#0102 綾とおやすみ





 結局、栞となんとなくぎくしゃくしていたのはふたりでピアノにむかっていたあの時だけで、練習室を出て綾と夕食を囲む頃には栞との距離感は元通りになっていた。


 ただ、栞の視線が時折さびしそうに揺れているのが気にかかって、おれはピアノの話題もコンクールのこともそれ以上おいそれと口に出せないままだった。



「……ってことがあったんだ」


 夜、部屋にやってきた綾におれは栞とのことを話した。



 綾は少机を挟んですぐ向かい合わせで、おれが引いてあげた椅子にそっと佇んだまま聴いてくれた。


 綾が身にまとう空色のパジャマは、ガーゼ地で肌に優しそうだった。

 時刻はもう夜11時を過ぎている。



「……今日も、栞といっしょのほうが良かった、かな」

「ううん。綾にそこまで気を遣わせるほどじゃないと思う」


 今夜は綾といっしょに過ごす約束だった。


 邪なことは何もない。

 昨日の栞と同じで、並んで眠るだけだ。



「栞としたことは綾ともしたいし、しないといけないって思うんだ。誰かを贔屓しないって決めたから。でも、綾が嫌だったら」

「ううん。わたしは全然、嫌じゃないよ」


 ――キスはできないけど。

 そう付け足すと、綾は小さく笑みを返してくれた。


 それから綾は率直に教えてくれた。



「去年の夏の、栞がコンサートで弾いたとき、ステージの上だけじゃなくて、舞台裏でもずっとはしゃいでいたの。もちろん、葵くんが聴きに来てくれて嬉しかったと思うけど、でも、葵くんと会う前から栞は、ピアノを弾くことも大勢の前に出ていくことも好きだったよ。わたしも、栞のそういうところがかっこいいって思うし、応援したいんだけど……」


 おれは、できれば栞がまたステージで弾くところが見たい。

 コンクールという、他人と直接比較される場であれば、栞の実力は一層かがやいて見えるはずだ。



 けど、そんなおれの気持ちは、傲慢な一聴衆としての願望が多分に含まれているのかと思うと怖くなってくる。


 それをしおりに押し付けてしまうと、おれの大きな期待が栞を使役してしまうのではないか。



 おれが栞に望むのは、スターピアニストじゃなく、互いに支えあえる家族になることなのではなかっただろうか。



「栞も戸惑ってると思う。葵くんが気後れして、栞も遠慮しちゃうことってあるよ」

「そう、なのかな」

「葵くんは栞と練習してみて、どう?」

「……ただただすごいと思った。栞の引くピアノは精緻さもダイナミックさもおれなんかとはレベルが段違いで、なんていうか……、ゾクゾクして、誇らしくて、羨ましかった。こんなに弾けたら楽しいだろうって」

「わたしも……栞も、葵くんも、ふたりともわたしから見たらすごいよ。わたしなんて、合唱の伴奏だけでいっぱいいっぱいだったのに」


 綾の場合はピアノに触れなくなって久しかったのだから、むしろよくあの短期間でものにできたんだ……そう返そうと顔を上げると、朝露みたいな透明な瞳と目があった。



「わたしも、葵くんの気持ちと同じだよ、栞はわたしにとって自慢だから。きっと栞も、葵くんが応援してくれるのは分かってる。でも、栞はきっと、葵くんにもっと自信をもってほしいって思ってる」

