2、ターゲットタイム
寝息を立てたり、いびきをかいたりしていなかっただろうか。どうやら私はあまりにも退屈で眠ってしまっていたらしい。動くことが出来ないため、時間を確認することも出来ない。体感的にはまだターゲットタイムにまではなっていないだろう。計画ではターゲットタイム直前に、葵がこの教室にやって来て、おせっかい娘ともう一人の女子生徒を教室から出す手筈になっている。そのやり方に関しては葵に一任しているが、誰かが困っているだとか適当なことを言えば、あのおせっかい娘ならきっと簡単に葵に付いていくだろう。そしてもう一人のあの女子生徒も、いつもあのおせっかい娘に金魚の糞の如く付いていく。だからおせっかい娘さえ出してしまえば、全ては解決だ。
身体を一寸たりとも動かさないようにしながら、頭の中ではいろいろな思考が巡っていく。そうしているうちに私は少し異様な空気を感じ取った。そして先ほどから、この教室で私の聴覚を刺激する物が何一つとしてないということに、私は気づいた。
まさか。
恐る恐る、私は首を回転させて教室内を見渡す。
誰もいない。
どういうことだ。
時刻は三時を過ぎてはいるが、ターゲットタイムまではまだ時間がある。それなのにあのおせっかい娘も金魚の糞も、誰一人としてこの教室にはいなかった。葵があの二人を教室から出すとは言っても、これでは少し予定よりも早すぎる。
そもそも文化祭自体が、私が眠る以前より少しばかり静かになった気がする。それはおそらく、今体育館の方でミスコンが行われていて、先より校舎にいる人の数が少なくなったからなのだろうが。少し遠くの方で微かに、女子生徒と思われる歌声が聞こえてくるのもきっと現在はミスコンの自己アピールの最中だから、だろう。
この教室に誰もいないとなると、私がここから出るのは今の方がいいということになる。私は素早く立ち上がって、制服を出すために自分のカバンを探す。
そして調度自分のカバンを見つけ出した……その時だった。
遠くの方で、ガコンガコンと何かが転がり落ちて行くような、そんな音が僅かに聞こえた。外階段からだ。三階の端の外階段に近い、十組と九組くらいまでしか今の音は聞こえていなかっただろう。
そしてその直後だ。
「葵っ!」
周りの音や声そして歌に紛れながら、その声は校門側から聞こえてきた。森さんの声だ。遮光カーテンの隙間から外を鳥瞰すると、森さんが外階段の方に走り寄ってきているのが見えた。何だろう……あれは……血、だろうか。森さんがいる箇所の地面がだんだんと赤くなっているように見えた。ギリギリそこまでは見えるのに、肝心な外階段は、校舎の外壁が邪魔になって見ることができない。
嫌な予感が頭を過った。外階段を転がり落ちて行ったのは、一体何なのか。そして何故今、森さんは葵の名前……騙され続けているのだとしたらつまり私の名前を、叫んだのだろうか。たったこれだけのことで、現状の全てを把握することはできなかったが、私は身体に付着した血糊がつかないように自分の制服を抱えて、加奈子ちゃんスタイルのまま教室を飛び出した。
数人、おそらく十組の生徒だろう。
「うわっ、何だ?」「うおっ、びっくりした」
等々、私の姿を目撃して驚いた様子だったが、手の甲の『9』の字をばれてはいない。そして何より九組の生徒にこの姿を見られなかったのは幸いだった。運がだんだんと良くなっていくという、森さんの考え方が間違っていなかった証拠だろう。
外階段に行くための扉、その鍵を開ける。外から外階段に侵入するのと違って内側から入るのは容易く、つまみを九十度捻るだけの作業でいい。
扉を開けると、そこには葵のキャリーバッグが寝ていた。嫌な予感は的中だ。衝撃でファスナーが少しばかり開き、加奈子ちゃんにもともと付着していた血糊が、溢れ出てしまっている。葵の姿は……ない。一体どこにいるのだろうか。すぐさま私はキャリーバッグを立たせ、それを引いて校舎の中へと戻った。そして誰にも見られることのないよう祈りながら、私は女子トイレの中に逃げ込み奥の個室の中に入った。
制服に着替えて、キャリーバッグを掃除用具入れの中に突っ込む。一時避難だ。本来なら手放すこと自体が危険なのだが、今はこうする他ない。
トイレから出ると、トイレの前を調度葵が通過している最中だった。
「葵」
「お、おお。お前教室出てたのか、良かった。でも悪い今話してる時間は無いん……」
「キャリーバッグなら私が回収した……」
「お前が? よくわかったな」
「うん、運が良かった……からかも」
葵は腕時計を確認する。そして私の方を向いて、にっこりと笑った。
「……時間だ、行くぞ」
葵は私の手を取って、二年九組に向かって走り出す。私は葵に手を引かれ、計画成功の嬉しさを噛みしめながら教室の中へと足を踏み入れた。おせっかい娘と金魚の糞の二人は、教室に戻って来ていた。
「いやあ……先ほどは本当にご迷惑をかけました」
教室に入るなり、葵がおせっかい娘に頭を下げた。
「あ、いえいえ、私の方も……なんかキャリーバッグを持った男を追ってって言われてまして……すみません」
「いやいや、何か悪い勘違いをさせてしまっていたようなので……こちらのせいです。それと……」
繋いだ手を離して、私は葵の前に立たされた。
時刻は三時半。
……ターゲットタイム。
「『9』の字の子、見つけました」
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