声が出ないジェスチャーをすると、マンセー大将は勝手に合点し英語のメニューを私に寄こした。
ノンノンノン!私はポケットから手帳を出すと「日本語OK」とグアムの免税店に書いてあるようなことを伝えた。麵の固さの次は「あっさりか、こってりか」。次は「油の量はどうしやしょ!」。この辺りになると箸を頸動脈に突き立ててやりたくなる。「あっさり目で」と答えているのに「油多めで」と答えるわけがないだろう。オマエさんが最良と思う提供で勝負せず、なぜ客に寄りかかるのだ?
ようやく注文が届き静かなランチタイムを過ごす。半分ほど食べていると、ふたたびマンセー野郎がカウンターから首を出す。「どうです、おいしいでしょ?」。
――うっせーな。こっちはしゃべれねぇってんだろがい。そっちでワンタンでもテポドンでもこさえてろ!どんぶりごとブン投げてやろうか思ったが、とりあえずグッドボタンをひとつ返しておいた。
時代だが、スーパーでもコンビニでもスッと通してくれない。「袋はどうします?」、「お支払いは現金ですか、それともカードですか?」、「ポイントカードはお持ちですか?」。
不便はまだある。しゃべれないと‘’太る”のである。これは贅肉のついた腹回りが証明している。とにかく食べるぐらいしか楽しみがないのだ。それも一枚のビスケットを流動食のようになるまで唾液で溶かしてからゆっくりと飲み込む。すると胃は膨らむかもしれないが、脳はエクスタシーを感じることが出来ず、気付けばまた何か口に放り込んでいる。やはり「おいしい!」とか「あー、おなか一杯!」と声に出すことは生きる上で大変重要な独り言なのである。
まだある。前述のように喜怒哀楽を止められると、無性に叫びたくなる。傷口を破って血まみれの壁を作ろうと、天に向かって吠えたくなる。犬の散歩をしていても面白くない。足元のコイツですら不快があればワンッとやるのだが、その飼主は近所にあいさつをされても気まずそうにニンマリしてやり過ごすしかないのだ。こんな不平等が許されていいはずがない。
とにかく呪わしい一週間だったが、良い悔い改めもあった。まずは感情表現である。たとえば先の犬の散歩においても、ご挨拶を返せない分深々とお辞儀をするようになった。そぞろに声で返すよりもこのほうが日本人の本来である。「ありがとう」も「すまないね」も、胸に手を当てて大袈裟に表現するようになった。そのほうが言葉で言うより伝わってくれるらしい。
そして何よりも大切な発見は「人のやさしさ」である。
twitter約1万人のフォロワーの方々についてお会いしたことがないが、連日たくさんの励ましのお言葉を頂戴した。会社の同僚からは入院中は声が出せないだろうからと、「売店に行ってます」とか「リハビリに出てます」という札を下げたワンちゃんのぬいぐるみを頂いた。俺というちっぽけな存在が、本当に多くの方々の支えのもとに成り立っていることについて改めて深く考えさせられた。
<♪ぼくらはみんな生きている 生きているから笑うんだ♪――>
声を出し、人と接することの大切さは計り知れない。前述の通り喜怒哀楽が停められると、だんだん
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