#0082 再演、そして (2)
完璧に溶け合ってひとつになった純粋な声がこの小さな部屋を一瞬で満たした。
柔らかくて清楚で、どこまでもまっすぐで、4人とも完璧な音程のまま息継ぎをする。
そして、3小節目のクレシェンドではまるで大きな生き物のようにうねる。
……すごい。
おれは聞き惚れて、危うくピアノの入りに遅れかけてしまうところだった。
おれは思い出の断片のような伴奏をそっと問いかけなければならなかった。
恭しく、まるで可憐なお嬢様の手を取るように。
そして歌詞が始まる。
ほかのみんなは静まって、綾ひとりが透明な気品をまとって音楽を口にした――
ふたりで幾度も練習したソロパート。
それがいま、綾とおれだけが寄り添って他に何も入り込む余地のない、尊く、睦まじい時空へと昇華していた。
伴奏の譜面、"Synchronize with the singer(s)"の指示。
引き寄せられるように綾を見ると、綾もおれを見つめ返していた。
頬が赤く染まっていく。
完全な以心伝心だった。
綾と栞の姉妹愛、たとえ離れ離れになっても永遠に相手を想い続ける心象風景。
いま綾は、かつて綾と語り合ったこと……すぐ隣にいる栞のことを心に思い浮かべている。
綾との暖かな信頼に身を浸すたった9小節は、3人のヴォカリーズで終わりを告げられ、綾の声は名残惜しそうにおれのもとを離れ四重唱のなかに溶けていった。
おれは夢見心地が拭い去れなくてすこし心寂しい。
けれど、これが綾の本当の練習の成果だ。
そう思えばとても感慨深い。
そして曲はいったん
すぐに新しいフレーズで再開するタイミングも、すこしだけ速くなるテンポも、綾と栞のユニゾンなら問題ない。
姉妹の声はまったく一致していた。
続けてアルトの左沢さんが時の無情さを歌いだす。
その間に綾が譜面のページを捲って、そこで一瞬息をのんでいた。
……そう、その驚いた表情が見たかった。
おれは波が寄せて返すような音型を弾きながら含み笑いを隠していた。
綾の目線の先にはこう書いてあるはずだ。
――"ごめん! ここだけどうしても綾の知らない音が残っちゃった。栞とユニゾンだから、よく聴いて歌って"
綾は不安そうにちらと栞を見る。
すると栞は満面の意味で見つめ返していた。
"いっしょに歌おうよ!"――そんな心の声が聞こえてくるようだ。
綾は栞にリードされながら無事に音符を辿って、またふたりの音は別々のパートに別れていった。
……どういうことかというと。
おれと栞が綾への――「もうひとつの本番」という贈りものを思いついてから、おれはすぐに女声合唱版の『言葉にすれば』の楽譜を取り寄せて、しかしひとつの問題にぶつかったのだ。
混声版と女声版は当然ながらアレンジが違う。
だけどそれがおれの予想を大きく超えていたのだ。
綾が歌うソプラノはもっとも高音域を担うパートで、必然的に曲の主旋律の多くを歌うことになる。
だから混声版から女声版に変わったとしても、綾のパートはほとんどそのまま歌えるだろうと思っていた。
それがとても甘い考えだと楽譜を見て思い知った。
曲の和声進行そのものはまったく同じだけど、どのメロディをどのパートが歌うかの役割が各パートの音域差が小さい女声合唱ではとても柔軟に入れ替わって、第1ソプラノでさえまったく別の楽譜になっていた。
そして中には、混声版には無い高音が追加されていることもあった。
これでは、綾へのサプライズで歌ってもらうことができなかった。
だからおれ自身の手で楽譜を書き換えることにしたのだ。
編曲、というほどのものでもない。
混声版で綾が歌っていた音を他のパートからもかき集めて、残りは他の3人に押し付けて……おかげで、特に左沢さんと夏帆のパート譜はとんでもないことになってしまったけれど。
そんなパズルみたいな組み替えの中で、今の一か所だけはどうしても綾の知らない音が残ってしまったのだ。
だけど逆に綾はきっと気づいただろう。
これは、綾のためだけに作られた音楽。
もうここから先、自分がいちばんよく知っている音をめいっぱい、心地よく歌うだけで良い。
綾が一番苦労したあの右手の3度の音階をおれが弾くその先で、一瞬だけ歌が伴奏の手を離れると、綾の歌声はすこしずつ凛として、その目に見えない閉じた翼をすこしずつ開いていた。
おれは本物の天使の歌声を聴いて、呼吸すら忘れかけている。
そしてピアノと歌が
コーダへと導かれてゆく全員のユニゾンが部屋いっぱいに反響する。
おれは和音を刻みながら全身が震えた。
綾抜きで練習していた時とは全然違う。
綾のあの透明で優しさに満ちた声が全体に浸透して、すべての音をを優しく支配している。
それはまるで春の陽気に芽吹く新芽のようにささやかで、この上なくピュアなものになっていた。
たった4人の声で、こんな上品な音が作れるんだ……!
