#0109 入学 (2)
新入生のおれたちと保護者の里香さんは昇降口で一旦別れることになった。
下足箱に張り出されているクラス分けを見て、栞はぴょんと飛び上がる。
「葵、ボクたち同じクラスだよ!」
「……うん。まあ、そうだよね」
「栞、わたしたちは同じクラスに決まってるよ。理数科だもん」
そう言って綾は苦笑する。
そんな表情すら綾は清らかで可愛らしかった。
蓬高校は基本的に普通科なのだけど、1クラスだけ理数科というコースが設置されている。
普通科の生徒は2年に進級するときに文系と理系に分かれるのだけど、理数科は理系のみで、数学の進度が違ったり理科を全科目習ったりと普通科理系とはカリキュラムが異なっている。
定員が1クラス分しかないので合格も若干難しいと言われてる、のだとか。
けれど、文系にいけないので、夏帆みたいにあえて敬遠する人もいる(つまり、ついに夏帆との縁が切れるのだ!)。
おれは運良く推薦で理数科に合格できてしまったので、それを聞きつけた綾と栞も一般入試での志望先を理数科にしてくれたのだ。
なぜなら……普通科は進級のたびにクラス替えがあるけど、1クラスしかない理数科は3年間持ちあがりだから。
つまり、これから3年間綾と栞とは一緒のクラスでいられることが決まっていた。
「もう、そんな冷めた反応は風情がないじゃないか。2人とも嬉しくないの? それに、偏差値が1高い理数科に受かるのは大変だったんだから、葵はもっと褒めてくれても良いと思うんだ」
「それは、うん。もちろん嬉しいよ。これからよろしくね」
「ん」
頬に触れてそう言ってあげると、栞は満足げに顔をあげてくれた。
クラス分けは、おれたち理数科が7組、夏帆は3組、綾のクラスメイトだった左沢さんは6組、左沢さんと付き合っているという嵯峨千尋さんという男子は1組だ。
綾たちの大町中からこの蓬高校に合格したのは計4人だけだという。
栞は家でそのことをすこし寂しがっていたのをふと思い出す。
忘れそうになるけど栞はとても交友関係が広くて、仲の良かった友達の多くは他の学校に行ってしまったのだ。
でもたぶん、それが普通なのだろう。
おれのように、兄妹3人と中学の同級生(といっても夏帆1人だけど)が欠けることなく同じ高校に通うのは、少数派なんだと思う。
1年7組の教室は北側の旧校舎の3階に位置していた。
席順が教室の黒板に張り出されている。
苗字の五十音順なので、当然のように綾とおれと栞は縦に3人並ぶ形だった。
実は、それと口に出すとあまりに田舎者だったので胸のうちに留めておいたのだけど、教室内に40個も机と椅子が並んでいる光景を見るのははじめてだったので、おれはそのちょっとした壮観に胸が震えていた。
そしてやっぱり、おれたち3人はクラス中の生徒たちから遠巻きに視線を集めてしまっていた。
ただ、おたがい初対面だからだろうけど話しかけてくる生徒もいなく、表面上は落ち着いて過ごすことになった。
クラスの人たちと親交を深めるのはすこし時間がかかるかもしれない……、そう思っておれは息をついていた。
クラスの全員が登校を終えて時間が来ると、先導役の上級生がやってきて、入学式をする体育館に整列して向かった。
体育館は1年の教室からはやや遠く、2階の長い渡り廊下を渡って階段を下りた先にあった。
体育館へ足を踏み入れると、紅白幕に囲まれた広い空間に保護者席からの祝福の拍手と、壮麗なマーチに視界がひらけた。
ステージからみて後方の一角で、吹奏楽の一団が楽器を構えていて、その前に立つ女子生徒が指揮棒を振っていた。
薫り高くどこかおごそかな重厚感のあるマーチだ。
これは……ワーグナーだ。
歌劇『タンホイザー』の大行進曲、『歌の殿堂をたたえよう』そんな
トランペットのファンファーレの足元で低音楽器のチューバが八分音符の早いタンギングで力強く突進をはじめる。
吹奏楽に明るいわけじゃないけど、とても統率のとれた演奏だとすぐに分かる。
