#0079 緊張のステージへ (1)【綾視点】
とうとう迎えた合唱コンクールの当日は、夏が終わってしまうのを惜しむように朝から青空が広がっていた。
本番の会場は落成したばかりの新県民会館だった。
駅前のほどちかく、ハスの大きな葉が埋め尽くす城址公園のお濠のほとりに、9月の日光を浴びる木々の緑なかへ身を隠すように真新しい大きな建物は立っていた。
わたしもみんなも中に入るのは初めてだった。
自動ドアをくