#0098 綾の朝 (1)





 部屋を一歩出ると空気が冷たく張りつめていた。

 深夜にまた雪が降っていたようだ。


 時季外れの寒波がやってきているらしく、もうすぐお彼岸というのにこんなにまとまって雪が降るのは割りと珍しいことだった。


 階段の窓から外を覗くと、曇り空からぼんやりと朝の光が射していた。



 階下のダイニングには先客の後ろ姿があった。



「おはよ、綾」

「葵くん」


 冷蔵庫の中を覗いていた綾は幸せそうな微笑みをうかべて、朝のあいさつを返してくれた。


 石竹色の部屋着を身にまとった天使だった。

 ここだけが春の庭のようだ。



「朝、早いんだね」

「じつは朝はちょっと苦手なの。でも、萌と一史さんの飛行機もあるから、いつもより早く朝食つくらないと」

「里香さんもまだ休んでる?」


 綾は頷く。


 なんどなく萌は早起きではないイメージがある。

 父さんは……言うまでもない。



 袖から伸びた白い手が冷蔵庫の扉をぱたんと閉じる。



「栞は?」

「ああ、うん。えっと」


 なんて説明しよう。


 寝惚けて、おれが横にいることにびっくりして。

 ……なんてありのままを綾に話すのは気恥ずかしいし気まずい。



「少し落ち着いたら下りてくると思うよ」

「そっか」


 綾の表情がほころんで、ぽつりとつぶやくのが聞こえてしまった。



「ふたりきり、だね……」


 ためらいがちな上目遣いで見つめられる。

 ほんのりと期待の混じった目線だった。


 視線が絡まって心臓が跳ねる。



「良いよ。おいで」


 自然体のまま両腕を広げてみると、綾は引き寄せられるように一歩ずつおれのもとへやってきた。

 ういういしい足取り。



「ん……」


 綾はおれに身を預けるとそのまま目を閉じてしまう。


 繊細な身体を抱きしめる。

 綾もおそるおそる腕を背中に回してぎゅっと抱きしめ返してくれた。



 召天されてしまいそうな心地よさだった。



「栞の匂いがする……」


 腕の中で綾が口ごもった。


 頭をそっと撫でると、無垢なお花の香りがいっぱいに広がる。


 寝起きらしい乱れも癖もなにもない、なめらかな髪。

 いつまでも触っていたい。



 綾は堪えられなそうに視線をあげた。


 ぼうっとした目でおれの唇を見つめる。


 おれも目を奪われてしまう。

 まだキスの味を知らない綾の唇が濡れている。


 おれが訪ねるのを焦がれたように、小さな隙間があいている。



 いけない。

 それはいけない。


 それは一線を超えることだと、昨日みんなの前で宣言したばかりだ。



「まって、それはダメだよ」

「……」

「ね? 綾」

「……葵くん」


 とろんと溶けた瞳がおれを見つめていた。


 にわかに体中の血液が沸騰しだす。

 だめだ、滅んでしまいそうだ。



 その時、階段を下りる足音が聞こえてきた。


 きっと栞が部屋を出たんだ。

 綾がはっと息を吐くのがわかった。


 どちらともなく夢から覚めていくように腕を離していった。

 指の間からするすると髪が解けていくのがなんだか勿体なかった。


 綾は頬が火照ったまま目を伏せた。

 正気にもどっていたみたいだ。



「お、おはよう。ふたりとも」


 廊下から姿をあらわした栞は、なぜか気まずげで落ち着かない様子だった。。

 声が上ずってぎこちない。


 それを見た綾は何かを気づいたのか、少しそわそわしだす。


 おれには何のことかわからなかった。






 ふたりは部屋着のうえからエプロンを着けていた。


 おれは戸棚からややコンパクトなフライパンを取り出した。

 くすんだ色の鉄製で、うちでずっと使っているものだ。



「ふたりは使い方わかる?」

「わかるよ。中華鍋で料理したりするんだ。綾も、ボクが使ってるところ見てるからだいたい知ってるよね?」

「うん」


 そういえば昨日この家に大きな中華鍋が運び込まれていたっけ。

 あれは栞のものだったのか。



「まず油をひくんだよね」

「そうそう」


 コンロに火を入れて、オイルポットから面に油を垂らす。


 鉄のものは手入れは少し手間だけど、十分に油を鳴らしておくと全然焦げ付かなくなる。

 それに火力がよく伝わるのが良いところだ。

 お肉もお魚もこんがりと焼ける。



「うしろから見られると緊張するね……」


 コンロの前には綾が立っていた。



「いつも朝食はどんな感じなの?」

「朝はパンと、卵を焼いたりとかかな」


 綾たちの朝食はたいてい洋風らしい。


 綾の手つきは遠慮がちながらも迷いがなくて、手慣れているのがよくわかった。


 冷蔵庫にあったソーセージやベーコンを焼いていく。


 手のあいたおれと栞はサラダ作りを手伝うことにした。

