#0101 コンクールに出ない?





 急速な低音のトレモロの上を、右手の旋律が一拍ごとに急き立てる。


 目まぐるしい両手の交差。

 やがてトレモロは両手で重なり合って、ダイナミックな激流と化す。


 クレッシェンドの果てに、ハ短調の強烈な頂点。



 ピアノソナタ第8番『悲愴』第1楽章。グラーヴェ=アレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオ。


 ベートーヴェン初期の傑作ピアノソナタだ。

 若くてエネルギーに満ちあふれた楽想は、星のような輝きの栞の音にこれ以上無いくらい似合っていた。



「どう?」


 里香さんのピアノで弾き終えた栞が満足げにおれを振り返る。


 火照った頬はつややかで、首筋には玉のような汗が流れている。



「葵?」

「……ごめん。言葉がみつからないくらいすごかった」


 おれのありきたりな感想に栞の笑顔はさらに華やいだ。



「葵に聴かせるために練習したんだ。でも葵のバッハだって、どうやったらあんなふうに上手く弾けるんだろうって思う」

「おれに弾けることなんて、栞ならすぐにできるよ」


 栞は指回りの精度が全然ちがう。

 ショパンやリストやベートーヴェンの難曲を鮮やかに弾ききってしまうのだ。


 おれがずっと弾いてきたバッハの多重旋律も、このテクニックの前では所詮小手先なんだろうと思わされる。



 暖かな昼下がり。

 おれたちは新しくなった練習室でお互いにピアノを弾きあっていた。


 人前の演奏では決して見せない、日課のエチュードから栞は披露してくれた。


 細切れのスケール、アルペジオ、同音連打、重音――はじめは右手、それから左手と、まるで時計の針をあわせるように丹念で丁寧に指の調子を整えたあとで、満を持して弾いてくれたのがベートーヴェンの『悲愴』だった。


