#0106 BEAR (1)【葉子視点】
サイドストーリー的な第87話の続きになります。
興味のない方は申し訳ないですが読み飛ばしていただければと思います。
(第87話のあらすじ)
中学3年になる葉子は、所属している吹奏楽部の部長職を引き受ける。
しかし、人望も音楽の才能もあって自由気ままに振る舞う親友の雫を若干羨ましく感じて、ため息をつく日々を送っている。
部にとって一大イベントである吹奏楽コンクールへの出場も、なかなかモチベーションが見いだせないでいた。
そんななか、部顧問の寒河江先生が突然学校を休むようになってしまう。
部長の葉子が臨時の指揮者を引き受けてなんとか練習を続けているが、寒河江先生はこのまま学校を退職するという噂までが流れてしまうのだった。
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新しい顧問の先生がいっこうに姿を見せない。
もう4月になっているのに、どういうことだろう。
新年度から新任の音楽の先生が採用されて、吹奏楽部の新しい顧問もになってくれる、という話は3月の中頃に教頭先生からきかされた。
「彼」という言い方から男の先生で、
だけど、肝心の対面がいつになってもできない。
学校に姿をまったく見せないのだ。
人もまばらな春休みの職員室で「濱先生は今日もいらっしゃらない」と聞かされるたびに、虚しさはここ数日どんどん増している。
学校側も事情がよくわかっていないままコンタクトもとれないなんて、そんなことあるだろうか。
どう考えてもまともじゃない、絶対ろくな先生じゃないと思った。
入学式に、新入生歓迎会に、部員集めに……今後、私ひとりには手に負えない仕事が山積みなのに。
それに毎日の練習だって、このまま私の指揮だけで続けていくのは無理だ。
ああ、はやく仕事を押しつけてしまいたいのに……
いまだに顔もわからない相手に、いらだちが増えるばかりだった。
そうしてとうとう始業式の朝を迎えてしまった。
「――濱先生」
私の熟成した鬱屈は、3月まで担任だった加藤先生に職員室の端の机へ案内されて、一瞬で消え去った。
「こちら、吹奏楽部の部長の與那嶺さん。與那嶺さん、このひとが新しく赴任された濱先生よ」
は? え? この人が? えーー!??
第一印象はそんな恐怖と混乱ばかりだった。
職員室の椅子が足りないのか、この人の机だけパイプ椅子を使っていて、こちらに気づいて立ち上がるとき悲鳴のようにパイプのつなぎ目が軋んでいた。
180センチはゆうにある、熊のような大男だった。
彫りの深い顔に黒いヒゲ。
新任というだけあってそこそこ若く見える、けど、体躯が立派すぎる。
まったく着慣れてない安物のスーツを着て、肩から腕にかけてがぱんぱんになっている。
そして、まるで殺人鬼のように目がぎらついて血走っている。
ただただ恐いという直感に、私はすくみあがるしかなかった。
この人が音楽の先生で、吹奏楽部の新しい顧問?
冗談だと思った。
どう見ても体育の先生で、重量挙げの選手だろう。
「よろしくな」
濱先生はにっと笑って、固まって動けない私にぶんぶんと握手をする。
腕がちぎれるんじゃないかと思った。
そのあとも何か言われたけど、私の耳にはぜんぜん入らなかった。
「あ、あの。今日の部活は」
先生の存在感に圧倒されながら、かろうじてそれだけ訊けた。
「ああ、そうだよなあ。今日の部活」
濱先生は頬をかきながら、とぼけたような声でとなりの加藤先生をみやった。
「じゃあ放課後に……放課って何時でしたっけ」
「生徒は今日は昼で終わりですけど……」
「そうか、じゃあ1時半に顔を見せる。早いほうがいいよな」
よく考えたら明日は入学式なので、先生方は昼から職員会議だ。
今年も担任だった加藤先生に、「悪いけど顔見せは少し遅れる」という言伝をもらったのは放課後すぐだった。
いきなり約束を破られた。
不注意なんだろうけど、見た目通りあまり深く考えない質の人だな。
ため息をついてで音楽室に行くと、部員たちが合奏形態に椅子と譜面台を並べて、黙々と個人練習を始めてる子もまばらにいた。
けれどほとんどの部員たちはゆるい空気だ。
新しいクラスのことや、何より新顧問の濱先生のうわさで気もそぞろな様子だ。
音楽室に入ると「お疲れさまです」と声がかかる。
わたしは愛想笑いを貼りつけて、そそくさと音楽室に入る。
目上の人間として扱われるのがどうも苦手だ。
後段のパーカッションの定位置について支度を整えていると、
「ねえ葉子、新しい先生と会ったんでしょ? どんな感じだった?」
送れてやってきた親友の雫が、すぐ前の席から私を振り返った。
興奮に輝いている両目がまぶしく見えた。
さてどう伝えよう。
あの熊のような大男の風貌を思い出す。
もうすでに音楽室の中は、管楽器の音が無秩序に混じり合って騒然としていて、思考を邪魔する。
「あー、その、一応会ったけど……」
その時、皆の音が一斉に止んでいった。
いつもは合奏練習のために私が注目の合図を出すのだけど、今は違う。
一瞬何が起こったのか分からず、部内を見わたす。と――
「申し訳ない! 遅くなった」
音楽室の入り口から姿を表した濱先生が、巨大な足音を立てて正面の教壇に上がっていた。
突然入ってきた大男に、ひゃーという悲鳴にも似た声が上がっていた。
