初夏色ブルーノート
紺藤 香純
第1話
たんぽぽが花を咲かせていた。
側溝の蓋の中で、朝の冷たい風にさらされることなく、陽光を浴びる。
今日もまた、あの人は来るだろう。そんな予想をしながら。
きっかり10時半。あの人は来た。杖をついて、澄ました顔で、あの人はいつもの席に座る。
車椅子の利用者様が眉をひそめていることにも気づかない。
「ごきげんよう。今日は寒いわね」
自分が汗をかきながら細かく震えていることに、あの人は気づいていない。
「いつもの、頂戴ね」
新人スタッフが戸惑う中、藤子はいつものように注文を承った。
「ここのコーヒーは、美味しいわ。さっき余所でコーヒーを出されたのだけど、甘くて飲めたものじゃなかったわ。ひとくち舐めて、こっそり洗面台に流しておいたの。コーヒーというのは、お砂糖もミルクも入れないのが普通なのに」
あの人は、舌足らずだが自信満々に言ってくれる。
「朝ご飯は何だか食べられなくて、コーヒーまで不味かったのよ。おたくのお店で口直しさせてもらうわね。ここのコーヒーは最高なんだもの」
藤子は自分の感情が湧かないうちに、コーヒーを用意し、あの人に提供した。砂糖もミルクも入れない、インスタントのブラックコーヒーを。
「ああ、美味しいわ。ブルーマウンテンね」
あの人は、ラジカセで流している音楽には乗らず、鼻歌に合わせて細い体を揺らしながら、うっとりとインスタントコーヒーを味わう。
「懐かしいわ、この音楽。ブルーノートでしょう」
藤子は、曖昧に頷く。
ちらりと先を見やれば、新人スタッフは、車椅子の利用者様に金平糖を押しつけられている。利用者様に同行した娘さんらしき人は、それを止めることも促すこともせず疲れた顔で宙をぼんやり見ていた。介護疲れだろう。少し前の自分を見ているようだと、藤子は思ってしまった。
少し前の自分。それと、あの人。
何も考えるな。線引きしろ。藤子は自分に言い聞かせる。
あの人は空気を読まずに、いつものように語る。
「今日みたいな初夏の陽気の日だったわ。智昭さんが私のためにギターを演奏してくれたの。駅前の喫茶店で、急な演出で。それがプロポーズだった。私はすぐに受け入れたわ。そのときから、私の人生は薔薇色になったの」
あの人はコーヒーを飲み干し、席を立った。
「ごちそうさま。また来るわ」
鼻歌のメロディを、今度は口ずさむ。
出入口付近で、あの人は、膝から崩れるように倒れた。
藤子は我を忘れて駆け寄り、あの人の肩を叩く。
「お母さん!」
意識がない。顔から汗をかいている。
うろたえる新人スタッフを呼び、金平糖の袋を開け、あの人の口に入れる。
それから藤子は携帯電話で119番通報をした。
「救急車をお願いします! 大倉明子、76歳、低血糖で意識不明です! 場所は……」
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