#0085 綾の告白 (1)【綾視点】
カレンダーが捲られ、学校が5日間の秋休みに入った10月のはじめ。
ほんの少しだけ日が傾き始めた昼下がりにわたしは小さな無人駅に降り立った。
2両のディーゼル気動車は扉を閉ざし、エンジン音を唸らせながら鈍重に去っていった。
「……ついたね」
「うん」
わたしに続いて下車した葵くんの声が聞こえた。
空は秋晴れの青、そして地面はバラストの茶色。
わたしたちが立っているホームは色あせた灰色のコンクリートで、真っ白な駅の表札が立っていた。
線路の向こうには今はもう使われなくなったホームに緑の蔦が絡まっているのが見える。
列車が遠くに見えなくなって、レールが立てる音が聞こえなくなっても、柔らかな風が吹いていた。
わたしたちの他にこの駅で降りた人は誰もいなくて、遠くから鳥のさえずりだけが聞こえてきた。
三角屋根の小さな待合所にあった運賃箱に使い終わった乗車券を入れ、外に出る。
人通りのない集落のなかを西に向かって道路が伸びていた。
家々はまるで時が止まってしまったように静まりかえって、駅舎のそばの花壇に咲いたコスモスだけが風に揺れてそっと音を立てていた。
その時ふと、風の中に潮の香りが漂った。
けれど道路の先は海に向かってなだらかな丘になっているみたいで、上り坂の向こう側はここからは見えなかった。
すぐ目の前には個人商店が入口を開いている。
お店の名前を見上げると、「桜商店」。
偶然にもおなじ名字で、思わず隣の葵くんと視線があった。
「この道をまっすぐ行くんだっけ」
「うん」
「いっしょにいこう」
短いやりとりだけをして、わたしたちは並んで歩きだした。
立派な生垣のある家、古い工務店、草の生えた空き地に佇む無人販売所。
交差点の信号機は無意味で、
「まるで、世界がおれと綾のふたりだけになっちゃったみたいだね」
「……」
葵くんののどかな言葉にわたしは胸が鳴ってしまう。
わたしたちはこぶし2つぶんくらいの間をあけて並んで歩いていた。
葵くんは、今日は手を取ってくれなかった。
緊張して言葉数の少なくなったわたしに遠慮しているのかもしれない。
葵くんの腕が時々わたしに触れて、そのたびに葵くんは小さく謝った。
だけどわたしは葵くんのその手に抱きしめられた時を思い出してしまって……麦わら帽子の下で、ほっぺが顔がぼうっと熱かった。
――今日、葵くんに告白するんだ。
でも、わたしは怖気づいていた。
場所はどこで、どんなタイミングで、どんな言葉で……とか。
男の子に告白なんてもちろん初めてだし、はじめはまったく想像もつかなかった。
葵くんに連絡ができるまでにも数日かかってしまったし――
『海?』
『うん……変、かな』
『ううん。綾といっしょならどこでも。でも、海水浴場って閉まってない?』
『あっ、違うの。ただ葵くんと海がみたいなぁって思って……』
栞は山のお寺だったから、わたしは海……なんて安直な考えだった。
やっぱりこんな時期に海は変かな、とか、もっと自分や栞のことも気持ちに整理がついてからの方が良かったのかな、とか。
いろんな気持ちががぐるぐるして、けれどもう後に引けなかった。
服装もあれこれ迷ってしまって、どれも自信が持てなくて、結局萌が選んでくれた花柄のワンピースにしていた。
今日は気温が高くなりそうだったから日除けに帽子も持ってきたけれど、よく考えたらもう10月なのに、これじゃ夏物みたいになってるし、葵くんの表情があまり見えなくて、
「……綺麗だよ」
「えっ」
「そのワンピース、おれたちが初めて会ったときに着てたよね。おれが初めて……綾に見惚れたときの」
「…………うん」
「その麦わら帽子は、いつかふたりで選んだやつだ。やっぱり綾にぴったり。買ってよかったね」
…………。
葵くんの顔が直視できなかった。
ほ、ほっぺがとろけてしまいそうだよ……
わたしは下を向いてしまって歩幅が小さくなると、葵くんもそっとついて寄り添ってくれる。
そうして横断歩道を渡ると広い田園がすぐそばまで迫っていた。
刈り取られた稲の株は無言で、草むらから聞こえる虫の声も寂しげだった。
遠くから野焼きの匂いもした。
丘の先の景色は遠くの防砂林に遮られて見えないけれど、背の高い風力発電の風車が並んでいるのだけは小さく見えた。
海が近づいている。
わたしの告白までもう猶予はないんだ……
宙に浮くような高揚感が胸を締めつけた。
さらに坂を登ると歩道に面した金網フェンスの向こう側、木々を切り開いた広い面積にたくさんの太陽光パネルが南を向いていた。
その1枚1枚の黒い表面が日光を浴びて反射していた。
対向車線の側にも広がっているのを見えてわたしは振り向いた。
「最近ますます増えてるよね。余った土地に」
「前はこんなの無かったと思う……」
