#0083 綾と栞 (1)【綾視点】





 夜、夕食もお風呂も済ませたわたしは、自室の勉強机でひとり楽譜に目を落としていた。



 ひとつは、今日葵くんがくれた真新しい楽譜。

 もうひとつは、これまでの練習のために使ってきた楽譜。


 古いほうは、夏休みから数え切れないくらいページを捲ってきたから、紙は角が折れてしわになっていた。


 気づかないうちに手垢にまみれ黄色く色あせているのが、新しいものと比べるとはっきりとわかってしまう。



 小節のひとつひとつには無数の書き込みがある。


 伸ばす音と切る音のこと。

 音程が難しいところ。

 歌詞のイメージとニュアンスの付け方。


 指使いのこと。強弱のこと。

 フレーズが始まって終わる、その呼吸や表情。

 ペダルのタイミングに、手首の柔らかい使い方。



 楽譜は真っ黒になって、何度も間違えたところは色付きの蛍光ペンで強調されていた。


 鉛筆の線が音符を繋いで、囲んで、丁寧な筆跡が葵くんの言葉を呼び起こす。



 ……すごく、すごく大変だった。

 何度も涙を流しかけた。


 けれど今、あの目まぐるしい1日1日が胸に浮かんでは消えていく。


 もうすべて終わってしまった。

 葵くんとふたりで過ごした夏の午後も、あんなに怖かった本番も、みんなが用意してくれた今日の楽しい反省会も。


 もう明日からは、わたしも葵くんも、それぞれの学校でそれぞれの日常に戻るんだ。


 ……葵くんの家に行くこともなく。


 どうしてこんなに寂しいんだろう?

 夏休み前の、もとの生活に戻ることがこんなに悲しいのは、どうして。




 ――最初は、ふたりで行ったモールで、葵くんがこの曲のことを知っていた。


 葵くんはわたしの声が綺麗だって褒めてくれて、栞に手を引かれるままに隣同士でお昼寝までしてしまって。


 お祖母さんを喪ったときのお話をきいて、わたしは葵くんの優しさの芯にある悲しみに触れた。


 そして、胸が引き裂かれそうなわたしを葵くんは土砂降りの中でも迎えにきてくれた。



 それからの日々は何度も挫けそうになった。


 とにかく必死で、心に余裕なんて無くて。

 葵くんのアドバイスを頼って、葵くんの励ましに縋るしかなかった。


 だからこの気持ちはきっと一時的なもので、本番が終われば自然と薄まって、消えていくんだ。

 そう言い聞かせていた。だってそうじゃないと……


 そのはずだった、のに。



 今日、あの嵐の日から忘れてしまっていた気持ちを、わたしはもう一度思い出した。


 歌うことの楽しさ、心地よさ。

 でもそれは、葵くんのお家でひとりで練習していたときとは違った。


 みんなの声がわたしを包んで、背中を押してくれる安心感。

 そしてわたしが旋律を歌うことで大きな音楽が作られてゆく興奮。


 わたしの視界はまるで花々が夜明けに一斉に花開くように、わたしたちの周りから色彩が広がっていった。



 これがわたしのやりがかったことだったんだ。

 そう思ったら、わたしは涙がこみ上げた。


 胸が震えて呆然と立ち尽くすわたしに、葵くんはまっすぐに目を合わせてくれた。

 栞と、左沢さんと、夏帆さん――わたしの大切な家族と友達が、わたしを見守ってくれていた。



 涙で滲んだ視界いっぱいに、そっと告げる葵くんの笑顔があった。


 わたしは胸の奥で熱くなったなにかのせいで心臓が溶けそうだった。

 それでも葵くんの優しい瞳から目を離せなくて、ひたすらうなずくことしかできなかった。



 ……胸にそっと手を当てる。

 ドキドキが今もまだ続いていた。


 今まで葵くんと過ごした時間が……葵くんがくれたものが次々に浮かんでくる。



 もう、否定なんてできない。

 わたしは葵くんのことが、好き……



 ひとたびそのことを認めてしまうと、とたんに悪寒が止まらなくなる。



 ……絶対、だめなことなのに。

 栞がずっとずっと好きだった男の子を、わたしも好きになってしまうなんて。


 栞はついこの間、ようやくその想いを伝えられたばかりなのに。


 わたしの大切な家族がずっと想ってきた相手。

 それだけは、決して冒してはならないところなのに。



 栞の恋を応援するって言っておきながら、わたしも好きになってしまったなんて、なんという裏切りだろう。



 わたしは軽率だった。

 曖昧な気持ちのまま、葵くんと栞の好意を良いように解釈していたんだ。


 だけどわたしの体中の血は、もうどうしようもないくらい葵くんに会いたがっている……



 先送りにして、見なかったふりをしていた罪悪感が今になってわたしを金縛りにしていた。


 こんな後ろめたい想い、打ち明けられるわけがない。

 打ち明けてはいけないんだ。



 わたしは震える手で譜面のページを捲る。

 赤色のインクで囲まれた言葉が目に入る。



 ――"栞は、未来のわたし"



 気づいてしまった。

 愕然として、頭を強く殴られたみたいだった。



 ずっと考えていたこの歌詞の意味、それは……わたしも葵くんに恋をしてしまうということだったんだ。


 そして、そして叶えられない気持ちに苦しめられるっていうことだ……


 栞が未来へいくのをためらう部分がある。

 それは夢のために旅立つことへの迷いのはずだった。


 だけどそれは同時に、叶わない恋を覚して諦めてしまおうかという躊躇いでもあるんだ。


 栞は4年間、わたしはたった今……


 だからきっと、曲の入りで名前を読んでいるのは葵くんで、そして旅立つ先……「大人になる」ということの意味は。




 わたしは全身から力が抜けて、膝を抱えてうずくまってしまう。

 こんなときに要らないことばかり気がついてしまう自分が嫌になる。


 こんなに重たくて、後ろめたい気持ちを抱えたまま、これからどうやって葵くんや栞と顔を合わせればいいんだろう……



 背後で扉が開いた。



「あがったよ」


 お風呂を終えた栞が帰ってきた。


 わたしは驚いて、机に広げていた譜面たちがその弾みで床にばら撒かれてしまった。



「ああっ! なんてこと……」

「手伝うよ」


 わたしが椅子から立ち上がると栞も床に落ちた紙を拾うためにしゃがんでくれる。

 気が動転していたわたしは、書き込みだらけの歌詞ページを真っ先に回収して上から別のページで隠してしまう。


 わたしの空想を栞に見られてしまうのはとても恥ずかしくて……

 栞は拾うのを手伝ってくれてるのに、わたしはどうして自分のことばかり考えているんだろう。


 そのことのほうがずっと恥ずかしいのに。



「……」

「栞……?」


 栞は拾い上げた譜面をじっと見つめていた。



「あ、ごめん。はい」


 揃えた紙束をわたしに手渡して、にっこりと笑ってくれた。

 その栞の表情が眩しくて、わたしは思わず目線を切ってしまった。


 栞はすぐ隣にあった自分の椅子に座ってわたしを振り返った。



「葵に告白しないの?」

「――――」


 わたしは心臓が止まった。



「あああっ! せっかく拾ったのに!」

















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