第5話
光の言葉で、家庭科準備室の空気が凍りついた。
誰も予想していなかった言葉だった。そもそも、光の母親がすでに亡くなっていること自体、万帆も、瑞樹も初耳だった。
母親が亡くなっている、と言うと、皆気を使いはじめるので、光はあまり言わないようにしていたのだ。
「えっ、ええっ……」
完全に想定外だった万帆は、驚いて、言葉が出なかった。
一方、瑞樹は急に大人しくなった。まさか、本当に十二月二十四日を好きな人のために空けられない理由があったとは、思いもしなかったのだ。
「墓参りに行くだけなんだ。ただ、俺は母が亡くなった日を、女の子と遊ぶことにあてる心の余裕がない。それだけだ。俺のせいだ」
「そ、そんな事ないです! それなら仕方ないです! 何も知らずに誘ってしまったわたしが悪いです」
自分のせいにしようとした光を、万帆が慌てて止めた。
「すまない。チケットを無駄にしてしまって」
「み、美帆と行くから、無駄にはならないです」
「そうか……」
「ごめんなさい、何も事情を知らずに……」
「いや、万帆さんに言ってなかった俺が悪い」
デートの話が消えたとはいえ、落ち込む光とそれをフォローする万帆の姿は、それなりにいい雰囲気だった。
しかしこの時、瑞樹は二人の仲の進展よりも、自分がものすごくひどいことをしてしまったような気がして、体を震わせていた。瑞樹は自分の母親とかなり仲が良いので、自分の母親がもし亡くなっていたら、などと想像すると、耐えられなかった。誰にも言ってはいないが、光は相当な心のダメージを負っているのだと、勝手に想像していた。
瑞樹は光に謝りたかったが、万帆と光の会話が続いているため、なかなか間に入れない。
頃合をみて謝ろうと、じっと待っていたが、話しかける前に家庭科準備室のドアが唐突に空いた。
「ここにいたのね」
倭文泉が、あらわれた。
「倭文さん? どうしてここが?」
「家庭科準備室の鍵がなかったから、生徒会の子に聞いたの。そうしたら、清宮さんが持っていったって」
瑞樹の問に、泉は何事もないような顔で答えた。
泉は瑞樹と同じく、生徒会の権限で校舎の鍵を借りられる。それで気付かれたのだ。
「山川くん。どうして正座しているの?」
「いや、ああ、これは、色々あってだな」
「よくわからないけど、私も同じように座るわ。彼女だから」
「お、おう」
泉が、光の隣に正座した。とても姿勢がよく、いかにも大和撫子といった風な正座だった。
あまりの美しさに、近くにいた万帆が気後れして離れたほどだ。
「山川くん。今週の土日はクリスマスね」
「そ、そうだな」
泉は淡々と話すが、光は呆気にとられているのと、冷静に近くで泉を見たらものすごく綺麗で、なぜかいい香りが漂ってくることに気を取られて、ろくに頭が回っていなかった。
「生徒会の子に指摘されたのだけど、付き合っているならクリスマスはデートをするものらしいわ」
「お、おう」
瑞樹は聞きながら、あくどい笑みを浮かべた。
お前も光の過去の事情を聞いて、断られてしまえ。これで二人の仲は、崩壊へ一歩近づくだろう――
「二十五日の日曜日は空いているかしら?」
「あ、ああ、二十五日なら空いているぞ」
「なら、二十五日は私とデートをしましょう」
「……」
「予定は無いのでしょう?」
「……そう、だな」
瑞樹はよ○もと新喜劇のようにズッコケかけた。
「あと、付き合っているならなるべく一緒に学校から帰った方がいいらしいわ。と言っても私は校門前まで車で迎えに来てもらっているから、わずかな距離だけど、一緒に帰りましょう」
「お、おう……」
こうして、特に恥ずかしがらずにしてほしいことを淡々と述べる泉を、光は断れなかった。
光と泉は正座をやめ、家庭科準備室を出た。
廊下に出てすぐ、
「二十五日なら別にいいって何なのよーーー!!」
瑞樹の、窓ガラスを震えさせるような絶叫が、家庭科準備室から聞こえた。
「あの人、私と話したあと、よくああやって叫ぶのよ。理由はわからないけど」
「そ、そうか」
どう考えても泉が煽っているせいなのだが、本人にその自覚はないようなので、光は触れないことにした。
泉と一緒に歩いていると、光は、万帆と一緒だった時とは違う視線を感じた。
非難の目だった。
かつて万帆と一緒に歩いていたときは、好奇の目や、応援されているような感触を覚えていた。しかし、今回は違った。
男子からは、美人である泉を突然手に入れてしまったことに対する嫉妬。
女子からは、万帆と仲が良かったのに、突然泉に相手を変えたことに対する、浮気に似た行為の非難。
そんなわけで、男子たちはあからさまに光へ中指を立てたり、女子たちはひそひそと話しながら二人から離れていくなどして、光には悲惨な状況だった。
泉は、気にしていないようだった。光と一緒に歩ければ、それ以外は何も気にしていないようだった。
「どうして付き合っていたら一緒に帰らなければならないのかしら。一人で帰れるし、二人で予定を合わせるのは面倒だもの」
「お、おう」
そのうえ、泉にムードも何もないことを言われ、光にとってこの帰路は地獄だった。
「私、これまで恋愛経験はないけれど、二十五日のデートコースは生徒会の子に作ってもらったから、安心して」
「お、おう」
「朝八時に青柳駅の西口集合でいいかしら」
「お、おう」
いや、早いだろう。学校がある日じゃないんだぞ。と光はツッコミたかったが、反論できなかった。もともと光は、女子からの要求をなかなか断れない性格だった。瑞樹と何度も話すようになったのも、彼女が例の事件を気にしていて、彼女から光へ恋の助言をするよう求めたからで、光から積極的に女子と向かい合ったのは、万帆と仲良くなった時だけだった。
そんな訳で光は、ついさっきした瑞樹との約束も忘れ、高校一年生のクリスマスという大事な時を、怪しい少女・泉と過ごすことになった。
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