「来たことあるの?」
「うん。一回だけ、小さい頃に」
――まだわたしも栞も葵くんに出会う前。
お母さんはいくつもの仕事を掛け持ちして、いまよりもずっと忙しくて。
でもその合間をぬって、わたしたちの夏休みに一度だけ海に連れてきてくれたことがあった。
初めての海水浴にわたしたち4人ははしゃいでいた。
萌と栞は我先にと海に飛び込んでいって、わたしは浮き輪にしがみつく麗のそばで泳ぎの練習をしていたんだっけ。
夏のかんかん照りの太陽の下で、足の裏の砂浜はやけどしそうなくらい熱くて、冷たい海水が本当に気持ちが良かった。
持ってきたおにぎりをみんなで食べて、水着のまま近くの道路をお散歩してして、もう一度海に戻って4人で遊び尽くして。
疲れ果てたわたしたちは全員、帰りの車の中で眠ってしまったんだ。
「楽しい思い出なんだね」
「うん」
ずっと前のことなのによく覚えている。
夏の海のにぎわいも、波の感触も、焼け付くような空気も。
いま目の前に広がる風景は記憶から変わってしまっている。
わたしも成長して、もうすぐ中学校も卒業してしまう。
あの頃には想像もしていなかった相手と、今ここに来ている。
またみんなで来たいな……
小さく浮かんだ思いは、葵くんに伝えたいことでいっぱいの胸からこぼれ落ちてしまう。
地面を一歩踏みしめると泡のように消えて、忘れてしまった。
10分ほど歩き続けた先には大きな県道との交差点があった。
スピードを上げた車が何台も行き交っている。
横断歩道の向こう側には海の家が青空のもと軒を連ねていて、その狭い隙間から真っ青な水平線が覗いていた。
――海だ。
「いこう」
信号が青に変わる。
横断歩道を渡る葵くんの仕草は悠然として、その横にそっと並ぶわたしは緊張に身を包まれる。
これから葵くんと海を見て、好きっていう気持ちを伝えるんだ。
大丈夫。あの本番のステージのほうが緊張した。
わたしなりに考えてきた言葉もあるんだ。
息を整えながら何度も頭の中で繰り返す。
……まず、葵くんに今までのお礼を伝えなきゃ。
本番までのこと、それからわたしのために素敵なプレゼントをくれたこと。
それから、また葵くんのお家に行ってもいいかお願いをしたい。
コンクールが終わってしまったけど、これから先も葵くんといっしょに過ごしたい。
葵くんと歌を練習するのがあんなに楽しかったから、これで終わりなんてもったいなかった。
お母さんたちが結婚していっしょに暮らし始めるまでの間、夏休みみたいに毎日は難しくても、葵くんのお家でいっしょに歌って、葵くんのピアノもまた聴きたい。
……そんなふうに話して、距離を縮めたらきっと、わたしは告白できるんじゃないかって思う。
栞の告白の時、栞は本当に気が動転して、だけどその分「告白しなきゃ」っていう思いが強かったって言っていた。
そのくらい勇気がいるんだ。
わたしも、葵くんに伝えたいっていう気持ちをもっともっと上積みしないといけない。
大丈夫。大丈夫……
葵くんだもん、きっと受け入れてくれる。
そう言い聞かせていた。
広い駐車場には大きなトラックとダンプカーが休憩している以外に車はなかった。
近くで見た海の家はかなり古い建物で、人の気配はどこにもない。
やっぱり海水浴のシーズンは終わっていて、敷地の正面には遊泳禁止の看板が立っていた。
風がだんだんと強くなっていた。
さらに先と歩いていくと、足元の地面が硬い砂利から柔らかい砂へと変化して、背の高い草が風に揺れていた。
わたしたちはコンクリートに固められた斜面を下って、砂浜へと足を踏み入れた。
「わぁ、すごいね」
「うん。きれい……」
わたしたちは並んで息をのんだ。
左右に長く続いている真っ白の浜辺は終わりが見えなかった。
その弓なり型の海岸線の真ん中に、わたしたちは立っていた。
目の前にははてしなく海が広がっていた。
青いみなもにたつ波は穏やかで、誰もいない砂浜に透明な水がひっそりと寄せては返していた。
雲の少ない真っ青な空は水平線との境界で白んでいる。
その海と空のはざまに小さな小さな貨物船の影が浮いている。
陸に目を向けると、海沿いの緑の木々から真っ白な風車が並んで背を伸ばしてくるくると羽根を回転させていた。
北のさらに遠くには海に突き出た半島の影が淡くかすんで、その岬の真上には太陽が黄色い光を放っていた。
さざなみの表面が日光をキラキラに反射して、わたしたちのほうへ一本の光の道を作っていた。
大きな風景のなかにたったふたりで立ち尽くすと、言葉も無くなった。
……告白、するんだ。ここで。
もうそのための場所にわたしはいるんだ。
何か、言わないと。
そう思うけれど言葉が浮かばなかった。
海風がわたしの頬をかすめて髪を漉き、水はたえず身をひしゃげなかがらわたしたちの足元へ近づいては、力尽きてそっと去ってゆく。
