#0105 萌のたわむれ (2)





 お風呂を終え、部屋に戻ろうと和室前の廊下に出たところで、パジャマ姿の栞と出くわした。



「ねえ葵っ。やっぱり、萌といっしょに寝るなんて、今からでも考え直したほうが良いよ」


 真剣な眼差しで見上げられておれは足を止める。

 湯船につかって落ち着いていた心についさっきまでの萌との距離の近さが思い出されて、ぞわぞわと胸騒ぎがした。


 でも、首を縦に振ることはしなかった。



「ごめん。でも、約束を破るわけにはいかないよ」


 萌の願いだけを拒むことはできない。


 栞も綾も、引っ越しの日から萌が家をあけていた間、おれと一緒に過ごしていたのだ。


 萌に対しても別け隔てなく、あくまで家族として親しくする。

 その建前には従わないといけなかった。



「今日は萌の番って決めたんだ。栞と綾がしてるみたいに、萌もその、おれといっしょにいたいって言ってるから」

「でも、萌は何をしだすかわからないよ。強引に葵に迫って、その……っ、ボクは心配なんだっ」

「も、萌もきっとわきまえてるよ、きっと」


 さっき膝の上にのった萌の口から、きわどい台詞の数々の記憶が蘇って声が上ずってしまう。


 ……あのやりとりは、やっぱり栞には黙ったままのほうがいいだろう。



 とその時、背後から声がふってきた。


「ふうん。葵さんにむりやりキスした栞姉がそんなこと言っていいんだ?」


 階段の手すりに軽く身体をあずけて萌が笑みをうかべていた。

 髪を下ろし、もこもこのルームウェアに身を包んでいる。


 リラックスした感じがなまめかしくてドキリとする。



「葵さんをものにする競争、栞姉も受けて立つって言ってたのに。もう忘れちゃったの?」

「うるさいな。萌にはなにも言ってない。選んでくれるのは葵なんだ」


 栞は鬱陶しそうに剣呑な目線を投げかけた。



「ボクも綾も本気で葵のことが好きなのに、萌は遊んでいるだけにしか見えない。萌の言う気持ちには説得力がないよ」

「……説得力」

「そう。萌は、ただ葵を誘惑してもてあそんで、ボクの上に立って優越感に浸りたいだけじゃないか」


 一瞬、萌が口を開きかけたまま言葉に詰まる。

 愉快そうだった表情が冷たく固まりつく。


 相手を拒絶するような栞の言葉が、階段をおりてこっちに歩み寄ろうとしていた萌との間にぴしりと亀裂を生んでいた。


 おれはその空気がとっさに堪らなかった。



「その、萌がおれといたいっていうことも、おれにとっては嬉しいことだから。今日は萌と一緒にいたいんだ。萌のことも順番に加えてもらえないかな」

「でも……」

「栞が心配してくれる気持ちは分かるよ。でも大丈夫。今までと同じで、一緒に眠るだけだから、心配してくれてるようなことは起こらないよ」


 そう言ってどうにか宥め賺すと、栞はしぶしぶ納得して引き下がってくれたのだった。


 部屋に戻っていく栞を見て、おれは小さく息をついた。





 ふたたび通された萌の部屋は、今度はすこし居心地が悪かった。


 パジャマ姿のおれたちはどちらともなく互いに距離があいて、言葉数少なだった。

 やりかけの勉強道具を片付けるのさえ淡々として味気ない。


 時刻はもう、おれが廊下に出てはいけない時間帯になっている。


 3人のなかの誰かの部屋で眠るのは、なにげにはじめてことだった。

 綾と栞の場合はきまっておれの部屋に枕片手にやってくるのだけど、萌は自分のベッドにおれを招くことを選んだのだ。


 そのことが余計緊張を与えた。



「……ありがとうございました」


 自分のベッドに腰をおろした萌が、シーツに手を滑らせながら言った。

 しおらしく睫を伏せている。


 さっき栞にいわれたことを反芻しているのだろう。



「栞も萌を傷つけたいって思ってるわけじゃないよ」

「はい。それはわかってます」

