#0099 綾の朝 (2)





 それからすぐ萌と父さんは出発した。

 2人を送迎する里香さんも、その足でお仕事へと向かった。



「ごめん。ボクはちょっと部屋で休むよ。まだ朝の……余韻が残ってて」


 栞はもじもじしながらひとりダイニングを出ていった。

 ……なにかを隠しているのだろうか。


 残ったおれと綾に、すこしだけ気まずい空気がただよった。



「……それで、麗さんの食事だよね」

「う、うん。そうだね」


 気を利かせておれが話をふると、綾ははっとした。




 一人分を残してとっておいていた朝食をお皿に盛り付けてラップをかける。

 トレイにお皿と、バターロールと、ウーロン茶のボトルをのせて、2階への階段をのぼった。

 おれはダイニングチェアをひとつ持って、綾の後ろについていった。



 階段をあがった正面が麗さんの部屋だ。


 扉のすぐ脇にチェアをおいて、綾はその座面に食事ののったトレーをのせた。


 こうしておけばいずれ麗さんが部屋のなかで食べてくれるのだと、綾は教えてくれた。



「できるだけはやく食べてほしいね。じゃないと、せっかく綾が作ってくれたのに冷めちゃうよ」

「それだけは仕方ないよ」

「今日はパンだけど、もしこれがお米のご飯だったら保温しておかないと硬くなっちゃうし。色々考えないと……」


 せめて、電子レンジが使えたら温められるんだけど。

 いっそ麗さんの部屋用に1台用意してみたらどうだろう。


 あとで父さんに相談してみようかな。



 ……綾が不安げに見つめていた。



「ごめん。色々考えちゃってた」


 おれは笑って、ここまで教えてくれた綾にお礼を言った。


 なんにせよ、今朝のひと仕事はこれでおしまいだ。

 麗さんが食べ終わったあとを見計らって食器を下膳すればいい。



 家族が7人もいれば料理する量も多いけど、いまは大変さよりもはるかに期待のほうが勝っている。



「綾はこのあとどうするの?」

「このあと?」

「なにか、予定とか」


 朝早かったおかげで正午までもまだかなり時間がある。


 せっかく生活が始まったばかりなのに、二度寝してしまうのも勿体ない気がする。


 家での役割分担を決めたいけど、栞はいま休んでしまった。

 かといって、おれたちだけでなにか家事をしようかと思っても、今は家中がピカピカだし、あとは洗濯をするくらいだろうか。



 綾も可愛らしく考え込んでいる。



「じゃあ、ふたりですこしゆっくり過ごそっか」


 おれがそう提案すると、綾は花の咲きこぼれるような微笑みをくれた。






 おれはキッチンで紅茶を淹れてから、綾を部屋に招いた。


 他愛無い会話も交えながら、やっぱり話の中心はこれからの生活のことが中心だった。


 さっそく明日、麗さんのご飯をおれが用意してみたいと言ってみたら、麗さんが許してくれるか綾からあとで訊いてみてくれることとになった。


 それから、今はまだ入学前の春休みだけど、学校が始まったらお弁当も用意しないといけない。


 時計を見ると、もう家を出て学校に向かっている時間帯のはずだった。

 蓬高校は市内にあるから電車通学になる。


 晴れてる日は、川向うの駅までの道のりを自転車に乗っていくのが良いだろう。

 そうなると、自転車も新しく買わないと行けない。



 自然と、これから入学する高校のことに話が及んで、小机で紅茶を飲み終えたおれと綾はデスクに向かっていた。


 脇にある棚には新品の教科書がずらっと並んでいる。

 先日合格したばかりの綾と栞も、さっそく市内の書店に同じものを購入しに行ったようだ。


 おれは推薦で2月の頭に合格が決まっていたから、新入生用の課題はとっくに終わっていて、今は教科書の予習をしているところだった。


 そんな説明を聞きながら、綾は羨ましそうに眺めていた。



「部活、何処かに入ろうとか決めてる? 調べたら、いっぱい数があるみたいだよ」


 デスクのPCでウェブブラウザを開きながら訊いてみた。


 蓬高校のホームページ。

 部活動一覧。

 文化部、運動部、同好会。それぞれ10以上はある。


 僻地育ちのおれからしたら、もうこの数だけで想像ができない世界だ。


 毎日の放課後にこれだけいろんな活動が校内でされているのだ。



「決めてるってわけじゃないけど……」


 綾は唇の動きを止めて、言うのをちょっとためらった。

 目が合う。

 細い眉が儚げに弧を描いている。



「合唱部に興味があるの」

「そっか、綾はあのあとも歌の練習してたんだよね」

「うん。左沢さんにお願いして、中学校の合唱部の練習に混ぜてもらってたの」


 本当は3年生は引退したあとだから、大会とかには出られなかったんだけどね、と綾は恐縮したように付け加える。


