第3話

 翌日の昼休み。

 瑞樹が万帆と話せるように取り繕ってくれる、という話を、光は話半分に考えていた。光は昔から、都合のいい話はそう簡単に起こらない、と信じている男だった。瑞樹は自分の意外な性癖を見られて焦っていたが、そんなことはすぐ忘れるだろう、と。

 ところが、皆が昼食を食べ終えたくらいの時間に、瑞樹は動き出した。万帆はいつも、昼休みの後半は読書に費やしていた。教室で読書をしている、ということは話しかけないでほしい、という意思表示でもある。瑞樹はそんな暗黙のルールを全く気にせず、何気ない素振りで万帆の隣の席に座った。


「江草さーん、何読んでるの?」


 上機嫌そうに、まるで親しい友人に話しかける時のような感じだった。瑞樹はクラスの中心人物であり、とても気さくなので、万帆とも何度か話したことはある。しかし、おとなしいグループの万帆と瑞樹は、やはり別の人種。普段からしょっちゅう話している訳ではない。


「えっ」


 万帆は話しかけられると、カバーをつけた文庫本をばたっ、と閉じてしまった。少し焦っているようにも見える。


「あれ~? なんで隠すの? もしかしてエッチなやつ?」

「ち、違いますっ!」


 万帆はぶんぶんと首を振る。普段あまり見せない万帆の焦る姿に、遠くから観察していた光はときめいていた。クラスでそのような表情を見せたのは、光が記憶している限り初めてだった。光はここ最近、万帆のことばかり観察しているから間違いない。


「じゃあ誰の本? まー、私にはわかんないかもしれないけど」

「……三島由紀夫、です」


 大人しそうな万帆のイメージとは対象的なチョイスに、光は驚いた。


「あっ、その人知ってる? 自衛隊の前で切腹した人でしょ」

「そ、そうです。よく知ってますね」

「なんかテレビで特集やってたの、見たことあるんだよね。どんな小説書いてた人なの? やっぱ戦争の話?」

「いえ、戦争を舞台にした話というのではなくて……普通の娯楽小説とか、青春小説みたいなのも書いてるんですよ」

「そうなんだ! じゃあ、今読んでるのはどんなやつ?」

「そ、それは……」


 なぜ瑞樹は、今読んでいる本が何なのかにこだわっているのか。光は疑問に思ったが、よく見ると瑞樹が光のほうへ何度もアイコンタクトを図り、万帆に見えないようにしながら手招きをしていた。瑞樹と万帆が話すだけでは、光と万帆の仲は永遠に進展しない。どこかで接触しなければならない、と光は思っていた。それが今らしい。

 光は立ち上がり、瑞樹と万帆のところへ向かった。


「あっ、山川くん!」


 瑞樹がわざとらしく光を呼び止めた。この白々しいやり方、瑞樹はコミュニケーションにおいて相当な策士に違いない、と光は思った。


「どうした?」

「山川くんもよく本読んでたよね。三島由紀夫ってわかる?」

「ああ。有名なものはいくつか読んだ」


 光がそう言った瞬間、万帆の表情がわずかに明るくなったのを、彼は見逃さなかった。同じ本を読んだことがある、というのは読書家にとって大きな共感をもたらす。本を選ぶ時、人は自信の価値観をもとに読みたい本を探すから、同じ本を選ぶ人は、似たような価値観を持っているのと同じだ。それに、その本を読んで、この人はどう思ったのだろう? というのを聞いてみたくなる。


「なんかねー、私もたまには本読んでみようかと思って、万帆ちゃんに今、何読んでるか聞いてたんだけど、三島由紀夫の本っていうこと以外は教えてくれないんだよね」


 そんな話には聞こえなかったが……光は、瑞樹の表情がどことなく怪しいことに気づいていた。何か、この場の空気を変える返事を求めている。そんな感じがした。


「自分が読んでいる本を他人に知られるのは、恥ずかしいものだぞ」


 光には正しい対処法がわからなかったが、率直に今考えていたことを言った。瑞樹が万帆にやたらと押している姿を見て、光は少しいらついていた。迷惑そうにしている万帆を助けてあげたい、と。

