第9話

 さて、約束の日曜日。

 光は集合時間の三十分前に到着したが、万帆は時間を過ぎても現れなかった。万帆は律儀な子なので、時間は守るはず。もしかしたら途中で何かに巻き込まれたのかと心配になった光は、LINEを何度も確認した。メッセージを送ってもよかったが、催促しているような感じで印象が悪くなると困るので、画面を見ながらうじうじと迷い続けた。約束の時間から十分後、万帆か現れた。


「おはよー」


 この前と同じ、白いコートと黒いキュロットスカート。マフラーの色が違っていたが、それ以外は変わりなかった。

 万帆は少し眠そうな顔をしていた。さっき起きて急いで支度をして来た、という感じだ。髪も、いつもと違って少しだけ乱れている。ちなみに光は緊張して朝五時に目が覚めたので問題なかった。


「ごめん、ちょっと遅れちゃっ……いました」


 会った直後から、万帆はふだん女子の友達と話す時のような、とても軽い言葉づかいだった。万帆には男子相手だと敬語のような言葉で話す癖があるから、光はこれにも驚いた。しかし、そこは一度デートした仲なのだから、警戒心を解いてくれているのだ、と思うことにした。


「じゃ、行きましょっか」


 そう言って、万帆はがしっ、と光の左腕に抱きついてきた。


「なっ」

「えっ?」


 驚いた光は、一歩避けてしまった。万帆は光に引っ張られ、よろめいてから手を放す。

 まさか万帆がこんなにも積極的に腕を組もうとするとは、想像していなかった。この前は、万帆が手をつなぎたい、という意思を光が汲み取れず、失敗したのだ。一度失敗したら、なかなかもう一度はできない。そう思っていたが、あろうことか万帆はタックルのように光の腕へ向かってきた。


「あれっ……い、嫌だった、ですか?」


 万帆は意外そうな顔をしていた。恥ずかしがってはいない。まるで年上のお姉さんが、手をつなごうとして照れるませた子供をなだめている時のような顔だった。


「いや、い、嫌ではないが……」

「人に見られてるのが気になる、とか?」

「それは、まあ、あるな……」

「じゃあいいでしょ! こんなところに来る高校生いないし」


 万帆はふたたび、光の左腕に抱きついてきた。


「山川くんの腕、太くて硬くて、抱きごごちいいですよね~」


 万帆はぎゅっ、と光の腕を抱きよせた。光の硬い腕に、万帆の柔らかい部分が当たり、自分の腕がマシュマロみたいにふやけてしまったような感覚に陥る。具体的に万帆のどこが当たっているのか、恥ずかしすぎて直視できなかった。

 ぐいぐいと腕を引っ張って、先に歩く万帆。積極的な万帆に対して、光はたじろぐばかりで、大人しくついて行くしかなかった。

 神葉町は、有名な古書街である。ただ古い本が多いだけでなく、様々なジャンルに特化した書店が多い。休日はそれなりの人が訪れるが、研究者かマニアが多いので、高校生の姿はあまりない。周辺にはおしゃれなカフェも多く、デートにはもってこいの場所だ。


「ここには、よく来るのか? 俺は五回目くらいだが」

「んーと、同じくらいかな、多分」

「どこの店がいい?」

「んーと、今日は適当にぶらつきたい感じ……です、多分」


 本好きな光は、ネット通販でも電子書籍でも売っていない恩田陸の本を探すために何度か来たことがある。万帆はなんでも読むタイプなので、どんな店に行くのか興味があったが、具体的な店名は出さなかった。気ままに歩いて、気に入った店に入るタイプか。


「あっ」


 などと光が考えていたら、万帆が急に足を止めた。

 店頭のショーケースに、シェークスピアの『ハムレット』の英語の原本が飾られていた。


「えっ、すごい、これ英語版だ。こんなの置いてあるんですね」

「ああ、ここは戯曲の専門店のようだが」


 戯曲。つまり演劇用の脚本のことだ。文学の一ジャンルなので、専門店があってもおかしくない。


「ここ、入ってみていいですか?」

「かまわないが……シェークスピアに興味が?」

「えっと、シェークスピアというか、演劇に興味があって」

「初耳だな」


 万帆は一瞬しまった、という顔をしたが、光は「まあ、俺に言ってないこともあるか」と聞き流した。

 その店は古典作品の英語版を大量に揃えていて、万帆は名作をいくつか手にとって、立ち読みした。けっこう集中していたので、光は別の本を読んで時間をつぶした。こうなると、光はただ待つだけでいいのか、それとも話し相手になるべきなのか迷ってしまう。

 そのうちに万帆が立ち読みをやめ、また光の腕にしがみついてきた。


「面白かった! さ、行きましょ」

「ああ。何か買わないのか」

「高すぎて無理でした!」


 英語版の本は、日本語の本の五倍くらいの値段がする。高校生には厳しい。


「しかし、よく英語版を読めたな」

「えっ? あ、いや、好きなものは別腹って感じかな。そんなことより、いつの間にかお昼になっちゃいましたね。お腹すいてきちゃった」

「ああ、そうだな。そのへんのカフェでも入るか」


 いま光たちの立っている通りの向こうが、カフェの並ぶエリアだった。しかし、お昼時なので、どこの店も並んでいた。


「あー、待つの嫌いだからいいです。それより駅前のバーガーエンペラー行きたいです」

「バーガー、エンペラー?」


 光がバーガーエンペラーのことを知らない訳ではない。ワッパーという大きめのハンバーガーがおすすめのチェーン店だ。光もハンバーガーは好きだが、気合いの入ったデートで寄る店だとは思えなかった。

 しかし、万帆がやたらと乗り気なので、光は前日ネットで調べた三つの候補店を脳内から消し去り、そのまま従うことにした。カウンターの前で、二人はパネルを眺めながら、注文を考える。


「あ、あの、山川くん」

「どうした?」

「お、女の子がダブルワッパーチーズ食べたら引きます?」

「いや……俺は気にしないが」

「ほんと!? じゃあ食べよっと」


 光が気になったのは、女子がダブルワッパーチーズを食べるという行為そのものではなく、以前のデートの時、万帆が自分は少食だと言っていたことだ。ダブルワッパーチーズは確かに美味いが、少食ならジュニアサイズもある。

 万帆は上機嫌にダブルワッパーチーズを受け取り、光と同じくらいのペースで食べた。


「おいしかった~!」


 自分の知っている万帆といろいろ違っていたが、とても満足そうだったので、とりあえず光は受け入れることにした。慣れてきたら意外な一面も見えるのだな、と。


「次はどこに行く? また書店を回るか」

「んーと……お腹いっぱいになったから、どっかでゆっくりしたいですね」

「なら、カフェにでも入るか」

「んー、もうお腹いっぱいでお茶も飲みたくないから、わたしの家でゆっくりしましょう」

「家、だと?」

「はい。今日は夕方まで誰もいないので、ゆっくりできますよ~」


 一瞬、光の脳内はとある妄想でパンク状態となった。

 俺を、誘っているのか。

 女子とは、こうも積極的なものなのか。そういうことは、男子から拝み倒すくらいにお願いして、それでも拒否されて、やっとたどり着くものじゃないのか。

 というか、そもそも付き合ってすらいないのに、そこまでしていいのか。

 迷う光の顔を、万帆がにやにやと眺めている。あの大人しい万帆が、こんなにも積極的に誘ってくるなんて……

 

「じゃ、行きましょ!」


 光はまたしても万帆に腕を引っ張られ、駅へと向かった。

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