 野菜を洗ってからトマトに包丁を入れ、ちぎったレタスに、水菜に、きゅうりに、紫たまねぎもスライスして加えた。


 7人分の野菜は見だけで健康になりそうだった。



 冷蔵庫の中身はひととおり把握しているので、滞りなく調理は進んでいた。


 ただ、その隣に独立して鎮座している冷凍庫の中身もあとでふたりに説明しないといけなかった。

 父さんが釣ってきた大量の魚とか、近所の人たちからもらったブルーベリーとか、秋に軒先につるしてつくった干し柿とかが詰め込まれてカオスになっている。


 そのほか調味料や食器やお米の場所は、料理のあいだにふたりに教えていった。



「栞は目玉焼き、萌はスクランブルエッグが好きなの」

「葵はどっちが好き?」

「どっちでも。でも、おれがよく作るのは目玉焼きかな」


 綾は微笑んで、冷蔵庫から卵を取り出す。

 どうやら目玉焼きをつくってくれるみたいだ。



 集めに輪切りにして中をくり抜いたたまねぎをフライパンにのせて、輪になった中に卵を割り入れる。

 コショウをふって蓋をすると、ものの1分ほどで可愛らしい目玉焼きができあがった。



「なるほど。面白いね」

「うちではいつもこうやって作ってるの」


 声をかけあって、お礼を言い合って、いい匂いも漂って。

 それだけでとても心地よい感じがした。



 もう盛り付けというところで、2階の廊下からにわかに足音がした。

 なにか大きな物音もする。



「萌、起きたみたい」


 綾が苦笑いをしていた。



「パンも焼いてあげよっか」

「だね」


 綾が丸パンをオーブンレンジにセットするタイミングで、ダイニングにひとりが入ってきた。

 萌ではなく里香さんだった。



「おはよう~」


 袖に隠れた手をあててあくびをするしぐさは子供みたいだ。



「悪いわねえ、こんなに早起きさせちゃって。ちゃんと休めてる?」

「はい。キッチンの説明がてら、せっかくなのでみんなで朝ごはんを作ってたんです」

「お母さん、お酒の空き缶はある?」

「しまったわ。部屋に置きっぱなし」


 綾が訪ねると里香さんは顔をしかめた。


 どうやら里香さんは昨夜、2人分の缶を手に部屋に戻ったのだとか。



「あなたのお父さん、秋田県民にあるまじきお酒の弱さね。チューハイ1本でゆらゆらするなんて」

「父さんはまだのびてますか?」

「ええ。まだ寝かしてるわ」


 しかし父さんが起きてきたのはわずかにその数分後だった。


 父さんは里香さんが豆を挽いて淹れたコーヒーだけを飲んで、くしゃくしゃの寝癖のままスエットの上からダウンを着て玄関に出ていった。


 このあと里香さんが萌と父さんを空港まで送っていくことになっている。

 車を出すために車庫の除雪をしないといけなかった。



「雪やんでよかったですね、この天気なら飛行機も飛べそうですし」

「それはそうと、あの子は部屋で何をしているのよ」


 朝食も摂りおえた里香さんは、頭を痛めながら2階へと乗り込んでいった。

 萌があわただしく1階に下りてきたのは、お皿を片付けようとしている時だった。



「もう、こんな時間じゃない。なんで昨日のうちに荷造りしていないのよこの子は」


 先に下りてきた里香さんは、巨大なキャリーケースを抱えていた。



「そんな大きい荷物、何が入っているんですか……」

「服に決まってるじゃないですか」


 里香さんの後ろから萌が声を弾ませて登場した。


 ボルドーのダッフルコートにロングマフラーを巻いて、長いグローブ、ニット帽の姿だった。



「……ほんとに寒がりなんだね」

「そうですよ」


 萌は不服そうな目を向けた。

 しかし、東北ここならともかく3月の東京には重装備すぎないだろうか?



「あたし、まだまだ温めたりないんです、葵さん」


 そう言って萌はおれの手を取る。

 グローブの先から出た指先が金属のように冷たい。


 明け方の寒さで身体が冷えてしまったのか。

 あるいは、寒がりというか冷え性なのかもしれない。



 萌は静かに一歩進み出て、おれに身体を預けてきた。



「しばらくお別れなんて寂しいです」


 萌は昨日とちがって、じっくりと惜しむようにおれに抱きついた。


 重ね着した上着ごしにも、胸と胸があわさって、2つの膨らみがマシュマロのように形を変えているのがわかった。

 布地越しの柔肌の弾力に鼓動が止まる。



「あたしのこと忘れないでくださいね?」

「それは……、うん。忘れない」

「電話してもいいですか?」

「もちろん」

「大好きです。葵さん」

「いいから早く朝ごはん食べなさいっ。飛行機のチェックインだってまだでしょう」


 ダイニングで立ち止まっていたおれたちは、里香さんに叱られるのだった。

















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