#0096 綾の夜【綾視点】





「おやすみ、綾」

「うん、おやすみ」


 葵くんの声に応えて部屋をあとにした。

 2階の廊下のあかりはもう消されていて、真っ暗だ。


 わたしは、自分の部屋のすぐ隣のドアをノックした。



「麗。わたし」


 扉の向こうに小さく声をかけて、ドアノブに手をかける。


 そっと扉を開いたその光の先に、ベッドの上に広がった髪が見えた。


 わたしに気づいた麗は重そうな身体を起こして、ぼんやりした瞳でわたしを見つめかえした。

 眼鏡はかけていない。



「気分はどう? まだ、気持ちわるい?」

「……ちょっとだけ、良くなった」

「そっか」


 蒼白かった顔色はだいぶ戻りつつあるみたいで、ほっとする。

 傍らの机には、使われなかった紙袋が折りたたまれていた。



「おなかすいてない?」


 麗は首を振った。

 食欲はないみたい。



「飲み物、机のうえに置いてあるからね」

「うん」

「キッチンの冷蔵庫の中に、ゼリーもあるよ」


 もともと住んでいた粕谷の家からここに移動する間、麗はずっと震えが止まらなかった。


 家の外に出るだけでもとても大変だった。

 麗はこの2年間、一回も外出していなかったから。


 道中、わたしは車の中でずっと麗の手を取って、外を歩くときは不安が鎮まるよう背中に触れてあげた。



「ごめんね、遅くなっちゃって。葵くん、夜はずっとお部屋から出ないでいてくれるって約束してくれたよ」


 葵くんが麗のために協力してくれるのが、本当にありがたかった。

 きっと、いろいろ配慮をしてくれると思う。



「……葵さんと、どんな話をしたの?」

「そ、それはね……」


 ちょっとたじろいでしまった。

 ついさっきまでの会話を思い出してしまう。


 わたしが葵くんと、……他の2人といっしょでも仲良くなりたいなんて話したことを、麗に教えても良いのかな。


 葵くんをめぐって萌と栞が言い合ったこととか、栞が葵くんにキスしちゃったこととか……


 男の人が怖い麗に伝えるのは、やっぱり気が引ける。



「栞と萌も来て、その、葵くんとの生活のルールとかのはなしあいをしてたの」


 麗はわたしを頼って、純粋な視線で見あげている。

 隠し事をしてしまうのは罪悪感がチクリと痛む。



「私のことは……」

「麗のこと?」

「うん」


 わたしはもう一度、葵くんとふたりでいたときにした会話をたどる。



「……どんな生活で、食事はどうしているのか、とか。簡単に教えたら、心配してくれたよ。麗に信頼してもらえるようになりたいって」


 栞と萌のふたりはちょっと暴走しちゃう時もあるけど、葵くんのわたしたちへの接し方はずっと変わらない。

 わたしたちと同じだけ麗を気遣ってくれる。


 葵くんにはそれだけ信頼のおける何かがある。

 ほっとする何かが。



 麗は床に視線を落とした。

 身じろぎもせず何かをじっと考えて、沈黙に長い睫が揺れている。



「葵くんもお母さんたちも休んでるから、お部屋出ても大丈夫だよ。お手洗いの場所、おぼえてる?」

「うん。1階の奥と、2階の」

「お風呂、今はいる?」

「……いい」

「そっか」


 麗は出発前、粕谷の家でお風呂を済ませてきていた。

 ここに着いてすぐに休めるように。



「明日は萌と一史さんの飛行機があるからみんな早く起きるはずだから」


 葵くんが、麗の食べるものを作ってみたいって言ってる……そのことを伝えるのは、また明日でいいかな、と思う。

 いまはとにかく、身体を休めてほしい。



「わたし、そばにいなくても大丈夫?」

「うん」

「何かあればメッセージで伝えてね」

「……姉さんは」


 部屋を出ていこうとしたわたしの背に掠れた声がした。



「まだ好き、なの?」

「好きって……葵くんのこと?」


 去年の夏、わたしが海辺で葵くんに告白したあの日の夜、麗には、葵くんのことが好きになったことを打ち明けていた。

 けれどその後はほとんどそのことを話題にすることはなかった。


 わたしが葵くんのことを話すと、麗にとって刺激になるんじゃないかと思った。

 それ以上に、わたしが恋をしてしまったことで、わたしの心が麗から離れていってしまうと思われてしまうのが怖かった。


 麗がわたしに何かを尋ねてくることも今までなかった。

 のに。



「……うん。好きだよ」

「…………」


 わたしは嘘は言わなかった。


 麗は、わたしが男の子と一緒にいるのは嫌なのかな。

 わたしがいつか、麗のそばからいなくなってしまうんじゃないかって、不安にさせてしまうのかな。



「私は、葵さんのことを信じられない。綾姉さんにも色目を使うなんて」


 麗の声は掠れていた。


 わたしは息を飲む。



「綾姉さんが、あおいさんと一緒になりたいって気持ちも、想像できない」


 麗が自然と葵くん――新しい家族と近づこうと思えるまで、そのまま過ごしてほしい。


 わたしはそう言おうとして、けれど開きかけた口が固まる。

 それじゃなんだか、上から物を言ってるみたいな気がした。


 葵くんに絆されたわたしの言葉は、きっと麗を置き去りにしてしまう、そう感じた。


 麗のそばにいてくれる言葉が思い浮かばない。



「でも、私は姉さんの気持ちを否定する資格なんてない」


 そんなことない……と思う。

 こうでなくちゃいけないとか、そんなふうに考えてほしくない。



「わたしは、麗が嫌な気持ちになることはしたくないよ。葵くんも同じことを言ってくれたよ」

「……私、姉さんの重荷になりたくない。綾姉さんが好きな人なら、応援したいから……」

「重荷になんて思ってないよ。ほんとだよ」


 わたしはただ、麗にそう声をかけるだけだった。


















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