その聞こえてくる音が、頭に響く鼓動でこまぎれにされていた。
焦りと緊張で隣を振り向くのに怯えていると、砂浜にしゃがみこんだ葵くんの背中が視界の端に映りこんでいた。
「……やっぱり冷たいんだね。夏に来て泳ぐと気持ちよさそう」
葵くんは波に手を浸したかと思うと立ち上がってわたしを振り返った。
子供っぽく笑う無邪気な表情にドキリとした。
「綾は泳げる?」
「えっ、……うん。でも、あんまり得意じゃなくて」
「実はおれもなんだ。プールの授業で教わったんだけど、泳ぎはいつも夏帆に負けてさ」
取り出したハンカチで手を拭う所作もどこか洗練されているように感じてしまって目が離せなかった。
「今度、来年でもみんなで海に来ようよ。それで遊びながら泳ぎの練習もするんだ」
それはさっき、わたしがふと思って口にも出さなかった気持ちだった。
まるで見透かされたように葵くんに言い当てられて、偶然かもしれないけど、葵くんの言葉を聞くたびにわたしは鼓動が跳ねていた。
「うん……みんなで、来たい」
「栞も萌も、里香さんや里香さんも、……もちろん麗さんもいっしょに」
「うん……っ」
葵くんはまたひとつわたしと約束をつくってくれる。
わたしと仲良くなるための出来事を葵くんはどんどん用意してしまう。
それだけで嬉しさがこみ上げて抑えられない。
身体がどんどん熱くなって、でも葵くんから目をそらせなくて。
……もう、どうしようもなく胸がときめいて、ドキドキが止まらなくなって、ダメだった。
「日の入りまでまだすこし時間があるよね……向こうの階段のところで座る? あ、でも綾の服が汚れちゃうか。なにか敷くもの持ってくればよかった」
「――あ、葵くんっ!」
あたりを見渡した葵くんがわたしのとなりから一歩、離れてしまいそうになったとき、わたしは葵くんを引き止めていた。
両手をぎゅっと握りしめていた。
今、言わないといけない。
わたしはもう、葵くんへの思いが溢れてしまいそうだから……!
「……綾」
葵くんはゆっくりと向き直ってくれた。
「なにかな」
海を背に立つわたしの3歩先で、朗らかな表情でわたしの言葉を待っていた。
わたしは足が震えていた。
「あ、あのね……?」
喉を震わせると背筋がぞわっと熱を帯びて、それが肋骨から全身に広がっていった。
「今日、葵くんに来てもらったのは、おはなしがあって……」
声が上ずってしまう。
口がぱさぱさに乾いて焦りが堪えきれなかった。
わたしは葵くんの優しい瞳を一心に見つめて、どうにか緊張を鎮めようと必死だった。
勇気をふりしぼって息を吸った。
「わたし、葵くんのおかげで、楽しいって思えることを見つけられた。わたしも音楽が……歌うことが好き。だから、最後に『言葉にすれば』を歌えてとっても嬉しかったの!」
葵くんは目を細めてくすぐったそうだった。
「……そう言ってくれると、おれも嬉しいよ」
「ありがとう――葵くん」
「綾はほんとうに、よく頑張ったよね。ほんとうにすごいよ」
葵くんが感慨深そうにつぶやいた声は、波音に紛れてしまいそうだった。
「それでねっ、……」
わたしは空気を飲み込んだ。
勇気とエネルギーがないと超えられない断崖だった。
この断崖を超えないと、葵くんとの距離はずっと縮まらないままだ。
言葉を続けないといけない。
「これからも歌の練習を続けたい。このまま終わってしまいたくないって思うの」
「おれも、綾の声はとっても綺麗だと思う。また聴きたいよ」
「だからねっ……!」
わたしは葵くんのほうへ小さく足を踏み出していた。
いまにも足がすくんでしまいそうだった。
これもまだわたしが一番伝えたいことじゃない。
だけど、わたしは、こんな不器用な方法じゃないと伝えられない。
葵くんが好きだって――
「また葵くんのお家に行ってもいい、かな――。葵くんといっしょに、これからも練習したい。あの夏休みの頃みたいに、またいっしょに過ごしたいの」
わたしは伝えた。
葵くんと家族になるまでまたお家にお邪魔して、いっしょに暮らしてからはもっと仲良くなって……
そんな日々を夢見ていた。
「…………」
葵くんは驚いたように小さく口を開いて何かを言いかけ、その時強く吹いた海風に一度やめてしまった。
小さく息をついてからもういちど笑顔を見せて、両手を後ろに組んでいた。
その一瞬一瞬がわたしの目に鮮明に焼き付いた。
言葉に困ったように右手で少し目元を拭っていて、それすらも優雅で、やがてゆっくりと口を開いた。
「……ごめん。それはできないんだ」
――えっ。
「綾はもう、うちに来られないんだよ」
海辺の風景は時が止まって、わたしは言葉をうしなった。
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