#0100 綾の朝 (3)





 新しい生活がはじまってまだまだ時間が経っていないけれど、些細な変化はたくさんあった。


 たとえば、トイレ。


 1階にもともとあったトイレも最新式の設備に置きかえられて、空間が新品の明るい清潔感にあふれている。


 そして、入口脇の片隅の床に、見慣れない小さなボックスがある。

 蓋の継ぎ目からはビニール袋の端がすこし覗いてみえる。


 父さんと暮らしていた頃には、こんなものは無かった。



 ……なるほど。これが、噂に聞く。


 一応知識としては知っていたから、これが何かを察することはできる。


 けれど、少なくともおれが物心がついてから、こうして目の前の現実として接したことははじめてだった。


 いつものトイレの風景に異質なものが紛れ込んでいる、この奇妙な実感。

 まるで映画の宇宙人のような、生々しさが纏わりついているようだ。



 女の人と暮らすというのはこういうことなんだ。


 おれはこの小さくて極めてデリケートな物体には決して手を触れまいと心に誓うのだった。






 扉を閉じると、廊下に電子音が鳴り渡った。



「洗濯、おわったみたい」


 リビングのほうから綾がやってきた。

 おれはもっと長い時間トイレに籠もっていればよかったと後悔した。



「おれも手伝っていいの?」

「うん。お願い」


 そんな、100パーセント純真可憐なお願いをしないでくれ。

 おれはどう反応したらいいんだ。


 引きつった笑みを顔に貼りつけつつ、綾のつれて脱衣場に入った。



 脱衣場の一角を占めるドラム式の洗濯機は、つい今しがた動きを止めたところだった。


 手前には白いカゴが2つ並んでいる。

 1つは空だ。



 ――麗さんがこの家にやってくる直前、みんなで洗濯物についてすこしはなしあいがあった。


 というのも、父さんの洗濯物を分けてほしいという申し出が綾と栞と萌の3人からあったのだ。



「本当にごめんなさいっ」


 両眼に涙をためた綾にこう言われた父さんは、愕然としていた。



 年頃の女の子で、ましてや血の繋がらない男が相手なら、家族だと理解していても生理的に受け入れられないラインが出てくる。

 それは父さんも分かっていたと思う。


 けれど、天使のような綾にこう拒絶されたことに深く傷ついていた。



 なんだか父さんが可哀想だ。

 そう思って気遣ったのが良くなかった。



「……おれのぶんも、分けたほうがいいよね」

「「「葵 (くん)(さん) は平気だよ (なのっ)(ですよ)」」」


 父さんがおれに向ける視線がどんどん恨めしそうになっていくのに、とうとう里香さんは笑いをこらえきれなかった。



 ……と、こんなやりとりがあり今回しているのはおれと綾たちの衣服だ。


 結局、おれたち子供と、父さん・里香さんの大人とで分けることにしたのだ。

 大人組の洗濯物はカゴに残っているけど、夜に里香さんが洗濯機にかけてくれるだろう。



「乾燥にかけちゃいけないのがあるんだよね」

「うん。洗濯が終わったら取り出して、干しておいてほしいの」

「あ、扉開けるのはここのボタンだよ」


 綾がおれに来て欲しがったのはやっぱり、女性ものの勝手が分からないおれに教えてくれるため、親切な気持ちからなんだけど……


 それはおれが手を触れていいものなのか。

 どうしても気が引ける。



 だけど、目の前で身をかがめて洗濯機の中に手を入れる綾に洗濯を押しつけてしまうのも申し訳ない気がする。


 せめて空いているカゴを手元に持ってくるくらいのことしか身体が動かない。



「乾燥機にかけると縮んじゃうものは、ハンガーにつるしてほしいの。合成繊維は縮みにくいんだけど、綿とか麻とかだと縮みやすいから」


 これと、これと、……と綾はなれた手で服を取り出していく。


 ほとんど全部じゃないか?

