第10話
「家、駅から遠いんじゃなかったのか」
「えっ? 歩いたら遠いけど、バスなら十分もかからないですよ」
万帆の自宅のある駅で降りた時、光がそう尋ねた。万帆が以前、自宅へ送ろうという光の申し出を断ったことに対してなのだが、万帆はあまり気にしていないようだった。
ちなみに万帆は、電車の中では光に体を預けて爆睡しており、光のこれからどうしよう、という思考は、万帆の柔らかい体によって完全に遮断された。
バスに乗って約十分。閑静な住宅街のマンションに到着した。
自宅が一戸建てで、オートロック付きマンションに入ったことがなかった光は、自分のような部外者がここに入っていいのか、不安になった。完全にアウェーな環境だから、光はいつもより萎縮していた。
万帆の家に入った時、コンパクトにまとまったマンションの居住空間を初めて体験し、光は自分がもっと小さくならなければ迷惑だ、という錯覚を覚えた。そもそも、光は他人の家という、気を使わなければならない環境が苦手だった。
「わたしの部屋はこっち!」
万帆は光を玄関からすぐ近くの扉に引きずりこんだ。奥にある部屋は、光からはよく見えなかった。
そこは六畳ほどの部屋で、ダブルベッドが部屋のほとんどを占めていた。
「……なぜこんなにベッドが大きいんだ?」
「んー、大きい方が快適だから?」
「枕が二つあるが」
「やだなー、今日のために用意したに決まってるじゃないですか」
二人ともコートを脱いで、光は万帆が促すままにダブルベッドに座った。というか、そこしか座れる場所がなかった。
「えへへ。二人だと緊張しますね」
「ああ……」
「……」
「……」
「……襲ってこないんですか?」
誰もいない家に誘われた理由は、光も当然、察している。
万帆は光の顔をじっと見つめているが、自分から動こうとしない。おそらく、男から動いてほしい、という意思表示だ。
しかし、光はどうしても動けない。
どう動いていいのか、わからない。
今の状況は、男子にとって理想的な状況だ。普通は男子が体を求めて、女子が難色を示すのだから、女子のほうが受け入れてくれている、というのは願ってもないチャンスである。
だが、光はそれを素直に受け入れられなかった。
「江草さん」
「はい?」
「その……まだ、早くないか。付き合っている、という訳でもないのに」
「えっ」
万帆は一瞬、ぽかんとした顔になった。
それから首を横にぶんぶんと振り、急に悲しげな顔をした。
「山川くんは……わたしのこと、そういう相手だと思ってくれてなかったんですか」
「い、いや……そういう訳では」
「ただのお友達、だったんですか」
「いや……」
光は否定したい。しかし、否定したらそれは光が告白したのと同じだ。
この状況を利用して、さっさと告白してしまうのも一つの手だ。しかし、そんな都合のいい展開は、いけない気がする。光の直感で、それはできなかった。
何も話せないでいると、万帆がいきなりセーターを脱ぎはじめた。
「なっ……!」
ぐっと服をまくしあげ、とてもきれいな、つやのあるお腹が見えたところで、光は顔を背けた。
「こっち見ていいですよ? もしかして、本当に興味ないんですか?」
おそるおそる光が視線を戻すと、万帆はキャミソール姿になっていた。
光は一人っ子で、年の近い姉や妹がいなかったので、シャツの下にはブラジャーがあると思いこんでいた。肌着のキャミソールの存在など、想像もしていなかった。
「あはは。裸になったと思いましたか?」
いたずらっぽく笑う万帆。キャミソールだけでも、光には十分、刺激が強い。
「ここから先は、山川くんが脱がせてください」
万帆が体を寄せ、光に迫る。服を介してではない、直肌が光に触れる。
「好きなところ、触っていいんですよ?」
万帆が光の手をとり、自分の胸元へ、ゆっくりと近づけていく。
ダメだ。
こんなはずではない。
俺の江草さんとの恋は、いきなり体を交わすような、性欲にまみれたものではない。
だが――
江草さんがいいのなら、別にちょっとくらい触っても――
「みほーっ」
光が葛藤していた、その時。
扉の外から、女の子の眠そうな声が聞こえた。
「あ」
万帆が固まる。光の手をがっしり握ったまま、その手を最後まで動かすべきか、戻すべきか思案しているようだった。
「かえったのー?」
その声は、光たちのいる部屋に近づいてきた。
光は考えた。おかしい。今、この家には自分たち以外、誰もいないのではないか。
しかも、その声は江草万帆に似ている。
というか、万帆そのものだ。
だとしたら、今隣にいる女の子は一体、誰なんだ?
もしかして、幽霊なのか?
思考が完全にエラーを起こした光は、隣にいる万帆に実体があるのか確かめるため、掴まれていないほうの手を万帆の肩にまわした。
「ひゃんっ!?」
万帆の肩はたしかに触れられるし、温かい。反応もあった。
間違いない、これは実体のある人間だ。
などと光が考えた時、部屋のドアが開いた。
そこには、万帆がいた。
灰色のスウェットの上下、髪はぼさぼさ。眼鏡はしておらず、眠そうに目をこすっている。片手には携帯ゲーム機。完全に自宅でくつろいでいる格好だった。
「そろそろめがね返して……えっ?」
眼鏡のない万帆は、二人の姿がよく見えなかったらしく、状況を把握するのにしばらく時間がかかった。
光と万帆(?)は、お互いに肩を組み、もう片手で手をつなぐという、いかにも愛し合う二人のような格好で、静止している。
「えっ、えっ、えええええっ……」
状況を理解しはじめた万帆は、わなわなと体を震わせ、大声で叫ぶ。
「美帆ーーーーっ!」
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