おれは感激して、一瞬、綾への労いを忘れてしまう。
もっとこの楽器のことを知りたい、いろんな音を引き出してみたいという強い欲求が胸のうちに生まれつつあった。
そして曲はあっという間に
それはようやく再会できたよろこびを分かち合う、幻の場面。
綾がこの夢のようなひとときの終わりに向かって懸命に言葉を紡ぎだすと、2小節遅れて今度は第2ソプラノ――栞が呼応する。
おれはこの曲いちばんの山場である主旋律の掛け合いを、どうしても綾と栞に歌ってほしかった。
なぜなら……綾がこの曲に見出した景色というのは、旅立つ栞と、逆らえない時間の流れの中で大きな愛情を確かめ合う綾自身の姿だったからだ。
約束の言葉を胸に孤独な夢を見て、その果てにいつかふたたび会える日が来ることを、いまふたりは旋律の掛け合いの中に確かめあっているのだ。
おれは綾に、一番大切な存在のすぐ隣でいっしょに歌わせたかった。
絶対に、綾と栞が歌うべきで、それ以外の誰が歌うのもあり得ない。
だからおれは栞を第2ソプラノに据えた。
そしてそれは同時に、夏帆と左沢さんに大きな負担を強いることでもある。
このとき本来の第1・第2アルトは、それぞれのパート内で2つに分岐してソプラノとまったく同じリズムでハーモニーを作り出す。
つまり今、夏帆と左沢さんは実質4パート分をたったふたりで歌うことを強いられている。
当然ながらふたりの譜面は目も当てられないほど滅茶苦茶だ。
8小節にわたって息継ぎ無しなうえ、歌詞が重なり合うところもあるから、ふたりの判断でなんとかしてもらっている。
……そもそもたった4人でこの曲を歌うなんて無理な話だったのだ。
では、今目の前で起こっていることは一体なんだろう。
奇跡という他ないではないか。
楽譜を渡した時あれだけ文句を言っていた夏帆も、真剣にハーモニーの最低音を支えていた。
栞と左沢さんの声も、練習のときとは見違えるように質が変化している。
その変化を及ぼしたのは……綾だ。
かつて、仲のいいクラスメイトもやりたいことも見つからないと孤独を零した綾は、いま、ともに音楽を奏でる仲間に囲まれて、小さくとも奇跡のような歌を作りあげている。
綾の瞳は光をたたえて、おれと、栞と、みんなとを目くばせしながらのびのびと喉を震わせた。
そして綾の綺麗な心はここにいる全員に波及させ続けている。
その姿は、純白の羽をいっぱいに広げて飛び立つ天使のようだった。
掛け合いの終わり際、ついに綾と栞がユニゾンでひとつになると、歌はふたたび伴奏の枷から自由な大空へと解き放たれる。
その瞬間、栞と左沢さんが歌うのは……。
「栞は、未来の綾」――結局、この謎の断片へ綾がどんな答えを見つけ出したのか、聞かずじまいになっていた。
だけどいい。
あの嵐の日からの、途方もない困難を乗り越えた綾は大きく成長してここにいる。
それで十分だと思った。
きっとどんな迷いも断ち切って、いつか夢を叶えた先に栞と抱き合う日がきっと来る。
おれが完全に鍵盤から手を離した2小節の間に見た生き生きと歌い上げる綾は、こんなにも気高いひとりの女の子だ。
ポップスのリズムに乗って、最後にはおれも加わった5人分の力強い最後の音が、空中でふわりと解かれた。
曲の終結は呆気なく、あとに残ったのは静かな余韻だった。
綾は涙を流していた。
放心したように立ち尽くしたまま、透明な涙が音もなく瞳から零れていた。
ほかの誰もが口を開けなくなっていて、綾以外の3人の視線が自然とおれに集まっていた。
――"ちょっと。感想くらいあなたが言ってあげなさいよ"
夏帆からの尤もな圧を無言のうちに感じて、おれはおもむろに鍵盤の前を立っていた。
「えっと……」
綾の前に来てもおれの頭はまだ熱を持ったままで、この満たされた心地を伝える言葉を探した。
「感動したよ。それから、すごく驚いた」
ようやく言えたのはそんな薄っぺらい言葉だった。
だけど綾は涙を拭って、もう片手では楽譜を手にしたまま、あまりにも綺麗な瞳でおれを見つめ返した。
巣立ち間際の雛鳥みたいな視線だった。
