リクガメのいる部屋で
チカチカ
1話完結
「ねえ、コイツの名前、なんて言うの? 」
屈託なく話しかけてきた彼に、私は、「フィリップ」とだけ素っ気なく答えた。
なんだ、この人。金色に染めたロン毛にエスニック調の安っぽいシャツを着たその男を、私は一瞥した。
シャツは第2ボタンまで留められてなくて、大きくはだけている。だらしない。ポカポカ陽気の日差しと、そこかしこでファミリーが団らんしている昼間の公園にはあまりにもそぐわない。
私は、こんなやつ、無視無視。と思って足元でもぞもぞ動きながら、タンポポの葉っぱを食べているフィリップの方に視線を戻した。
フィリップは、はむはむ、とタンポポの葉っぱを食べている。かわいい。おいしいかい? と心の中でフィリップに話しかける。
「ねえねえ、そいつ、水の中にいなくても平気なの? 」
先程の金髪野郎がしつこく話しかけてくる。
うるさい。私とフィリップの時間を邪魔するな。
私は、これ以上話しかけてくるな、という意味を込めて、「この子、リクガメだから」と顔も上げずに素っ気なく答えたが、彼は「マジで!? おれ、リクガメ初めて見た、なあ、リクガメってすごくでかくなるんだろ? そのうち乗れるようになる?」と私の素っ気なさを気にもせずに、話し続けた。
アホか、と思った。この子はヘルマンリクガメだ、大きくなってもせいぜい30センチくらいにしかならない。
けれど、この金髪野郎がでっかくなったフィリップにまたがっているのを想像してしまい、私はついついプッと吹き出してしまった。
それを見たそいつは、おっ、笑った、と言いながら、私が座っているベンチの横に腰掛けた。しまった。油断した。
――それが、始まり。
見た目からして、安っぽいホストみたいだったが、案の定、そいつはホストだった。名前はタクヤ。ホストの源氏名は「ーヤ」という名前が多いようなイメージがある。シンヤ、カズヤ、トルティーヤ、あ、これは違った。
で、こいつはタクヤか。どうせそうだろうな、と思いながら、「なんでタクヤって付けたの」と聞いたら、やっぱりあの有名な俳優から取ったとそいつはニヤっと笑ってそう言った。まったく意外性がない。
「で、なんでそいつはフィリップっていうの? なんかそういう名前のキャラ、仮面ライダーにいたよね? 俺、小さいとき、すっごい好きだったんだよね、フィリップ。何でも知ってて、『さあ、検索を始めよう』って言うのがカッコよくてさ――」
知らん。なんだ、それは。
フィリップの名前は、大好きなハードボイルド小説から名付けた。強くなければ生きられない。優しくなければ生きている資格がない。そんな男(いや、オスだが)になってほしいと思って付けた。子供向け番組なんぞ、私は観ないので知らない、とそういうと、
「へー、おねえさん、物知りだね、でも、確か、仮面ライダーのフィリップも同じ理由で名前付けたはずだったよ。フィリップもあんな風にかっこよくなるといいな」とタクヤは言いながらフィリップの甲羅を撫でた。
「あ、触ったら、後でちゃんと手を洗いなよ」
「母ちゃんみたいだなあ」
誰があんたの母ちゃんだ。と思ったが、どっちかというと、こいつの母ちゃんの方が年齢が近いかもしれない。そう思うとなんだか軽く落ち込んできた。
「おねえさん、俺もう、行かなくちゃ。これ、俺の名刺。今度、俺の店に来てね、フィリップは連れて来ちゃダメだけど、サービスするよ!」
そう言いながら、タクヤは一枚の名刺を私に無理矢理渡して、笑いながら去っていった。
なんだこりゃ。7割増しぐらい修正されてるな、これ。
誰、と言いたくなるくらいビジュアル系に美化された写真が載った名刺を見ながら、ホストクラブなんぞ行くか、と私はその名刺をくしゃっと丸めてかばんに突っ込んだ。
――それが、どうしてこうなった。
私は、やっちまった、と思いながら横でだらしなく寝ているタクヤの顔を見た。子供みたいに大きく開いた口からはよだれが垂れている。
汚いな。私の大切なダブルガーゼのシーツを汚さないでくれ。高かったんだ。
まあ、色々と重なったのだ。後輩がヘマをして、私が尻拭いした。なのに課長のバカタレは、もっとしっかり指導してくれよ、と労うどころか私が悪いとばかりに責めた。ついでにその日は給料日だった。
むしゃくしゃしていた。小金があった。そして、あの日、くしゃくしゃに丸めて突っ込んでいたタクヤの名刺が、かばんの底から出てきた。それでつい、名刺にあったホストクラブに足を運んでしまったのだ。
「えー、おねえさん、来てくれたの、マジで? 感激、俺を指名してくれて、ありがとー!! 」とタクヤは意外そうに目を丸くした後、にっこり笑って、私の両手を握った。