和音の縦が揃うたびに気持ちよく音が響いていた。
それに、色彩感のあるサウンドっていうのはこういうことを言うんだろうか。
フレーズごとに各楽器が混ざりあう微妙なバランスが変わって、旋律が色づくような感覚があった。
最後の7組までが入場と着席を終えると、ワーグナーの曲の終わりまで客席からの拍手は一旦止んで、一層華やかさを増したファンファーレが鳴り響くのをその場の全員が耳を傾けていた。
そして、曲が閉じられてからあらためて拍手が自然と起こる。
「すごい」「こんな上手いんだ……」「うちの中学と全然違う」
周囲の席から生徒たちがつぶやくのが聞こえてくる。
式がはじまると、国歌斉唱、新入生名簿の読み上げと入学許可、校長先生と来賓のあいさつ、と粛々と進行していった。
「新入生宣誓」
アナウンスとともに、おれたち新入生は一斉に起立した。
そういえば、新入生代表に選ばれるのはその年の入試の成績がトップの生徒と聞いたことがある。
300人もいる新入生のなかで選ばれたのはいったいどんな人なんだろう。
そう思っていると、
「新入生代表、1年3組、京極夏帆」
おれはひっくり返りそうになった。
しかし、「はい」という凛然とした声はまぎれもなく夏帆のものだった。
ステージへ上がる後ろ姿の、束ねられた金色の捲毛が体育館の白い照明をはねかえしている。
夏帆なのか――よりによって。
なんだか期待して損した気分だった。
そりゃ、英語は常に満点しか取ってなかったけど、5教科の合計点数ならおれだって何回か勝ったことがある。
おれだってやればできたのに……なんだか釈然としなかった。
「あの子、すっごい美人……」「あの髪、天然? きれい……」「どこの中学出身なんだろう」「なんでも、生徒会長の妹さんなんだって」
用意した原稿を無表情で読み上げる夏帆を見て、そんな声がまた周囲の生徒たちから漏れている。
おれのもやもやした気持ちだけがしばらく消えないでいたのだった。
「あんな大声で校歌を歌うなんて聞いてないわ。歌えない私が恥ずかしかったじゃない」
昇降口を出たところで里香さんと合流すると、開口一番そう愚痴をこぼした。
入学式が終わり、新入生とその家族が一斉に帰途についているので、生徒玄関は大きな人の流れになっていた。
「そんなにだっけ? 気づかなかったよ」
「そんなによ」
おれも、直前に教室で渡された生徒手帳を開いてメロディを追うことに頭を使っていて、背後の様子にまではあまり気にしていなかった。
「保護者にOBがほんとに多いのね。単純なメロディだったから、2番3番は何となく口ずさめたけど、あの中にいるのは疎外感があったわ」
川のような人の流れにしたがって校門へと続く坂道を下りながら、里香さんは「それにしても」と話を切り替えた。
「吹奏楽はさすがに上手かったわねえ」
「やっぱり、上手なんだ」
綾が記憶の中を反芻しながら少し自信なさげに言った。
「あんまりくわしくないんだけど、えっと、音がきれいでまっすぐ聴こえてきた、かな……」
「そうね。一人ひとりの練度が違うって感じ。管楽器って音程を安定させるのだけで並大抵じゃないのよ。全国コンクールの常連っていうくらいだから、きっと鬼のように練習してるわ」
里香さんはあるきながら、バッグの中から今日の入学式の式次第を取り出しておれたちに見せてくれた。
そこには今日の曲目に紙面が割かれていた。
事前祝賀演奏:保科洋作曲『風紋 (原典版)』
入場曲:ワーグナー作曲 (ハルトマン編曲) 歌劇『タンホイザー』より大行進曲
退場曲:渡口公康作曲『南風のマーチ』
どうやら、新入生の入場前にも演奏があったみたいだ。
帰ったらどんな曲なのか調べて、聴いてみよう。
「そういえば、栞は吹奏楽部に入ってみようとか思わないの?」
ふと気になって疑問を口にしていた。
以前、綾には訊いたことがあったけど栞にはなかったことだった。