 それこそが瑞樹の狙いであった。


「あっ、そっか! そうだよね! 知られたくないこともあるよね! ごめんごめん、ヘンなこと聞いちゃって!」

「い、いえ、別に……」

「私、めったに本とか読まないから、江草さんの気持ちわかんなかったよ。山川くんはよく本読んでるから、よくわかったんだよね。意外と相性いいんじゃない?」


 そう言うと、瑞樹は光の背後にまわり、背中をぐいぐい押した。瑞樹と光の位置が変わる。つまり、光が万帆のすぐ近くに移動したわけだ。


「あっ、私生徒会の用事あったから、じゃあね!」


 こうして、瑞樹の力により、光は万帆に接近することができた。


「あっ……」


 しかし、光は困っていた。でかすぎる光は、座っている万帆を見下すような形になる。万帆はあからさまに怯えている。

 ここは瑞樹にならって、隣の席に座った。光は緊張していたが、この流れで何も会話せず解散するのもおかしな話だった。


「金閣寺、なら読んだ」

「……えっ、あれ読んだんですか? すごいです。長いし、難しいのに」

「まあ、読んだのと理解したのは違うし、ただ目を通したというだけだ……清宮に絡まれて、大変だったな。三島由紀夫の本なんて、どんな本なのか説明するのも難しいだろう」

「そうですね。今読んでるのは、そんなに難しいこと書いてないですけど」


 万帆はどこか、そわそわしていた。光に何かを期待しているようだった。


「俺に教えてくれるか? もしかしたら、読んだことがあるかもしれない」

「……仮面の告白、です」


 万帆が文庫本で顔を隠しながら、恥ずかしそうに言った。その表情が可愛すぎて、光は弾道ミサイルのように空の彼方へ飛んでいってしまいそうだったが――なんとか正気を取り戻し、万帆がなぜ渋っていたのか、理解することができた。

『仮面の告白』は三島由紀夫の初期の作品で、自身の同性愛を告白するもの(様々な解釈があるのだが)。七十年も前の作品だが、今読んでも非常にインパクトのある作品だ。


「なるほど……」

「説明するの、恥ずかしいでしょう?」

 

 瑞樹とは話しづらそうにしていたが、同じ読書愛好家の光には違う表情を見せていた。『仮面の告白』の内容が瑞樹のような奴にバレたら『江草さんは怪しい趣味を持っている』という噂が流れかねない。しかし光は、どのような内容でも小説という芸術品であり、そこに本人の嗜好など関係ない、ということを知っているから、万帆の気持ちがわかる。

 万帆と思わぬ形で意思疎通ができたことに、光は悟られないよう注意しながら、喜びを噛み締めていた。

 ふと、教室の外にいる瑞樹の姿が目に入った。瑞樹は口だけ動かして、光に何かを伝えようとしている。

 つ・ぎ・に・つ・づ・け・て。

 そう読み取れた。確かにここで少し話しただけでは、今までとあまり変わりがない。光は頭をフル回転させ、次につなげることを考えた。


「そうだ。俺が三島由紀夫を読んだのは、俺の好きな恩田陸の小説で三島作品について言及されたからなんだ」

「そうなんですか。山川くん、恩田陸が好きって言ってましたよね」


 うおおおお! 万帆が、俺と話したことを覚えてくれている!

 光はそう叫びたかったが、必死でこらえた。


「ああ……実は、恩田陸の初期の作品に、『仮面の告白』が出てくる小説があるんだ。男子高の日常を描いたものなんだが、登場人物が読んでいて、どういう作品か気になって、俺も『仮面の告白』を読んだんだ。よかったら今度、そ、その作品を読んでみないか」

「えっ、なんか面白そうです。もしよかったら貸してください」


 すんなりと受け入れる万帆。瑞樹と話している時と一転して、光と話している時のほうが、万帆はずっと落ち着いていたし、楽しそうだった。

 用事があると言いつつ二人をずっと遠くで見ていた瑞樹は、なぜか大きなため息をついてから、教室を離れた。

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