第6話
十二月二十四日。土曜日。
光の日課は、朝炊きあがった米を、仏壇に祀るところから始まる。
信心深くはない光だが、かつて母が、亡くなった祖父母に対してそうしていたので、ずっと真似を続けている。こうすることで、亡くなった母への忠誠が示される、という気持ちがあった。もっとも、自己満足だということは光にもわかっていたが。
これまでの物語では触れていなかったが、光の母親は三年前、つまり光が中一のときに亡くなった。
癌だった。最初は光が小四のときに発覚し、闘病を続けていたが、がん細胞の転移を止められず、亡くなった。
光はかなりショックを受けた。光の父は日本各地の現場を飛び回っていて、年に数回しか家に帰ってこない。だから母が唯一の家族のようなものだった。その母が亡くなったのだから、光のショックは相当なものだった。三年たった今でも、クリスマスイブを楽しいイベントだと捉えられずにいる。
この日、朝一番にでかけた光は、墓前に祀る花と、光も母も好きだったチョコチップクッキーを買い、墓地へ行き、墓前で祈った。
墓には、誰かが備えた真新しい花があった。
誰だろう。ここを訪れる人は、光以外にいないはずなのだが。
命日なので、急に思い出した母の友人が訪れたのだろうか。そんなことを考えながら、光は帰路についた。
自宅に戻ると、庭に四トンユニックが止まっていた。『山川電工』と書いてあった。
光の、父親の車だった。
* * *
「墓参りか」
「……」
突然、父親が帰っていたことに、光は驚いた。
光の父親である山川正明は、山川電工の社長である。
社長といっても、電工職人のボスとして、十名ほどの職人を従えて全国各地を飛び回る会社であり、大金持ちという訳ではない。むしろ職人に近かった。
ここでいう電工職人とは、特別高圧の送電用鉄塔や、電線の工事を行う職人のことだ。
電工職人と一口に言ってもいろいろあるが、正明が生業とする特別高圧の送電用鉄塔の職人は、そもそも鉄塔の数がそこまで多くないから、常に仕事を得るためには全国各地を回る必要があった。自宅近くで現場があるのはごくまれで、一年の大半を現場近くの安いホテルか、作業員用仮宿舎で過ごしている。
そんな正明が、何も連絡せず戻っていたので、光は驚いたのだ。これまでも、帰ってくる時は連絡をくれたのだが……
「いや、驚かせてすまん。まあ、昼飯でも食え」
テーブルには大量の寿司が置かれている。スーパーの寿司だったが、値段は相当張っているようだ。
光は、黙って食卓についた。
光の、父親に対する思いは、複雑だった。
正明はほとんど家にいなかったが、一緒にいた母から「お父さんが鉄塔に昇って、命がけで働いているから、私たちがごはんを食べられるんだよ」と常日頃教わっていた。
しかし、母が亡くなり、葬式の時、「俺がもっと近くにいてやれれば……」と正明がつぶやくのを、光は聞いてしまった。母の死でショックを受けていた光は、「だったら最初から、家にいればよかった」と思った。しかし、正明は鬼のように怖い父親なので、そんなことは正面から言えなかった。結局、正明は葬式の二日後には現場へ戻り、光は正明の優先順位が、家庭より仕事にあると断定してしまった。
だが、母はそんな仕事熱心な正明を愛していたので、正明の姿勢そのものを否定したら、母の思いも否定することになる。
このような経緯があり、ここ数年、正明が帰ってきてもごくわずかな会話しかできなくなっていた。年頃の親子では、言葉が少なくなるのはありがちな事なのだが、母の死がこの事態を招いたと、光は信じていた。
そんな父が、寿司を持って突然帰ってきた。しかも、よく見たら光の好きないくらの軍艦巻きが大量にある。幼い頃、光はなぜかいくらの軍艦巻きが好きで、「贅沢なやつだ」と正明を笑わせたことがある。ちなみに今は別にそこまで好きではない。光は、正明の中にある自分のイメージが子供のまま止まっているのかもしれない、と思った。
「……山川電工は解散することにした」
案の定、正明はとんでもない事を話しはじめた。
光は、口まで運んでいたいくらの軍艦巻きを落とし、いくらの赤い粒がポロポロとこぼれた。しかし正明はそんなことを気に留めず、話し続けた。
「借金は全部返した。職人たちの再就職先も全部決めた。お前が困ることは何もない」
「親父は、これからどうするんだ」
「俺は、全日本電工の社員になって、現場監督やる。今までとやることは変わらん」
全日本電工とは、日本最大手の電気工事会社だ。全日本電工が電力会社などから大きな仕事を受注し、それを山川電工が下請けとして施工する。光も、山川電工の仕事がそういうものだと、正明から聞いていた。
「なんで、急に会社を解散することになったんだ」
「山川電工にこだわらなくても、最近は大きな会社に所属して仕事するほうが、職人も楽なんだ。人手不足だから、小さな会社では後継者を集めるのが難しい。中小企業で福利厚生まで手厚くするのは限界があるからな。そのへんを元請のお偉いさんといろいろ話して、山川電工を今の形で続けるのは無理だと判断した」
まだ社会経験のない光に、そのあたりの事情はわからない。
しかし、光は父や母に向かって、何度もこう言っていた。
「大きくなったらお父さんの後をついで、僕が社長になる」
光は本気だった。最初は工業高校進学を希望していたが、「いまの時代、大学は出たほうがいい」と正明に止められ、普通科高校を選んだほどだ。
その将来の夢が、突然、絶たれたのだ。
「心配するな。お前が大学を出るまでの学費と生活費は、俺が見てやるから。次の職場のほうが、俺の手取りは多くなるくらいだからな」
「そういう問題じゃない。どうして俺に何の相談もしないで、そんな大事なことを決めたんだ」
「母さんが死んでから、俺なりにいろいろ考えたんだよ」
ただの時代の移り変わりではなく、母の死がきっかけだったと、正明は言う。
「お前には言ってなかったが、母さん、すごく頭が良くて、東京のいい大学に受かってたんだ。それを俺と結婚するために、大学へは行かず、地元で就職した。じいさんが亡くなって俺が社長になってからは、事務作業を全部やってもらった。母さんは何も言わなかったが、本当はいい大学に行って、もっといい仕事をしたかったんだろうと思う」
何もかも、光には初耳だった。
母が山川電工の仕事を手伝っていたのは知っていたが、そのような過去があるとは思っていなかった。
「だから――息子のお前には、いい大学に行ってほしい。母さんはそう思っていたに違いない」
今更、亡くなった母の意志など、誰にもわからない。しかし、正明が考え抜いた結果はそうだという。母に言っていたことを守るため、山川電工の跡継ぎになろうと思っていた光には、青天の霹靂だった。
「大学は、好きなところにいけ。俺は大学出てないから、何もわからん。まあ、学校の先生によく相談して決めろ。俺に言えるのはそれくらいだ。それから金の心配はするな、大学出るまではお前がバイトもしなくていいくらいの蓄えは、一応ある」
正明はそう言い残すと、「明日からまた現場だ。今年は正月も帰れない」と言って、四トンユニックで家を出てしまった。
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