#0084 綾と栞 (2)【綾視点】





「はい」

「ありがとう。ごめんね?」

「今度ファイルにでも綴じておきなよ。大事な思い出だから」


 栞はわたしの机上に譜面を置いて、さっきよりも近くに椅子をもってきてそっと腰をおろした。

 穏やかな瞳で見つめられ、わたしは緊張しながら小さく頷いた。



「……葵のこと、好きなんでしょ?」

「……」

「あれだけ動揺しておいて、違いますは通らないと思うよ?」


 栞の声は暖かく、優しく、わたしが顔向けできないところをまっすぐに貫いた。

 わたしは言葉に詰まってしまう。


 体の奥が熱くなって、視線をさまよわせながら答えを探して、栞はそんなわたしから目を逸らさなかった。


 わたしは後ずさりもできなかった。



 なにか、言わないと。

 はぐらかして、否定しないと――



「…………うん。好き、だよ」


 言ってしまった……



「わたし、葵くんのことが好き……」



 ずっと胸の奥に閉じ込めておくはずだったのに。

 問い詰められ、一度外に出てしまえば拡散して、取り返しがつかなかった。


 ぞわりとした熱が肺から背筋を駆け抜け、凍える口元が震える。

 恐怖に震える手をぎゅっと押し殺した。



「ごめんなさい……」

「なんで謝るの?」

「だって、葵くんは……」


 わたしはそれ以上言葉が続けられなかった。

 沈黙が重苦しくて、栞と目が合わせられなかった。


 小さく息を吐くのが聞こえた。



「……ボクはぜんぜん怒ってないよ」


 栞の声に引きづられて顔をあげると、心配そうに見上げる瞳があった。

 櫛に梳かれてほんの少し湿気の残った栞の髪が揺れて、上気した頬の輪郭を隠していた。



「ボクが綾を怒るわけないよ。好きになっちゃうのは仕方ないことだよ。だって人間の感情だから」

「でも……」

「他の人なんて全然考えられなくて、葵だけが特別な男の子なんだって気持ち。綾も同じでしょ?」


 ……わたしも同じだった。


 葵くんじゃなきゃ、こんなにどうしようもないくらいドキドキしたりしない。

 会えないのが寂しい、もっと葵くんのそばにいたいっていう気持ち……



「うん……」


 もう、溢れてくる気持ちは終わりが無かった。


 いけないことだっていう思いがとても苦しいのに、わたしは頷いてしまう。



「いったいボクが何年綾の妹をしてると思う? 今の綾を見てたらそのくらい分かるよ」


 栞はわたしの手を握って、その柔らかな温もりがわたしの深く沁みた。




 それから栞はわたしも座るように促して、わたしたちは向かい合って今日のこと を振り返った。



「実はボク、歌う側で合唱に参加するのってちょっと憧れてたんだ。あ、今日のはほんとは合唱じゃなくて重唱って言うんだっけ」


 栞は明るく話しかけてくれた。

 話題をずらしてくれる栞の気遣いに、ほっとしてしまった。



「ほら、ボクが普段弾くピアノって、たったひとりで完結する音楽なんだ。だから今日、みんなで歌うのってこんなに楽しいんだなぁって、ワクワクしちゃったよ」

「……わたしも。みんなと歌うのが気持ちよかったの」

「なんだか今日1回だけで終わっちゃうのが勿体ないよね」


 栞とわたしは、今日歌った楽譜をいっしょに読み返した。



「ほら、ここ。ボクのパートは綾の旋律メロディから2度ずれてるんだよ。音とるのが大変だったなあ。一人でいるときにずっと口ずさんで、ようやく歌えるようになったんだ」

「ねえ栞。この楽譜って、やっぱり葵くんが書いてくれたの?」

「うん。これは葵が綾のために書き直したんだよ。ボクのパートには誤植もそのまま残ってる」

「やっぱり、そうだったんだ……」


 6ページ目に書かれている葵くんのメッセージも、終盤で分かれるはずだったアルトも。

 わたしのために、きっと葵くんは奔走してくれたんだ。


 ううん。葵くんだけじゃなくて、栞やみんなも……



「綾が雨の中帰ってこなかった日、ボクと葵は通話をしたんだ。綾は眠ってたみたいだけど」

「……ぜんぜん知らなかった」

「綾をお願いって、ボクは葵に伝えたんだ。綾の心を慰められるのは葵だけだよって。それで、綾が本当に伴奏を引き受けることに決まってから、ボクと葵はほとんど同時に言ったんだ――"また綾に歌わせてあげたいね"って。笑っちゃうよね、まったく同じこと考えていたなんて。どうしてかな?」


 わたしは分からなかった。

 でも、知っていた。



「ボクも葵も、綾のことが大切なんだよ」


 陽だまりみたいな笑顔に、わたしは胸がぎゅっとした。



「……わたしだって栞のことが、大切だよ」


 そう、わたしたちが生まれたときから、これからもずっと変わらないんだ。


 栞が大切だからこそ、わたしは……



「ボクは、綾にだって幸せになる権利はあると思うんだ」

「でも、それじゃ栞は」

「ボクだって、まだ葵と恋人同士になったわけじゃないんだよ?」

「でもっ、でも………」

「綾がボクのことを思ってくれてるのは嬉しい。だけど、ボクにも綾のことを心配させてよ」


 どうして栞は、わたしにそんなことを言えるんだろう。


 その時、栞ははじめてほんの一瞬だけ視線を切った。


 だけどその直後、頬を染めた栞は曇ってしまいそうな表情を振り払うように訴えかけた。



「ボクは気づいたんだ。ボクは葵が好き。その気持ちはますます膨らんでいる。だけど、綾が苦しそうに我慢をしているのを横目に葵と結ばれたって、ちっとも満たされないんだ。綾が笑っていてくれないと、ボクも楽しくない」