 女性ものの服で残ったのはポリエステル時のシャツくらいだ。


 何も考えずに乾燥機に放り込んでいた我々男性陣がいかに大雑把であったかを思い知らされる。



 服を干すところは、裏庭に出る勝手口の前のスペースにある。

 屋外にも物干し台があるけれど、もう少し春が濃くなった季節にならないと洗濯物が凍ってしまう。


 綾と手分けしてハンガーに服をかけていった。



「洗濯ネットに入ってるものは全部、かな」


 そう言ってファスナーを開き、綾が取り出したのは真っ白い肌着だった。


 袖がなくて、方のところが紐になっている。

 キャミソールというものだ。


 薄い生地を丁寧に広げて、はい、とおれに手渡す。

 すべすべで、わずかに湿った手触りにドキリとする。


 綾はもうひとつ同じようなものを手に持っていた。



「カップがついてるのは裏返して星て欲しいの。ほら、ここだけ厚くなってるでしょ?」

「ああ、うん」


 カップ、カップか。


 単語の意味が飲み込めなくて何度も頭の中を巡った。


 指先の感覚が敏感になっていく。

 致命的な箇所に触れてはいけない、ような気がする。


 肩紐のところだけをつまんで、ぎこちない手つきで裏返そうとしているうちに服は捻くれてこんがらがってしまう。


 解こうとした知恵の輪が、元の状態にももどせなくなってしまうようだ。

 服の構造がよくわからない。




「あれ」

「あ、これはね……」


 綾はおれのてから優しくキャミソールをとって、器用に絡まりを解きほぐして裏地を表にひっくり返す。


 ハンガーにかけると、曲線の丘に縫い付けられた厚手の生地に否が応でも性差を感じさせられる。



「ごめん。ありがとう」

「ううん。ちょっとしたことでも慣れてないことがあるって面白いね」


 綾はくすりと笑ってくれた。

 男子のおれへの恥じらいはあまり感じられない。


 おれだけが内心緊張してしまっている……綾は案外このくらいは気にしないのだろうか。



 カゴに残った量もだんだん少なくなって、あと2つになった洗濯ネットのファスナーをおそるおそる開いた。


 そろそろ来るはずだ。



「…………は?」


 純白のブラジャーだった。


 いや、ここにこういうものがあるということは予想できていた。


 ただ、とんでもない大きさだったのだ。

 理解ができなくて思考が止まる。



「あ、それは……その、萌の、だよ」

「……萌の」

「うん」


 おれが固まっているのを見て、綾もみるみる顔を赤らめてうつむいてしまう。

 やはり、これは意識してしまうのか。



 慎重にホックの留め金をつまんで持ち上げると、目の前に巨大な山がふたつ下がっていた。


 裏側のタグに、どうしても目が吸い寄せられる。

 想像もしないアルファベットが書いてあった。


 普段着姿の萌からも相当なものだとは思っていた。

 けど、この大きさは……カップが覆っている部分というのは、地球儀で例えたらせいぜい太平洋くらいの表面積だ。


 覆っていないところまで考えたら、ソフトボールくらいの大きさがないだろうか。


 あのおっぱいがこの布地に触れて支えられて……いけない、それ以上の想像は危険だ。


 よこしまな意識をするのはやめないと――



 ネットにはまだいくつも下着が入っていた。

 どれもが大きい。


 このどれかが綾のもの、なんだよな……


 まさか訊くわけにもいかないけど、そういうことだ。

 綾も栞もしっかり発育しているんだ。



 じっとりとした熱がおれと綾の間に居座っていた。

 その綾は、無言の最後に残ったもうひとつつのネットから中身をとって、洗濯ばさみにかけているところだった。


 揃いの白いレース地だ。

 ということは、ショーツ……


 ――股のところってそんなに細いの?


 あまりにも頼りないその幅に、いけないと気づいてはいても、視界に入ってしまう。


 こんなに小さなパンツを、女の子は当たり前に身に着けているんだ。

 そうだ、綾のものもこういう……



 目の前の綾の、その姿を想像しただけで脳裏が焼き付くようだった。



















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 今回で通算100話です。

 いつもお読みいただきありがとうございます。

 




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