#0103 朝食





 また早朝に目が覚めてしまった。


 すぐそばで寝息をたてている綾の肩をそっと叩いてみる。

 しかし、綾はまどろんだまま気の抜けた返事をするだけだった。


 まだ時間が早すぎたみたいだ。



 ……やばいなあ。超絶可愛い。

 ちいさく開いた薄桃色の唇に視線が固定されそうになる。


 気持ちよさそうに眠っている綾を起こしてしまうのはとても申し訳なくて、おれは自分の代わりに枕を抱きつかせて慎重にベッドを抜け出した。




 さて、翌朝の朝食はおれの担当だ。


 うちではずっと昔から朝食は白米を食べることが多かった。

 これはばあちゃんがごはんを作ってくれていた頃からそうで、今もおれが真似をしているのだ。



 栞も里香さんもまだ起きてくる前だったので、おれはひとりでキッチンの冷蔵庫の扉をひらく。


 昨日の夕食を作るとき、いっしょに魚を入れておいていた。

 ちょうど解凍されている頃のはずだ。


 献立は焼き魚だ。


 父さんが釣り仲間ととってきたクロダイがあって、そろそろ消費してしまいたかった。

 1尾が25センチくらいあるから一人分にもちょうどいい。

 おなかとうろこはあらかじめ取ってあるから、塩をふって火を通すだけだ。


 その間にごはんとお味噌汁、それからおひたしをつくる。



 ちょうどひととおりできあがる頃に、綾と、すこしおくれて里香さんと栞が起きてきた。



「こんなの絶対美味しいよ! 食べなくてもわかる」

「できれば食べてからも言ってほしいなぁ……」


 お皿の上をひと目見て栞は声を上げた。

 昨日の夕食のときも同じようなことを言っていたのでおれは苦笑する。



 魚が食卓に並ぶのが物珍しいのか、テーブルをみんなで(起きてこない父さん以外で)囲むときも栞は興味津々に質問をしてくれた。


「この魚はなんていうの?」

「クロダイ、だよ」

「あれ、昨日のお刺身で食べたのはなんだっけ?」

「昨日のはイナダとヒラメ」


 綾と里香さんも、箸を進めてくれた。



「味うすくない? お醤油あるけど」

「ううん。とってもおいしいよ」

「本当ね」



 ともかくみんなの口にあったみたいでほっとする。

 栞はごはんのおかわりまで要求していた。



「ごはんもおいしいわ。いいお米使ってるの?」

「ああ、これはいただきものなんです。うち昔は農家で、かなり昔からもうお米作らなくなっちゃったんですけど、田んぼだけはまだ持っているんです。近くに住んでいらっしゃる農家の方にお米作ってもらってて、毎年おすそわけしてもらってるんです」