「それに、栞に説得されても、おれは今日萌と過ごすつもりだったから」


 萌は顔を上げて視線を向ける。

 解いた髪が肩から胸元に滑り落ちるのが残像をともなって見えた。



「……葵さんも説得力がないって思いましたか?」


 少しだけあいた間に萌の躊躇いを感じた。

 けれど萌はおれに尋ねるのを止めなかった。



 ……説得力。


 栞は、萌の気持ちには説得力がないと言った。

 おれもそのことがまだ引っかかっていた。



「説得力……は分からないけど」


 嘘はつきたくない。

 けど、自分の気持ちを表す正しい言葉も実はよく分からないままだった。



「正直、どうしてこんなにおれを好いてくれるんだろうって、少しだけ思うよ」


 おれがそう答えると萌の瞳孔が開くのが見えた。



「栞と綾は、仲良くなったきっかけとか思い出とか、そういうのがあるけど、萌とはまだ、あまりないからさ」

「まだ、と言ってくれるんですね……優しいです」


 萌の瞳は憂いを帯びて濡れている。

 けれど、萌がこんなにしめっぽい表情をしているのに、萌の蜜みたいな甘い香りが脳に絡みついてきて、おれは動けなかった。



 萌とは去年の夏以来ちょくちょく会うことはあったけど、こんなに近くで接する機会はずっとなかったのだ。


 おれと萌は学年も学校も違うし、半年くらい父さんの大学の狭い官舎に住んでいて家に招くこともなかった。

 それに受験もあったから、なるべくおれを拘束しないよう遠慮だってしてくれたんだと思う。



 それほど長い時間を過ごしていないのに、萌は猛烈なほどおれを好きだと……言葉だけでなく身体でも伝えてくれる。


 脈絡がないとまでは言えなくても、どうしてそこまでという戸惑いがないでもなかった。


 きっとそれが、行動に気持ちがついてきていないと栞が感じてしまうことになったのかもしれない。



「……誰かを好きになるのって、エピソードがないとダメなんですか?」


 ぽつりとこぼれた声は、今にも消えそうな灯火みたいだった。



「一目惚れは恋じゃないんですか? 一夜で激しく恋に落ちちゃうことって、悪いことなんですか? どうすれば……葵さんにあたしの気持ちが伝えられるんですか」


 おれは縋るような切ない視線から目をそらすことができなかった。

 萌の小さなつぶやきは湧き出したら止まらくて、その一言一言が返答に窮するおれの足元を突き刺していく。



「感動的な再会とか、ドラマチックな告白とか、あたしには何もないじゃないですか。学年だって葵さんとあたしは1年違って、綾姉と栞姉は今年から同じ学校じゃないですか。あたしは……綾姉と栞姉がうらやましいんです。気づいたらあたしだけすごい出遅れてるのに、でも、どれだけ好きって伝えても、言葉だけじゃ絆は深まらないんです……」


 おれは初めて、萌の心の弱い部分を聞かせてくれた。

 はじめてだ、そうさせてしまったのは。


 ベッドの上で佇んでうつむいてしまった萌は、なんだか無性に弱々しく見えた。

 おれを籠絡しようとする大人びた小悪魔萌ではなく、ひとつ年下の女の子だった。


 ……正直、こんなことを言っている萌は見たくなかったし、言わわせてしまう自分が嫌でもあった。



「ベッド、行っても良い?」

「はい」


 萌の隣に腰をおろすとマットレスが沈む。

 パステルカラーのふわふわの毛布がのった布団が柔らかくへこんで、おれと萌は自然と引かれあった。


 そっと萌の頭に手を乗せると、子猫のような両目で見つめられた。

 息をのむほど綺麗で、はからずもしばし見惚れてしまう。



「……どうして好いてくれるのかって、そんなの決まってます。優しくて、かっこいいからです。綾姉や栞姉が落ち込んでいた時に颯爽とあらわれて解決しちゃうのに、気取ったところがぜんぜんなくて。葵さんは綾姉や栞姉とおなじくらい自分の魅力に無自覚です」


