#0107 BEAR (2)【葉子視点】
今日は2話投稿しています。
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「あはははは! なんですかそれ、時差ぼけと絶食で倒れるなんて、どうしてそうなるんですか!」
夜のマクドナルドの店内、雫が品のない声で大笑いしていた。
――先生が倒れたあのあと、私は何人かの部員たちとで保健室に先生を運んで、残りの部員には明日の入学式のために体育館への楽器搬入だけを指示して、今日の部活を終わりにさせた。
先生は保健室ですぐに目を覚まして、その場に残っていた私と雫に謝罪のためと言って夕食に誘ったのだ。
それに雫はどういうわけか二つ返事で了承してしまい、そのせいで私は、制服にカバンを下げたまま駅前のマクドナルドにやってきて、先生と真向かいの席でしなびたポテトをかじっていた。
真横では親友が能天気にスプライトをすすっているし、私はあきれて閉口してしまう。
ちなみに制服での買い食いは校則で禁止だ。
「いやあ、帰国したばかりで日本円がなくてなあ。何も食ってなかったんだ。あ、そうだ金。申し訳ないがこれで勘弁してくれないか」
そう言って濱先生は財布から青色のユーロ札を私に差し出してきた。
あろうことかこの人は、私のお金でまとめて支払わせたかと思いきや、その上日本で使えない通貨をよこしたのだ。
私は思わず口元が引きつった。
先生はポケットに財布を押し込めるとトレイにのった包み紙を広げ、ハンバーガーを訝しげに眺めていた。
「……なんか、思ったより小さくないか? これ。うまそうだったから頼んでみたけど、いつの間に日本はこんな貧相な国になったんだ」
そんなことをぶつぶつ言いながら噛み付いた。
ハンバーガー1個が3口で食べきってしまいそうなほど大口だった。
外国のことに興味があるらしい雫が身を乗りだす。
「やっぱりヨーロッパのは大きいんですか?」
「まずメニューが違うな。これはたぶん日本でしか売ってないんだろうけど、あっちのはサイズが2種類あった記憶がある。向こうのスモールがこっちのサイズとだいたい同じだと思う」
「1日以上なにも食べてなかったのに、それだけで足りるんですか? 先生、失礼ですけどもっと食べそうな体格してるのに」
本当に失礼だなと思った。
私も同じことを思ったけど口に出すのはやめていたのに。
先生は質問には答えず、口を噤んでしまう。
まずい、機嫌を損ねちゃったか。
フォローを入れるべきか冷やりとした時。
「……その先生って呼び方、やめないか?」
「は?」
「だって、先生って敬称だろ? おれはまだお前たちから敬われることは何もしていない。それに経験上、先生って呼ばれてるやつにろくな人間はいない」
「……そう言われても」
現に濱先生は先生なのだから、他にどう呼べば良いというのだろう。
「俺はただ教師という仕事をしてるだけだ。濱さんじゃだめなのか?」
「他の先生との呼び方が、整合しないですよ」
「他の奴らにだって"さん"でいいだろう。先生呼びを強要させるのは傲慢だと俺は思う」
「……」
そんな説得をされても、今更ほかの先生の呼び方を変えることなんてできない。
そもそも、どうしてそんなことにこだわる必要があるのか分からず、私は閉口する。
「先生はどうして先生になったんですか?」
「おい、だからその呼び方は」
「呼ばれたくないなら、ならなければよかったのに」
私が押し黙ったところに、雫がにこにこしながら言い放つ。
そのあけすけな口調に私はちょっと胸がすく気がした。
「それに、さっきの部室でうかがった話だと、先生の地元って静岡じゃないんですよね」
「……そりゃ酔狂に見えるだろう、こんな縁もゆかりもない土地の教師にいきなりなるんだからな。ただ、思うところが無きゃこんなことはしない」
先生は視線の向かう先が揺らして、神妙な表情を浮かべていた。
ヒゲに覆われた口に手を当てて話を切って、そして再度口を開いた。
「――渡仏は俺にとって良い勉強になった。いい先生にも出会えて、みんな考え方は先進的だし、コンクールに挑んだのも刺激的だった。俺より10歳も下なのにとんでもなく実力のあるやつがうようよいたし、何より目的意識を持っている人間が日本よりずっと多かった。このままコンサートピアニストとして大成功とまではいかずとも、それなりに仕事にもありつけそうだった。だけど、異国で暮らす時間が長くなるにつれて……、おれは日本人なんだということを強く実感した。日本人は恵まれている、食べ物に困ることは無いし、パスポートを見せるだけでどんな国だって入れる、自然だってこんなに綺麗な国は実はめずらしいんだぞ。日本で生まれ育って良い思いをして今年28になって、そろそろおれが良い思いをさせる側にならないといけないんじゃないかとと思ったんだ」
先生は、自分自身の気持ちに向き合うようにひとつひとつ言葉を確かめながら、やがてまっすぐ目の前の私のほうを見て話し続けた。
「俺にできることを考えた時、日本の音大にいた頃に一応のつもりで教員免許をとっていたのを思い出した。おれの教え子たちが将来幸せになってくれたら、その1万分の1くらいはおれの貢献もあるんじゃないかと思いたった。だから、おれが
そう言うと先生は最後に、床を指さして手を広げてみせた。
まるで自分のせいではないと言わんばかりの仕草だった。
「……いい先生だと、思います」
私が黙っていると、雫がそう返答した。
私はまだどう反応すればいいか分からずにいた。
「でも、全国に学校はいくらでもあるじゃないですか。偶然でウチにくるなんて、ありえなくないですか」
「音楽の教員なんて、学校に1人いれば良い。倍率だって高いんだぞ」
「あんなにピアノがうまいなら、もっと良い学校だって……」
「良い学校がどんな学校なのか、おれは知らない。ただ、年頃の女子生徒とこうやって楽しい会話が合法的にできるなら、全然悪くないと思ってるぞ」
先生は真顔でそんな冗談のようなことを言うので、雫まで言葉を失ってしまった。
先生は、そんなことより――と、テーブルに手をついて頭を下げた。
「ビッグマック追加で頼んできてもいいだろうか?」
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次話からは通常通り葵たちのお話に戻ります。
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