 ……ああ。きっと。

 栞も、葵くんとわたしとの間で自分の気持ちがわからなくなっていたんだ。


 わたしはようやく気づいた。



 どうしてわたしたちは、自分を責めてしまうときでさえ通じ合ってしまうのだろう。



「ボクは、葵に想いを伝えて本当に良かったって思ってる。好きって言うその瞬間は人生で一番ドキドキしたけど、終わってみたら不安なんて全部無くなって、じんわりとあったかくて、葵といっしょにいる安心感がずっと残り続けるんだ」


 じんわりとあったかい……

 そんな気持ちに、わたしもなれたら、どんなに良いだろう。



「だからボクは綾にも告白してほしいんだ」

「……」


 栞がたくさん言葉をかけてくれても、わたしは言葉が浮かばなかった。

 わたしが告白なんて、想像もできなくて、どうしようもなく怖い。



「ねえ、葵からもらったハンカチを見せてよ。ボクもじっくりみてみたい」


 唐突に栞は言って、自分の衣装棚から自分のを持ってくる。

 わたしも机の引き出しに大切にしまっていたのをを取り出して、お互いに見せあった。



「水色って、綾のイメージにぴったりだよ。とっても清楚で上品だ」

「栞のはとっても派手だね。黒なのに、色彩豊か」

「でしょ? 柄もちょっと前衛的な感じで、気に入ってるんだ」


 この2枚のハンカチはどっちも、舞台に登るわたしと栞を想って葵くんがくれたプレゼントだった。


 栞はコンサートが終わったあとも大切に使っているみたいだけど、わたしにはとてもそんなことはできなかった。

 一人でいるときに、葵くんのことを考えながら時々見つめるだけだった。



 ……だって、期待しちゃうよ。


 葵くんがわたしのために選んでくれたこれは、栞にくれたものと同じくらい素敵だから。

 葵くんの目には、わたしも栞みたいにキラキラして映ってるんじゃないかって、思ってしまう。



 そして今日、葵くんがわたしにもう一度歌わせてくれて、わたしにくれた言葉だって……



「贈り物ひとつでこんなにときめかせてしまうなんて。葵には責任をとってもわらないと」

「…………」

「じゃあ、綾が告白したときのことを、いっしょに考えてみようよ」


 膝の上に視線を落としてしまったわたしを、栞はなお励まし続けてくれている。

 なんて優しんだろう。


 わたしは胸がつんとして涙ぐんでいた。



「綾が好きって伝えたら、葵はどんな反応をするかな? まさか、こっぴどく振られちゃうって思ってる?」

「……ううん」


 わたしは首をふった。


 葵くんは絶対、そんなひどいことは言わない。

 だけどきっととても驚かせて、困らせてしまう。



「ボクもそう思う。葵は優しいまま、綾の想いを受け止めてくれる。そして諭されるんだ。――"みんなとの約束があるから、今は恋人になれないよ"って」

「……うん」


 わたしたちと葵くんは、は麗のため……そして家族の関係を壊さないために、恋愛禁止というルールを掲げたはずだった。


 わたしのこの気持ちは、その一線を踏み越えようとする意味でもいけないものだ。


 だけど同時に、葵くんとわたしたちとの関係を、この危うい安全地帯に留めておく理由にもなっている、のかもしれない。



 ……だって、もしこれが無かったら葵くんに二者択一をさせてしまうんだ。

 いや、もしかしたらとっくに栞と付き合ってしまっていたのかも……


 わたしの好きは、芽を出す前に終わっていたのかもしれなかったんだ。



 そのことにわたしはようやく気づいて、すこしだけ安堵していた。



「ボクは綾に告白してほしい。そして葵の返事だって分かりきっている。ならあとは――綾が純粋に葵に想いを伝えたいかどうか。それだけだよ」


 栞の視線がいまわたしの両目に注がれて、あたたかな勇気をそっと分け与えてくれていた。

 栞は椅子からそっと立っていた。



「ボクが葵に告白しようと決めたとき、綾はボクを応援してくれたよね。だから今度は、――今度はボクが、綾を応援する番」



 栞はわたしにそう囁いて、わたしを抱きしめ、背中を押した。


 そして、そこで口を閉ざした。


 わたしの答えを待っていた。

 静かに涙が頬を伝っても、どんなに時間がかかっても、栞はわたしを抱きしめるのをやめなかった。



 ……わたしが純粋に、葵くんに想いを伝えたいかどうか。


 胸の中で何度も栞の言葉を繰りかえした。

 そして、長い時間をかけてわたしの気持ちははっきりと決まっていった。



「……わたし、葵くんに伝えたい。ありがとうって気持ちと、大好きって気持ち」


 わたしがゆっくりと伝えると、栞はふふって笑った。



「そんな可愛く告白されたら、葵は断れないよ」

「か、可愛い……」

「葵ったら、ボクのことを見て隙きあらば"見惚れた"なんて言うんだ。綾もそうでしょ?」

「……うん」

「ボクたち、とっても美人で可愛いらしいよ。葵のお墨付きだ」


 栞はようやくわたしを解放して、あっけにとられるわたしの手を取った。


 わたしと双子の顔がすぐ近くで微笑みかけた。



「ねえ、今日は一緒に寝ようよ。ボクが葵に告白したときのこと、綾に教えてあげる」

















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 お読みいただきありがとうございました。

 次話は 9/11 (日) に投稿予定です。

 来週からまた1話ずつの投稿に戻します。


 第1章の完結まで残り2話です。
















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