 家のピアノとは思えないほどの推進感だった。


 里香さんの持ってきたピアノはずいぶん派手に鳴るというのもあるかもしれない。とても弾きやすそうだ。



 ごきげんな様子で身体を揺らす栞に、おれはずっと訊いてみようと思っていたことを口にしてみた。



「栞、今年の音コンに出てみない?」


 栞はぱちくりと瞬きをしてソファのうえのおれを見つめ返した。



「音コン」

「そう。知ってるよね?」


 全日本音楽コンクール、通称音コン。

 日本のクラシック関係者なら誰もが知る、ピアノ・声楽・弦楽器・管楽器・作曲の各部門からなる日本最高峰のコンクールだ。


 ことピアノ部門に関しては、主催の新聞社の業績悪化のあおりをうけて、日本の2大コンクールと言われた別コンクールと統合したばかりだ。

 それによって今、名実ともに日本最高峰となっている。


 そして音コンは今年、第100回を数える。

 記念大会になるから大きな注目を集めるだろう。



「いまの栞の実力ならかなり良いところまでいけると思うんだけど……」


 栞はとまどったように黙りこんでしまっていた。

 視線を左右に彷徨わせて、力なく両手を膝の上に落としている。



「葵はボクに出場してほしいって思う?」

「それは、うん」


 そう思うから勧めているんだ。

 絶対入賞できる。


 ただ、準備には時間がかかるはずだ。

 予備予選は7月、本大会は東京で10月だから、なるべく早くレパートリーを用意しないといけないだろう。



「……出る理由が見当たらないんだ」


 栞は視線をあげずにそう言った。


 声色はくぐもっていた。

 今さっきのベートーヴェンの高揚感がすうと引いていくようだった。



「今までピアノを弾いてきたのは、いつか葵と会えるまで繋がりがほしかったからなんだ。でも、葵とこうして再会できて、もう目的は果たされちゃった気がするんだ」


 そう打ち明ける栞の瞳は、照明のオレンジ色を反射して不安げに揺れていた。

 栞は戸惑ったようにおれを見つめた。


 両腕を真っ白な膝の内側に滑らせるのがひどく艶めかしく見えた。



「音楽はもちろん好きだ。だけど、こうして葵と戯れて、葵に聴いてもらうだけで満足なんだ。ボクは……プロのピアニストになりたいんだろうか」

「それは……」


 おれは栞の並外れた腕前を知ってしまっている。

 コンクールという特別な舞台の上で見てみたいと、素朴に思ってしまう。


 でも、それを強いるのはきっとひどいわがままだ。



 日本中のピアニストを志す猛者たちが、ひとつの檜舞台の上で競い合うコンクールだ。

 そこ立って、期待と重圧に晒され、耐えてくれとお願いすることだ。


 いや、コンサートピアニストは一生悪意と紙一重の期待に応え、上回る強さを求められる、残酷な生き方だ。


 栞はピアノに関して天才だと思う、けど、同時にひとりの女の子だ。

 栞の人生だから、ピアニストになかどうかをおれが決めることはもちろんできない。


 そのうえで、栞と大切な家族になっていつでもそばで演奏を聴ける、それ以上を望むのはあまりに酷なのではないか……と思い至る。



「葵は、コンクールに出ようとは思わないの?」

「おれは……おれなんて、吉川先生が亡くなってから5年も、誰にも習っていないから、そもそも実力が見合ってないよ」

「ボクだって、葵の演奏はもっとみんなに聴いてほしいんだ。それなのにボクだけコンクールに出るなんて……気乗りしないよ」


 栞が口を閉ざすと沈黙が下りてしまう。


 おれも言葉が続かなかった。

 心情的にはやっぱり栞には出てほしいし、おれが出場しても場違いなだけだし……

 それを繰り返しても栞が気後れしてしまうだけだった。



「そ、そうだ葵っ」


 栞がピアノ椅子から立ち上がる。

 意図して声を明るく弾ませようとしていた。



「せっかくピアノが2台揃ってるんだ、2台ピアノのための曲を弾いてみたいんだ」


 そう言いながら奥の壁に並んだ本棚に立ち寄って、里香さんの蔵書の一角から楽譜を引き抜いていた。


 紺色の表紙にMOZARTモーツァルトの文字。

 その曲は……



「葵も知ってるよね?」


 おれは頷く。有名な曲だ。



「よかった。弾いてみようよ」


 栞はぱっと笑顔を取り戻して、おれに楽譜を手渡す。

 新品だ。おれと弾くために2部用意したのか。



「弾くって、今から?」

「うん」

「……これも、おれと弾くために練習してたとか?」

「え? そういうわけじゃないけど、でも、このくらい単純な曲なら初見で」


 栞はさっとおれの前を通り過ぎてピアノの前に楽譜を広げると、細い両腕を躊躇いなく振り下ろした。


 気持ちいいほどのフォルテでニ長調の和音が響き、ブリリアントなトリルがそれをまくしたてる。

 伸びのあるアレグロの旋律を華やかな分散和音が飾り立てる。



 ――モーツァルト 2台のピアノのためのソナタ K.448 第1楽章。


 モーツァルトの2台ピアノなんてほぼこの曲1択だ。

 しかし、どこが「単純な曲」というんだ。


 栞は第1ピアノパートを鮮やかに弾きこなしていた。

 はじめて栞に怖いという感情が湧いた。


 ありえない、この速い楽章を初見で……?


 たしかに栞は時折譜面を見ているようだけど……


 提示部を弾き終えると栞は鍵盤から手を離してこちらを振り返った。

 笑顔が戻っていた。

 やっぱりピアノを弾いている時の栞は、特別に生き生きとしていると思った。



 栞の視線が待ちこがれたように、おれにそこへ向かうよう促している。

 2台並んだピアノのひとつがが空席のままだった。



「……ごめん、できないよ」


 おれは声が掠れた。

 栞がせっかく重い空気を振り払おうとしてくれたのに、それを台無しにしてしまうのが不甲斐なかった。



「おれは栞みたいにうまく弾けないんだ」

「……葵」

「ほんとに、ごめん。練習して弾けるようになったら、でいいかな」



















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