 ……綾や栞が困っていたのを助けられたのは、たまたまおれの手が届くところで問題が起きて、結果的にそれを解決できる力がおれにあったからだ。


 謙遜なんかじゃなく、全部たまたまだ。



 けれど、モデルのしごとをして他人の目線にどう映るのかを知って振る舞っている萌の言っていることにも、ひとつの真実があるのかもしれない。


 少なくとも、いま萌に異論を言うことは憚られた。



「おれも、どうすれば自分の気持ちが伝わるんだろうっているも思ってるよ。どうすれば、萌やみんなが疎外感を感じずにいてもらえるんだろう……喧嘩しないで仲良くできるのかって」

「あたしも栞姉と本気で争いがしたいわけじゃないんです。あたしは栞姉も綾姉も葵さんのことが好きでいてほしいんです」


 そう言って、萌は心細そうにおれの腕をとった。


 たわわに実った果実が左腕に当たって意識に火花が散る。

 が、今ばかりはその凶器じみた柔らかさをただ受け入れてあげるしかない。


 萌はただ純粋におれのそばにいたいだけなのだ。



「こうして触れあって、ドキドキしたいだけなんです……」


 なんとか平常心を保って髪を撫でていると、やがて安心したように目を細めて頭をあずけてくれた。

 本当に猫のように心を許して甘えている萌に、おれはひとつ提案をしてみた。



「明日からも、一緒に勉強するのはどう?」

「……いいんですか?」

「そのくらいだったら喜んでするよ。……おれ、3人も女の子から告白されたのなんてもちろん初めてだし、そのうえ家族でいるために返事もしないでいて、気の利いたことも、特別ななにかも、してあげられているかわからないんだ。だからせめて、家の中で萌といる時間をつくってみたいって思って」

「そんな。すごく……嬉しいです。ありがとうございます」


 もっと気の利いた発想があればと思ったけど、萌は見上げてくれた。

 そして力みのない笑みを見せてくれた。



 おれは気づけばつい手が伸びて、はらはらと揺れて乱れている萌の前髪にかき分けていた。


 切ない上目遣いでおれの指先を見つめているふたつの瞳は、透明な光を反映する宝石みたいで、どこか綾や栞と少し似ている。

 やっぱり姉妹なんだと思う。


 ……可愛い。

 死ぬほど可愛いのだ、萌は。



 その萌がほんの少しでもいつもの元気をとりもどしてくれたみたいで、おれはほっと気が楽になっていた。



「葵さんのひざの上で抱きしめられるの、すごい好きなんです。またしてもらえますか?」

「えっと、うん……でも」


 さっきのあれはやっぱり勉強じゃないような気がするけど……



「えっと……勉強に差し障らないなら」

「それから、やっぱり葵さんとキスしたいです。栞姉にしたみたいに」

「……」

「いまじゃなくていいです。みんなには絶対ひみつにします。ダメですか……?」


 そんな儚い訊きかたはずるい。

 しかも、栞への引け目をうちあけたこのタイミングは、おれが断れない。


 まさか、ここまでの流れを狙っていた、のだろうか?

 いや……まさか。


 もしそうだったとしたら、降参するしかない。



「……キスなんてされたら、本当に、萌のこと襲っちゃうかもしれない」

「そんなの……、のぞむところにきまってるじゃないですか」

「まあ、その……キスじゃなくて味見だっていうのなら。いつか、ね」


 結局萌に流されてそう認めてしまったおれは甘いのだろうか。

 ちょろいのだろうか。



 でもやっぱり、隣で心地よさげに頬ずりする萌を見ていると、心のどこかが穏やかになっていくのは確かだった。



















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 すみませんが、またしても執筆のストックが尽きてしまったので、来週の投稿もお休みさせていただきます。

 今回投稿したお話までで春休み中のエピソードはおしまいです。


 





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