無言の間が空いたので栞を見ると、苦々しそうに口元を歪めていた。
「栞?」
「……ボクは吹奏楽はやらないよ」
「この子、吹奏楽にアレルギーがあるのよ。中学の頃から」
「覚えてない。思い出したくない」
「ちょっと、ちゃんと説明しないと葵くんも分からないでしょう」
栞はすこしじれったそうにして、教えてくれた。
「中学に入ってすぐの頃、吹奏楽部の人たちにすごい強引な勧誘をされたんだ。ボクは小学校の頃から、音楽の授業とかでよくピアノを弾いていたから、上級生の人たちにもそれが伝わってたみたいなんだ。中学校の玄関のところでボクをとりかこんで帰れなくしたり、ボクを入部させるために綾まで説得されたり」
「それは……大変だったね」
「それで栞は吹奏楽部には入らなかったの。今も苦手みたい」
もしかしたら、そのおかげで栞がピアノに専念できるようになったのだろうか。
栞のピアノを応援したいおれからすると、ちょっと複雑だ。
「でも、せっかく蓬高校に入ったから、楽器体験くらいはさせてもらっても良いんじゃない? 違う楽器にもすこしは興味でてこないの?」
「少しでも隙を見せたら、口車にのせられて入部させらるに決まってる。ボクが入らなくたって代わりはたくさんいるじゃないか。それに、ボクは吹奏楽部じゃなくて綾と合唱部に入りたい」
「……そうだね」
そうだ、綾の本命は合唱部だ。
ともかくおれたちが真っ先に見に行ってみるところは、すでに決まっていた。
校門を出たところで、おれの通学カバンの中でスマホが鳴った。
メッセージアプリの通話機能の着信を告げるラッパの音だった。
スマホを取り出して確認すると、家で留守番をしている萌からだった。
「どうしたの?」
『葵さん。なんか、家にすごい大きい荷物が届いたんですけど』
「え」
すごい大きい荷物?
思わず里香さんに視線を向けると、何かを察したのか、楽しげな――怪しい笑顔を浮かべていた。
「家についてからのお楽しみよ」
「……そういうことらしいから、とりあえずそのまま玄関に置いておいてくれないかな? おれたち今から帰るところだから」
『了解です』
朝たどってきた道を里香さんの運転でまた1時間ほどかけて高尾町へ戻り、家の玄関をあけたそこには、平たくて巨大な段ボールが3つもバンドで束ねられて、玄関前の一角を占拠していた。
「何、この大きさ……」
「やっぱり大きいと大きいのねえ」
「母さん、主語が抜けてて何もわからないよ」
「あなたたちへの入学祝いよ、これ」
里香さんが「それ」を指さして平然と告げた。
入学祝い、プレゼントだ。しかし大きさと存在感に圧倒されて、言葉もでなかった。
「あたし、型番で調べちゃいました。これベッドです」
「ちょっと、封を開ける楽しみが無くなっちゃうじゃない」
「でも、組み立て前のままだと中を見てもよく分かんないよ」
「ちょ、ちょっとまってください!」
困惑のあまりおれは萌と里香さんの会話を遮った。
「あの、お祝いをいただけるのは嬉しいんですけど、ベッドってどういうことですか? おれのだったら、今使ってるのがありますけど……」
「今あるのと同じものをあげるほど愚かじゃないわ。葵くん、あなたずいぶん小さいベッドを使っているでしょう。可哀想だから、キングサイズでオーダーしたの」
里香さんは今にも笑いがこらえきれないという表情で、とんでもない種明かしをした。
「あなたたち、毎晩おなじベッドで過ごして、仲睦まじいのはとても良いことよ。でも――1人ずつっていうのは非効率だと思うの。この大きさならみんなで一緒に眠れるでしょう?」
そう言った里香さんの言葉に、綾は、ただただ驚いて。
栞は、愕然として里香さんと届いた荷物とを交互に見て。
萌は、目を輝かせて。
おれは、里香さんが何を言っているのかまったく理解できなかったのだった。
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