映像における批判的アプローチ論

 我が家にはホームシアターがある。といっても数万円もするウーハーなどを揃えているわけではなく、中国製のプロジェクターと伸縮スクリーンを合わせても1万円程度のシアターだ。週末の夜、スクリーン正面に動かしたソファにドカリと座り、さて何を見ようと思案する。ところが近頃この儀式が苦痛でならない。

 そもそも優柔不断でご迷惑様のAB型なのだが、”視聴者レビュー”というのがいけない。これはと思う作品で立ち止まり、大まかなあらすじと出演俳優をチェックするまではいい。ところがつい「果たして2時間半も費やす価値があるのか」という防衛本能から、作品欄に連なるレビューを参照してしまう。もちろんそんなもの見なければいい。だがこうして貴重な週末の夜をサイト内徘徊で浪費してしまっている。



 連休中、旧知と久しぶりにお茶をした。この後輩は”映画好き”を自称する知り合いの中でも指折りで、生活費を差し引いたほとんどをBlu-rayコレクションに当てている。

 秋葉原から昭和通りを1本入ったカフェで、岡本喜八作品について何時間も語った。『独立愚連隊(59年)」や『日本のいちばん長い日(67年)』など、自身の戦争観が出ている作品は秀逸だが、晩年の『ジャズ大名(86年)』や『EAST MEETS WEST(95年)』の無茶苦茶ぶりはいかがなものかと盛り上がった。


 「…ところでさ、どうして映画マニアってああも辛辣なのかね?」。くだんの視聴者レビューについて長いこと語り合った。思うに、文芸やその他芸能の中でも、映画に対する評論が最も過激である。

 「チョンマゲがクラリネットを吹くわけがない」、「でたでた!飛躍しすぎのチョンマゲ最強伝説」と、前述の岡本喜八作品に生卵を投げつける連中がいる。そのほとんどは悪意に満ちた落書きだが、今日はその深層にあるものを見つめてみたい。



 まず、映画人口のすそ野の広さを後輩はいう。「たった2時間半お付き合いすれば、物申す一票がもらえると勘違いしている人間の多さ」について”ホンモノ”を行く後輩は嘆いた。

 落語や舞台について語らせると面倒くさい知人を何人か知っているが、彼らが”にわかちゃん”との線引きに多用する予備知識の数々は、スクリーンの前で2時間半座るのには必要ない。文学にもいろいろあるが、読み手にある程度の知性を求めるので、そこまで激烈な感情のみを並べた書評はめずらしい。その点ポップコーン片手に楽しめる映画の気軽さが、無責任なレビューを量産していると彼は締めくくった。


 また、人は驚くほど映像というものに没入できていない。情報が多すぎるのだ。ストーリーや登場人物の描写理解が追いつく前に、新しい音声や映像がタイムラインを進めてしまう。脳が情報処理を放棄した後に残るのは、冷静さや俯瞰という批判的アプローチだ。「映像は美しかったが、この監督が何を伝えたかったのか理解できなかった」というコメントがそれである。

 よい映画とは、ようするに観客が1回の視聴で処理できる情報量にある。すでに何度もこすられた歴史物などストーリーを追う必要がない作品は、なるほど消化がいい。ひきかえ、2度3度と味わいながら咀嚼する作品は、やはりそれだけで罪作りなのだ。

 批判的なコメントとは、こうして作品から見放された観客たちの数である。彼らのほとんどは(理解を諦めた脳によって)2時間半を冷静に俯瞰しており、ストーリーの矛盾や字幕の悪さをあげ連ね、消費者の権利としてのろしを挙げている。



 もう一つ挿話をしておく。よく「昨晩のマジック番組のタネがわかった」と報告してくる人がいる。それは褒めているが、プロとして思うことがある。種明かしyoutuberと、それを見て分かったつもりになっている学生たちには特に言ってきたことだが、マジックとは、トリックとその存在を透明化させるコミュニケーションとの掛け算で成り立っている。

 プロは、的確なタイミングで観客に質問を投げかけ、絶妙なタイミングで手元から顔をあげることで、否応なく観客をコミュニケーションに巻き込むことができる。”そうやって注意をそらす”と誤訳されがちだが、決して視覚的な意味ではない。観客に「さあ、マジックを見るぞ」という気にさせないのがプロだ。ごく自然な会話が成り立つまで待つことができるし、それを自在に操るタイミングを知っている。そのようにイリュージョンを発生させることで成り立っている芸能を、固定カメラで追いかけるのは本質としてフェアではない。


 

 映画もTVマジックも何故批判でズタボロにされるのか。それはコミュニケーションのなさである。ただ座ってぼんやり眺めていると、アラがよく見えてしまうのだ。

 これは映像に限った話ではなく、周りにいくらでも例はある。風通しの悪い組織がなぜ批判的な空気に覆われているのかもこれで説明がつく。

 毎日顔を突き合わせていても、それはただの映像なのだ。だから相手の欠点がよく見えてしまう。昼休みや飲み会の席でいい気になって宿敵の欠点を並べる人がいるが、その人自身も恥ずかしいぐらい周りから欠点を見透かされているものだ。


 世の中や人間関係を映像にしてはいけない。コロナで巣ごもり需要が増えたため、運送業は軒並み増収だという。だが部屋に鍵をかけて殻の中に閉じこもれば、理解し、理解されるためのコミュニケーションは断たれてしまう。その結果、大切な人や世の中は血の通わない映像となり、あなた自身もまた批判的なコメントに晒されるだろう。

 いささか生きづらい世の中になってしまった。そんな日々を救うのは、やはり大切な人とのコミュニケーションだ。喰うか喰われるかの猛禽類と違い、私たちがコミュニケーションに守られていることを思い出そう。

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