なんだ、この距離感は。これがホストというものか。
私は早くも後悔し始めていたが、タクヤに引っ張られて、席に着いた。
さて、何を注文すればいいんだ。こういうときはドンペリか、と私が言うと、タクヤは、「おねえさん、宝くじにでも当たったの? 」と吹き出した。そして、耳元でこっそりと、やめときなよ、ドンペリなんて、おねえさんの給料、吹っ飛ぶよ、と囁いた。
それから、俺のオススメのにしときなよ、と言いながら、タクヤはよく分からない名前のスパークリングワインを持ってこさせて、景気よく栓を開けた。ポンっ、軽快な音が何だか耳に気持ちいい。それでつい、最初の一杯をクイッっと勢いよく飲み干してしまった。
「おねえさん、大丈夫? それ、結構キツいやつだよ」
と、タクヤが心配そうに言ったところまでは覚えている。おい、そういうことは早く言え――。
あの後、お持ち帰りされた、というわけか、いや、お持ち帰りしたのは私か? 見慣れた風景は、確かに私の部屋だ。
あーあ、なんてこと、しちゃったんだろう。昨日の支払い、いくらかかったのかなあ。まさか給料全部使い込んだ、なんてことはないだろうけど。
自己嫌悪なのか二日酔いなのか、頭が痛くなってきた私に、
「おねえさん、おはよー」と寝ぼけた声のタクヤが後ろから抱きついてきた。ひっつくな、馴れ馴れしい。
うんざりした私に向かって、ガラスゲージの中のフィリップが、「エサをくれー」とバタバタと手足を動かしていた。
それから、タクヤは気まぐれに私の部屋を訪れるようになった。最初は追い返していたものの、
「えー、なんでー、あんなことやそんなこともした仲じゃん」
などと玄関先で言われたものだから、ご近所様の目と耳が気になって、慌てて部屋の中に入れてしまい、あとはもう、なしくずしだった。
「よ、フィリップ、元気か? 」
そう言われたフィリップはバタバタと手足を動かして、ゴン、ゴンとガラスゲージにぶつかっている。
「ねー、おねえさん、フィリップ、俺のこと覚えてくれたよ!」と嬉しそうにするタクヤに向かって、
「それは、エサをくれるでかい巨人が来たって思ってんだよ。早くエサ、あげてよ」と素っ気なく言った。
私の言葉に、しょぼんとしながらもタクヤはごそごそとビニール袋から緑色の葉っぱを出してむしり、フィリップに向かってつき出した。
はむはむ。フィリップはタクヤの手から葉っぱを奪うように勢いよく口で挟み、そのままどんどん葉っぱを食べていく。タクヤはそれをにこにこ笑いながら見ている。
タクヤは私のことを「おねえさん」と呼ぶ。名前を教えていないからだ。私もタクヤの本名は聞かない。私たちは、そういう仲じゃない。
いや、情けないかな、体の関係はあれ以降も続いている。けれど、別に恋人になったわけでもなく、お互い、本名を教え合ったり、深い話をするわけでもなく、ただ、時々フィリップに一緒にエサをやって、酒を飲んで、テレビを観ながら笑い合って、そして寝て。
ただ、それだけだった。
「ねえ、おねえさん、いいかげん、店に来てよ。俺、今度ナンバー3になるんだ。お祝いしてよー」
マジか。こいつがナンバー3になるなんて、あの店は大丈夫か。こいつ、首相の名前も「”かん”さん!」と読み間違えるようなアホだぞ。
はいはい、そのうちね、と後ろから抱きついてきたタクヤを適当にいなしながら、私もフィリップに葉っぱをあげた。
はむはむ。フィリップは葉っぱを夢中で食べている。
私は知っている。私たちが寝た最初の日、部屋のキャビネットの引き出しにあった預金通帳の位置が動いていたことを。きっとタクヤが触ったんだろう。そして、残高を確認したんだろう。
こいつの狙いは何か、私は知っている。けれど――。
「ねえ、おねえさん、俺もお腹すいた」と子供のように笑う顔。一緒にフィリップにエサをやるときの顔。テレビを観ながら、バカみたいに大声を上げて笑う顔。振ればきっとカラカラと音がするだろう頭の中。そして、優しく私の髪を撫でる大きな手。
それが全部全部愛しいから。
私はしばらくこうしてタクヤと過ごす。フィリップのいるこの部屋で。
いつか、引き出しの中の預金通帳を握りしめて銀行に行く日が来るんだろうか。そうなっても、フィリップのエサ代だけは残しておこう。
「ねえ、おねえさん、お腹すいたってば」
うるさいな。あんたは食べることしか頭にないのか。私は、はいはいと答えながら、冷蔵庫の扉を開けた。気のせいか、そんな私の背中をフィリップがじっと見つめている気がした。
リクガメのいる部屋で チカチカ @capricorn18birth
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