#0097 栞の朝
冷たい霊気に満たされた朝。
文字通り目と鼻の先に栞の長い睫が下りていた。
枕の端にちょんと頭がのっている。
気持ちよさそうな寝息をたてて、栞の胸が上下している。
あたたかい鼓動がひっそりとおれを尋ねている。
子供のようにあどけない寝顔だ。
美の神様のペンで描かれた、調和のとれた目鼻立ち。
頭の上にはあまねく光のなかで星の冠を戴いているようだ。
頬はつややかな薔薇色に染まっていて。
そして、早春の小川のように透明な唇。
――おれはこの唇にキスをしたんだ。
昨夜の熱がこみ上げてくる。
この、恋のかけらも知らなそうな乙女の唇に、おれは触れてしまった。
それも2度も。
1度だけの無邪気な幻のつもりだったけど、想像もつかないような快感をたった1度だけでは知り尽くせなかった。
栞にねだられて手を染めてしまった2度目、おれたちはキスの味わい方を知って、愛情が爆発する寸前だった。
気づけば、眠っている栞の唇を人差し指で撫でていた。
柔らかくて優しい潤いが指先にある。
わずかに開いた口はあまりに無防備で、3度目を求めている。
いけない。
3度目はだめだ。
昨日で終わりと決めたはずだ。
一夜明けてそれを破ってしまえば、もう本当に歯止めはきかない。
おれは指を離した。
けれど栞に触れていたい衝動は止まらずに、頬を撫でていた。
栞はくすぐったそうに顔を傾ける。
可愛い。
なんて可愛い生き物なんだ。
絹のような黒髪がすこし乱れて、枕の上にはらはらと広がる。
永遠にこうしていたい。
一生栞を愛でて過ごせたらどんなに幸せだろう。
「ん……」
やがて栞が目を覚ました。
宝石みたいな瞳なのに眼差しが虚ろなのがなんだか可笑しかった。
左手で頬を触っていると栞は突然双眸を見開いた。
「うわっ!!」
おれは栞の両腕で胸を突き放される。
その反動で栞はうしろの壁にどんと背中をぶつけていた。
栞は耳まで紅潮して口元を震わせる。
おれはあっけにとられてしまう。
左手にはまだすべすべの肌の感触の名残りがあった。
「おはよ、栞」
「お、お、おはようじゃないよっ! 人の寝顔になにするんだ!」
「なにって、撫でてたんだけど」
「顔が近すぎるよ! 寝起きのボクのことも考えてくれっ!」
栞は両手で顔をおおって、くるりと壁のほうを向いてしまう。
「心臓に悪いよ……、朝起きて、あんな近くに葵の顔があったら!」
「でも、昨日はもっと顔を近づけてたのに」
口づけの瞬間、おれと栞の距離はゼロだった。
「それは忘れる約束じゃないか!!」
栞は声を上げて怒ってしまった。
「おれが目を覚ましたときからこうだったんだ」
誓っておれが栞の寝込みに抱きついたわけじゃない。
栞はずっとしがみついたままだったし、足だって一晩中絡んだままだった。
……って、これじゃいつかのような言い訳みたいだ。
「ひ、一晩中……ボクはなんてことを」
「昨日はお互い、何ていうか、ハイになってたからね」
「…………」
「栞?」
「……ねえ葵。もういっかい、ぎゅってしていい?」
栞はベッドの中でおれのほうへ向き直った。
微熱のこもった目におれの顔が映りこんでいた。
顔にかかった髪を手で除ける仕草がスローモーションのようだった。
「だって今日は、綾の番、なんだよね……?」
「……」
その通りだ。
昨晩は栞と過ごしたなら、今夜は綾と一緒に過ごすと決めていた。
おれは誰かを選ぶ立場にはないのだ。
しかし、こんなにもおれを好きでいてくれる相手にそれを言葉で肯定するのはばつが悪かった。
「最後に葵の心地を味わいたいよ。さ、さっきの不意打ちじゃよくわからなかったから……」
おれはもう一度、やさしく包みこむように栞を抱きしめた。
栞の指はおれの背中から肩をあどけなくすべった。
「ボクのこと、たくさんなでなでしてよ。これからも」
「うん。もちろん」
「葵、大好き……」
栞は全身を委ねてくれる。
もじもじと四肢を擦りつけて、おれの胸元に愛おしそうに頬をつける。
朝のみずみずしい香りがする。
「幸せ……幸せすぎるよ」
栞の額にそっとキスをすると、栞はびくんと身じろぎをした。
「栞?」
「ごめん、葵。その……身体が火照っちゃって。すこし冷まさせてくれないかな」
栞はためらいがちに口を開いた。
もう満足したってことだろうか。
栞にしてはずいぶん早いようだけど……
「こ、これ以上は危険だ。このまま、すこしひとりにさせてくれないだろうか」
「えっと、大丈夫?」
「あ、朝からこんなドキドキさせられて大丈夫じゃないから言ってるんだっ!」
栞はそんな理不尽なことを言って、おれをベッドから追い出した。
「先に下りててほしいんだ。綾もたぶん、もう起きてると思うからさ。ボクもすぐ行くから。ね……?」
布団の端をぎゅっと掴んだまま目を潤ませられて、おれは困惑しながらも頷くほかなかったのだった。
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