 全然大したことないと綾は言うけれど、受験を控えた3年生で新しいことを始めることは、なかなか勇気のいることだと思う。



「蓬高校にも合唱部があるみたいだから、またやってみたいって思う。けど練習が厳しかったりするのかな……中学校のは全然そんなことなかったんだけど」


 部活動の一覧表にはたしかに「合唱部」の文字がある。

 けれど、吹奏楽部や野球部みたいな扱いの大きな部活には用意されているような、個別ページへのリンクは無い。


 蓬高校のなかでは、そこまで大きな扱いがされていないのだろうか。


 合唱はひとりでできるものではないのだから尚更、綾にとって過ごしやすい雰囲気であってほしい。

 すこしでも情報があればいいのだが。



 もう少し調べてみようと思って、ブラウザの検索窓に「蓬高校 合唱部」と打ち込んでエンターを叩いてみる。


 検索結果は今しがた閲覧していた蓬高校のサイトのほかは、せいぜい合唱連盟の加盟団体一覧くらいだった。

 SNSのアカウントも無いみたいだ。


 演奏会のプログラムや写真とかが見つかればと思ったんだけど……


 動画検索に切り替えてみても、蓬高校でヒットするのは他の部活のものばかりだ。

 ボートに吹奏楽、演劇……、ひと目見て凝った新歓PVが並んでいるけれど、合唱は無い。



「吹奏楽のほうが、やっぱり人気なのかな。強豪だってテレビでも見るから」

「綾は吹奏楽には興味ないの?」

「……楽器は自信がないよ。きっと、中学からやってた子が多そうだし、その、なんだか怖そう……」


 おれは吹奏楽には明るくないけれど、たまに新聞の地域欄でも演奏会の記事を見かけるから、蓬高校の吹奏楽部は有名なんだろうと思う。

 綾の中学のクラスメイトにも憧れて演奏会を聴きに行っていた子がいたという。


 検索してみると、去年は全国のコンクールで金賞を貰っているらしい。


 もうずっと連続で全国大会に出場している。

 なるほど、これは強豪校だ。



「葵くんは、吹奏楽やってみたい?」

「興味はあるけど、おれも初心者だから、吹奏楽だけで手一杯になっちゃいそうな気がする」


 おれがそう言うと、綾はほっと口元を緩ませていた。


 ピアノも続けたいし、勉強もしたい。

 なにより率直に、綾があまり乗り気でない以上、おれひとりが吹奏楽をはじめて新家族と一緒にいる時間をへらすのは抵抗感があった。



 でも、自分がやるかどうかは別にして、一回くらいはみんなで聴きにいってみたい。



「……合唱にもコンクールって、あるんだよね」

「……そうだね。ある」


 綾がつぶやくとおれもすぐに気づく。


 NHK全国学校音楽コンクール。通称Nコン。

 毎年テレビで放送されているのは、おれでも知っている。


 そして、去年の夏休みに綾と特訓をした『言葉にすれば』も、元はNコンの課題曲として作曲されたことを思い出す。



 蓬高校の合唱部がコンクールに出た記録が上がっていないだろうか。

 テレビ局がやっているから、きっと情報がたくさんあるはずだ。


 映像がなくても曲目がわかるだけで、どんな活動なのかきっと想像できる。


 そんなひらめきで、もういちどキーボードを叩いた。


 Nコンのホームページ。

 トップページには大きく今年の課題曲の歌詞が紹介されている。

 どうやら男性のアイドルが作詞者らしいけれど、今はそんなことはどうでもいい。

 サイドバーのメニューから、過去のコンクール記録のページに飛べた。


 綾もじっとスクリーンを見つめていた。



 過去3年分、予選からの音源や映像を遡れるみたいだ。


 昨年度の高校の部、秋田県大会。

 出場校一覧に蓬高校の名前は無かった。


 一昨年もさらにその前の年も、蓬高校の名前は見つからない。

 そもそも秋田県大会の出場校は2校か3校しかない。



 無意識に止めていた息が、ため息になった。


 綾は残念そうに口を噤んでいた。

 肩を落とす、ほど目に見えてではないけれど、あてが外れたのは無念だろう。



「……入学してから、見学にいってみようよ。どんなことをしてるかは実際に見てみるのが一番だよ」


 おれが諦めたように言うと、綾は小さくうなずいた。



 それから後も、おれたちは何か思いつくたびに、蓬高校合唱部の活動の痕跡を見つけようと色々調べていた。

 が、結局その全部が不首尾に終わったのだった。




 高校の部活動一覧にあった小さな「合唱部」の3文字は、部が確かに存在することを認識するにはあまりにも頼りない情報で。事実、おれたちはその名称で呼ぶのは不正確だったことを後で知ることになる――



 綾が「彼女たち」と出会うためには、入学を待つほかなかったのだ。



















 




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