みんなあっけにとられたように一挙手に注目している。
「なにあれ」「この人が新しい先生?」「うそ、男の先生だ……」「身体でっかー」
後輩たちの色めきだったささやき声がここまで聞こえてくる。
[
先生はこちらに背を向けて黒板に横書きで文字を書きなぐり、すぐに振り返ってよく声を飛ばした。
「今年からこの学校に着任された濱だ。今年で28になるが、日本の音大を出てからずっとパリで勉強していたんで、教員としては初採用だ。よろしく」
「パリ! 留学ですか?」
「あ、ああ。そうだが」
指揮用の譜面台に手をついて頭をさげる先生に、いきなり雫が質問を飛ばしていた。
先生はすこしたじろぐだけで、すぐに言葉を続けた。
「3年ほど音楽院で勉強してた。日本に帰国したのがつい先週なものだから、今日まで顔見せができなくて申し訳ない」
明朗でよく通る声だった。
途端に部員たちのざわめきが大きくなる。
「意外と若いね」「こんな何もない学校に、なんでそんなすごい人がきたの?」
いろんな感想と疑問がそこかしこで飛び交っている。
面白そうな先生、という期待感にすこし沸き立っている。
なんか好意的な色が漂っている、気は確かなのか。
と、すぐ目の前の席にいる雫からわたしに視線を送られていた。
話しやすそうな人でよかったじゃん、とでも言いたげで、思わずわたしは眉をひそめた。
わたしには、パリという単語がもつ上流階級感と先生の野性的な風貌がどうしても噛み合わなかった。
「音楽の授業をうけもつことになってるから、その時もお世話になると思う」
「先生はなんの楽器をやっていたんですか?」
先生の近くで手が上がっていた。
サックスの同級生の子だ。
先生はにっと破顔してそちらに視線を向けていた。
「専門はピアノだ、大学の副科でヴァイオリンもやっていたが」
ピアノという単語に私は一瞬身体が熱くなった。
後輩たちも何とはなしに私をちらと見る。
何を期待しているんだろう。
私もピアノを習っているといっても、何も関係ない。
だいたい、前任の寒河江先生も大学の専門はピアノだ。
みんな、音楽の先生というだけで指揮をひきうけてくれてるんだ。
「はっきり言って吹奏楽は本当に素人だからな。管楽器の吹き方の指導は、おれよりも経験者の3年生に訊いたほうが話が早いだろう。ただ吹奏楽というものに興味はあるし、引き受けた以上は俺も楽しみたいと思ってるから、お互いによろしく頼む」
もう一度先生がこちらに頭をさげると、みんなの口から次々と質問が飛び出てきた。
「出身はどこですか?」「フランス語は話せるんですか?」「好きな女優は誰ですか?」「ティンパニ片手で持てますか?」
きりのない質問に、おしまいには大笑いが起こっていた。
あまり打ち解けないタイプだった寒河江先生の、キリキリした感じとはあまりに違っていた。
ちょっと頭痛がしてきそうだった。
その時、目の前でピンと手を上がった。
「先生の演奏を聴いてみたいです」
親友の雫がまた声を上げていた。
「今日は初日ですし、指導よりも、なにか弾いていただけますか?」
まっすぐに見据えられた目線はここからは見えなかったけど、「副部長らしい」かしこまった雫の声は、射抜くような、値踏みするような、とげとげした冷たさを含んでいた。
先生はすっと目を細めた。
小さく口角があがっている。
「……もちろん良いぞ。俺が今できるのはこのくらいだからな。けど言っておくが、おれが教師だからとか留学してたからとか、そういう先入観だけは持ってくれるな」
そういった台詞は、いままで見せなかった不敵な空気をまとっていた。
灰色のオーラを漂わせてやおら教壇からおりると、脇に移動させられていたピアノの天蓋をひとりで開けていた。
「もっと近くに来ていいぞ、演奏の邪魔にならない範囲でなら好きに囲んでくれ」
そう言ったのを最後に先生は口を閉ざす。
先生が椅子に腰を下ろすと、目の前の鍵盤がやけに小さく見える。
肩を上下させて脱力して、その太い腕を……鍵盤にめいっぱいふりおろして、叩きつけた。
その場にいた誰もが目を見開いていた。
ピアノが咆哮していた。
濱先生は、飢えた獣のように凶暴で、すべてをなぎ倒すようなビートを突進させたのだ。
パリという単語が先行して、なんとなく洗練された瀟洒さを期待していた皆を、まるで一笑に付すように原始的な音の塊をつきつけた。
ペダルを力まかせに踏みつけ、底を打つ生々しい打撃音までが聞こえてくる。
知らない曲だ。
知っているはずがない、私が知っているクラシックの曲ではない。
この荒く尖ったリズムの強調の仕方は――完全にジャズのものだった。
だけど、これはまともじゃない。
ブルースのように血生臭く歌うかと思えば、即興的な走句が迸って、テンポが2倍にまであがってブギウギ調のグルーヴが疾走する。
めちゃくちゃだ。
聴いてるだけで目が回りそうだった。
そして強烈なグリッサンドで音が滝のようになだれ落ち、4度最低音のDを響かせると同時に、先生は失神してピアノ椅子から転げ落ちた。
「先生!?」
それをみた私たちは皆恐慌状態に陥ったのだった。
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今日はこのあともう1話投稿します。
この続きのお話です。
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