「……そっか、そうだね」

「わたしは、葵くんも栞も、好きなことをずっと続けていってほしいって思う」


 綾と言葉を交わすうちに少しずつ、おれと栞は違うんだと、そう思われてきた。


 吉川先生が亡くなってから5年も経っているけど、仮におれがまだ習っていたとしても、センスの塊のような栞には到底及ばない。

 栞は日本中の同世代のなかで一番になっているんだ。


 おれはそのことに、変に劣等感を抱いて、栞から遠ざかろうとしていたのかもしれない。


 そんなの比べたって仕方がないのに。



 おれはひとつ息を吐いて、頭の中でひとつずつ言葉を整理する。



「こんなわたしの考えが、参考になればいいけど……」

「ありがとう、綾。よければ明日、綾の歌も久しぶりに聴かせてよ」

「うん」


 明日、おれから栞に声をかけてみよう。


 栞が気がねなく、好きなことをこれからも楽しめるように、結局はおれの気持ちを素直に伝えてみることが大切なんだと再認識したのだった。





「さ、そろそろ寝よう」


 手を差し伸べると、綾は腰を浮かせてこちらに歩いた。


 すらりと伸びたパジャマ姿の天使の、奇跡のように白い手がおれの手と重なった。



「明日はおれの朝食当番だから早く起きるけど、大丈夫?」

「うん。平気だよ」

「ごめんね。綾は眠ったままでいいから」

「ううん、その……わたし朝が苦手で、いつも早起きしてゆっくりしてるの」


 綾にそんなところがあるのか。


 綾は顔を赤らめて恥ずかしそうに目配せする。

 死ぬほど可愛い。



「綾も起きてくれるなら、また一緒に料理しよう。麗さんのこと、やっぱり綾がいてくれたほうが心強い」

「うん」


 そうおれたちは約束して、ひとつのベッドに向き合った。



「手前と奥、綾はどっちがいい?」


 これは昨夜栞に訊いたのと同じ問いだ。


 綾はと可愛らしく喉を鳴らして逡巡する。



「手前、かな。麗に何かあったときにすぐ起きれるほうがいいから」

「その時はおれのこと気にしなくていいからね」

「ありがとう」


 綾はそっと指を絡めてくれた。



「さあ、どうぞ」


 おれが先にベッドにあがって布団の端をめくってあげると、綾はそっと腰をおろしておれのベッドに入ってくれた。



「わ……」


 ベッドに入った綾は小さく身体を震わせた。


 栞のときとまったく同じ反応だった。

 女の子にとっても、やはり異性のベッドはドキドキするものなのだろうか。



「やっぱり、すごいね……それに葵くんもすっごく近い」

「綾、抱きしめていいよね」

「えっ、ええっ」

「ごめん。我慢できない」

「――――」


 おれは綾の返答を聞く前に胸いっぱいに抱きしめていた。


 力を込めたら折れてしまいそうな、繊細な身体つきだ。


 背中に回した手で絹糸みたいな髪をゆっくりと梳く。

 本当にさらさらだ。


 どこまでの神聖な清らかさが、おれの腕の中にすっぽりとおさまっていた。



 綾はおれの胸の上に頬と、鎖骨に額を触れさせて、すこしずつ身を委ねてくれる。


 安心したように息を吐く。

 その小さな吐息にも熱を感じた。



 綾の愛おしさが全身に注がれるようだった。


 昨日の今頃は栞とこうしていたなんて、今はもう考えられなかった。

 綾と栞と萌……家族のはずの姉妹へどうしようもなく心が引かれて、深い深い沼へと引きずり込まれている。



「……あ、葵くん」


 綾は小さく声を出す。


 パジャマ越しにおれと綾のひざが触れ合って、下腹部が擦れた。



「その、これって……」

「……うん」


 パジャマ越しに感じる綾の太ももの感触が鮮明で、おれは血液が沸騰しそうだった。


 こんなに触れ合っていたら生理反応が隠しようもない。


 この世のものとは思えない心地で、綾とひとつのベッドで抱きしめあっているんだ、否応なく身体が反応してしまう。



「すごい、ね。こんなふうになるんだ……」

「ごめん。嫌だったよね」

「ううんっ、平気だよ。でも……葵くんはその、大丈夫? こんなに腫れて、痛かったり、苦しかったりとか……?」

「大丈夫。なんていうか、腫れてるっていうのとはちょっと違うから」

「そうなんだ……こんなおっきいのが、……のなかに入るんだね……」


 綾の声はどんどん小さくなっていくので、おれは聞こえないふりをするのでせいいっぱいだった。


 そのうえ、おれと綾の間に押しつけあっているのはおれのものだけじゃない……

 綾のふたつのたわわな実りも、おれたちの間にはさまれて柔らかく潰れている。


 そのことに思い至った綾ははっと顔を上げる。


 視線が溶け合うと、綾は困ったように頬を紅潮させた。



「あの、えっと……」


 綾の呼吸にあわせて柔らかく形が変わっている。

 その胸の中で、鼓動が熱を持っているのが伝わってくる。


 このパジャマの下に、綾の……


 昼間の洗濯物のあの大きさが脳裏をよぎる。



「萌のほうがおっきいんだけど、わたしも、その……、まだおっきくなってるの。だから……」


 そう言ったきり綾はおれの胸に顔を押し付けてしまった。


 恥ずかしげに見上げる仕草が信じられないほど欲望をこみあげさせる。



 だから、の続きに何を言いかけたんだろう――

 いけない。これ以上よこしまな想像をしたら、抑えがきかなくなる。



 ……純粋な綾が、こんな男の喉元をくすぐるような台詞を口にするなんて。



 おれはいよいよ綾のことを放せななくなっていった。



















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 たくさんの応援をいただきましてありがとうございます。

 作者体調不良のため来週の投稿はおやすみとさせてください。


 





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