「よく言われる表現だけど……"合唱は掛け算"って言葉、本当にそうなんだって思った」
左沢さんの芯の強さ。
夏帆の面倒見の良さ。
栞の快活さ。
そして綾の、純真な優しさ。
それらがぜんぶ溶け合った歌声は4人の公倍数で、ひとりで歌ったものでも、3人で歌ったものでも足りない高みへと達したのだ。
おれがそこに花を添えられることへの喜びは今まで感じたことが無かった。
ひとりではできない音楽を信頼できる仲間と作ることが、とても心地よかった。
栞も夏帆も、左沢さんも、みんなが頷いていた。
みんな同じ気持ちだ。
「綾のソロ、新県民会館のステージで披露していたらって、本当に残念だけど……でも、綾がこんなに綺麗な声でこの曲を歌っていたことは、ここにいるおれたちが知ってるよ」
おれの言葉を聞いた綾は、瞳をまた大きく見開いていた。
その瞳からはまた、大粒の涙が止まらなかった。
「ここにいるみんな、証人だよ」
「うん……、ありがとう、本当に……」
綾は言葉もなくただ頷くだけだった。
隣で見守っていた栞もすこし息を呑んだのがわかった。
そして頬を赤らめると、そっと目を閉じて笑みを浮かべていた。
きっと、4年前おれが言った台詞を思い出しているんだろう。
……栞には、感謝しないと。
「粕谷さん……っ!」
その時、左沢さんが意を決した様子でおれと綾のもとへやってきた。
右手をぎゅっと握りしめている。
「わ、私と……友達になって!」
突然の行動におれたちは一斉に驚いていた。
だけどおれだけはすぐに左沢さんの意図を理解して、口角が上がっていた。
きっとうまくいく。見届けたい。
「左沢さん……」
「私、もっと粕谷さんと仲良くなりたいよ……!」
「そんな、わたしこそ……こんな、わたしなんかでよければ」
「また、"なんか"って! わ、私こそ、粕谷さんの友達なんて本当は畏れ多いくらいだから……っ」
「ちょっと、あなたたち今まで友達じゃなかったの?」
しびれを切らした夏帆が間に割って入った。
腰に手をあてて双方を一瞥する。
「とっくに友達よ、どう見ても」
「そう、なのかな……」
「……」
恥ずかしそうに互いに目を合わせてる綾と左沢さんは、こっちが照れてしまいそうなほどに初々しい。
「友達なら名前で呼ぶものじゃない?」
「それに『粕谷さん』だとボクと区別がつかないじゃないか」
いたずら心が押さえきれずに指摘すると、そばで見ていた栞も同調してくれた。
栞もおれも自然と顔がほころんでいた。
「えっと、その……」
おれたち3人に見守られた、綾と左沢さんは。
「……ありがとう、美月、ちゃん」
「こ、こちらこそ…………綾ちゃん」
友達同士、頬を染めた微笑でその手をとりあっていた。
ふたりは最高に可愛らしく、それはほほえましい一瞬だった。
みんなが満足したところでおれは一度両手を打った。
「一仕事おえたみんなにお菓子を用意してあるよ。夏帆の差し入れの和菓子と、おれからは羽衣堂のシュークリームだよ」
「は、羽衣堂ってあの有名なお店じゃないか! 一回食べてみたかったんだっ」
「今朝お店に並んで、冷蔵庫で冷やしてあるんだ。綾の本番の話を聞きながら食べようよ」
「わ、私は葵さんと夏帆さんの学校のことも訊きたいですっ。ふたりとも、本当に学校の授業だけでここまで歌えるようになったんですか……?」
「そうだ、うちの中学の合唱コンクールの映像があるよ。夏帆が振りつきでソロを歌うんだ。見せてあげる」
「ちょっと! そんなの絶対だめよ! 恥ずかしいじゃない!」
その日、おれたちは皆いつの間にか仲良しになって、家の中はにぎやかな笑い声が絶えなかったのだ。
みんなが帰った後、ばあちゃんにお供えしていたお菓子も片づけていると玄関の戸が音を立てるのが聞こえてきた。
研究所に休日出勤していた父さんが帰ってきた。
「……葵、今いいか」
静かな足音のあとに聞こえてきた父さんの声は静かで、いつになく真面目だった。
「この家のことで、話がある」
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