「じゃあタダってこと?」

「ええ、まあ。そうですね」

「羨ましいかぎりだわ」


 食事をつくる人も食べる人も増えて、食卓にならぶ品もバリエーションが豊かになっている。


 おれの生活に彩りが増えている。

 それは確かだ。



 だけど、手放しで心を弾ませるには、もうひとつ大きな問題が残っていた。


 麗さんの食事だ。





 階段を登った先の突きあたりの扉の奥からは、不気味なほど物音がしない。

 麗さんの部屋からは引っ越しの日から人間の気配が感じられなかった。


 おれはその扉の前に、麗さんのための朝食を持っていかなければならなかった。



「イチゴおいしそう。いいな、麗だけそんなに」


 栞がうらやましそうにトレイを覗きこんだ。


 取り分けてラップをかけた一人分のお皿のほか、イチゴを1パック洗ってうつわに盛り付けてみたのだ。

 練乳もあったほうがよかっただろうかと今になって思い至る。

 買っておけばよかった。



「ごめんね。もう1パックあるから、あとでみんなで食べよう」

「えへへ」


 そう言いつつ、うつわから1粒口にいれてあげると、栞は嬉しそうに頬をほころばせる。


 イチゴのほかはみんなが食べた朝食と同じだった。

 お椀にフリーズドライのおみそ汁のパックと、お湯をいれた魔法びんも一緒にある。



「どうだろう、麗は食べてくれるかな……」

「美味しかったし、大丈夫だよ」


 ただ、昨日綾が用意した食事も夕方に下げられたときには半分以上が残ったままだったのを見ている。


 おれは不安を残したまま扉の前にトレイをおいておくしかできなかったのだ。




 夕方、おれは打ちのめされていた。

 廊下に下げられたトレイには、おれの作った食事がほとんど手つかずで残ったままだったのだ。



「き、昨日もぜんぜん食べてくれなかったから、心配だね……」


 廊下に立ち尽くして肩を落としたおれを見かねて、綾が声をかけてくれた。

 気遣って言葉を選んでくれるのが余計に心にしみる。



「口に合わなかったのかな。骨があると食べづらいのか、それともやっぱり、魚は食べてくれないのかな……」

「あ、葵くん……」


 お皿の上には焼き魚が丸ごと1匹残っている。

 身がすこしほぐされているだけで、ほとんど食べられてはいない。


 小鉢のおひたしはかすかに減っているような気もするけど……



 唯一の救いは、イチゴだけは全部食べてくれたことだった。

 果物は好きなのか、はたまたおれの手が入っていないと思ったからなのはわからないけど……



「ねえ、残ったやつボクが食べてももいい?」


 すっかり自信をなくしたままお皿を持ってダイニングに下がると、棒アイスを食べていた栞がおれのもとに来た。



「えっと……うん、いいけど。食べないと悪くなっちゃうし」

「やった。こんなおいしいお魚を食べないなんて、麗は惜しいことをするよ」


 お皿をひょいと受け取ってレンジへと向かう栞。

 このあと夕食もあるのに、躊躇いのない軽い足取りに、おれはすこし前向きな気持ちになれた。




 料理の当番は綾と栞との分担なので、麗さんの食事をつくるチャンスは3日後だ。


 それまでの2日間、ふたりのつくった料理を見て、おれにも生かせることがないか思考をめぐらせなければならなかった。

 反省と観察は次の日からはじまったのだ。



 どうやら、ふたりのつくる朝食はベーコンやソーセージ、オムレツが主体みたいだ。

 比較的麗さんも手を付けている。

 やっぱり、食べ慣れないものを押し付けるのは良くないのかもしれない。


 それに、1日に1度しか食事を取らない麗さんには、あまり朝食らしくないほうが良いような気もする。


 おれの願望もある。

 すこしでも精のつくものをとってほしい、じゃないと心配だ。



 そうして次におれが作った朝食は、焼肉だった。



「ごめん。よく考えたら朝から重すぎだよね……」

「全然平気だよ」

「うん。朝からこんなもの食べて良いのかなって」


 また食べてくれなかったらどうしようと、そればかり考えてしまって、献立を分けることに思い至らなかった。

 それだけおれは気が張っていたのだ。



 そして麗さんは、今度は半分ほど食べてくれた。


 その日の夜、おれは部屋の外に出された食べ残しを見たとき、安堵感に思わず泣きそうだった。


 麗さんは、おれのつくったものを全否定しているわけではない。

 受け入れてもらえる余地がある。


 それだけでも心底ほっとする。本当によかったと思った。



 新しいことに試行錯誤するのは、なんだか久しぶりだった。


 手さぐりりだけど、一歩ずつ上手くいく感触がある。


 今回も良くなかったところはある。

 お肉が冷めると、油が白く固まってしまうのだ。

 たとえ冷めても美味しく食べられるようにメニューを工夫しないといけないんだ。


 次はどうしようか。次こそは……




「……で、朝からオムライスですか」

「ははは……うん」


 さらに3日後、東京から帰ってきた萌はすこしぎょっとしていた。


「って、よく見たら玉子ふわとろじゃないですか!」

「ほんと。お店のオムライスみたい。手慣れてるのね」

「まあ、デミソースは買ってきたやつですけど。ケチャップよりも雰囲気出ますよね」


 もともと父さんのリクエストで半熟のオムレツはたくさん練習したことがあったのだけど、当の父さんは、出張疲れでまだ眠ったままだった。


 これが綾とか栞の朝食だったら、無理して起きてきているんだろうな……なんだかちょっと腹立たしい。


 ……父さんにはチキンライスだけ食べてもらおう。



 食べてくれた4人――綾、栞、萌、里香さんの反応は、3回めの朝食にして一番の好感触だった。

 栞は今日もおかわりをしてくれたし(これで父さんのチキンライスが無くなってしまったけど)、これならいけるかも、そんな手応えがあった。


 しっかりとイチゴも用意して、麗さんの部屋の前に置いておいたトレイは、昼下がりには下げられていた。

 トレイの中のお皿は、空っぽになっていた。


 ……やった。やった!


 思わず声を上げそうになった。


 麗さんがおれの食事を食べてくれた。完食してくれた。はじめて……!



 部屋の中にいる麗さんを驚かせてはいけないので声は出せなかった。

 けど、おれはぞくぞくと喜びが込み上げて、しばらくその場を動けなかった。



 これが、おれと麗さんとのファーストコンタクトの一部始終だ。




















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る