第2話

 日が翳って冷え始めた風に、藤棚の藤が揺れる。珍しさから衝動的に買ってしまった、黄色い花が咲く品種だ。夫とマイホームを購入した年に植えたから、15年くらいになる。

 玄関には、息子の靴があった。2階から、ギターの音色が弾みながら下りてくる。高校生の息子は、昨年辺りから軽音楽に夢中だ。

 藤子は居間の仏壇に手を合わせる。

「お父さん、あのね。あの人、またお父さんの話をしてたよ。今でも本当は、お父さんのことを愛しているみたい」

 お父さん。藤子が親しく呼んでいるのは、血の繋がらない父親、智昭だ。

 それに対し、実母である明子のことは、どうしても、あの人、と言ってしまう。



 昔から男にだらしなく、勤労な夫と幼い藤子を放置して遊び歩いていた明子。

 それでいて、夫が構ってくれないからと離婚し、藤子を連れて家を出た。それから1年経たないうちに、明子は智昭と再婚した。

 智昭は音楽が好きでギターが趣味だと聞いたから不真面目な人のかと思われたが、仕事と趣味を線引きする人だった。藤子は智昭を実の父親のように頼るようになった。

 頻度は減ったものの、明子の遊び癖は続いた。

 いっそのこと、絶縁してくれた方が楽だったのに。

 明子は、智昭のギターが好きで、藤子が淹れたコーヒーも好きで、家族の記念日は必ず自宅にいた。

 憎らしいのに、憎めない。嫌いになるはずなのに、嫌いになり切れない。



 高齢になってから糖尿病と認知症状が顕著になり、介護が必要な状態になった。

 結婚して子どもがいる藤子に負担をかけないよう、智昭が明子の介護をした。しかし、智昭が介護による過労で他界してしまった。

 藤子はしばらく自宅で明子の面倒をみたが、見かねた藤子の夫が、明子を介護施設に入所させたようと提案した。

 入所したのになぜか、明子は施設を抜け出して近所の認知症対応オレンジカフェに行ってしまう。

 血糖値が安定しない明子は、認知症状もあってか、低血糖状態に気づかず食事や甘いコーヒーを拒否し、発汗や震えの症状が出ても、意識不明になるまで自分では何もしない。主治医も驚くほど、体の変化に鈍感だった。

 このままでは施設に置いておけない、と施設長から言われている。

 離設で何かあっても責任は自分が負うから退所させないでほしい、と藤子は施設長にお願いし、何とか退所は免れている。明子が糖尿病でインスリン注射が必要であることを理由に、他の施設からは入所を断られ続けていたのだ。

 明子に何かあったときに対応できるよう、藤子は明子の監視も兼ねてオレンジカフェのスタッフになった。



 夫が帰宅し、息子と3人で夕食にする。

「え、じゃあ、ばあちゃん入院しちゃったの? やばくね?」

 息子は知識がないなりに想像し、白米と一緒に事の重大さを噛み締める。

「3日くらいで退院できるそうよ」

「退院のとき、僕が病院に行くよ」

「俺も行く。ばあちゃんに俺のギター聴いてもらいたい」

「気持ちはありがたいけど、パパは仕事、あんたは学校でしょう。私は休みだから、私が行ってくるよ」



 明子は藤子のことを覚えていない。オレンジカフェも普通の喫茶店だと思われている。カフェスペース内で流している昭和の歌謡曲をブルーノート、インスタントコーヒーをブルーマウンテンだと誤って認識している。

 それでも、明子は昔のことは忘れない。大切な思い出に思いを馳せながら生きている。

 今の藤子はスタッフで、今の明子は、あの人。

  次回のオレンジカフェに、退院したあの人は、きっと来るだろう。

 1回くらい、ギターの曲でも流してみようかな。あの人はどんな反応をするだろう。

 今朝のたんぽぽを思い出した。次回は側溝の蓋を外して、日当たりと風の心地良いところに植え替えよう。



 【「初夏色ブルーノート」完】

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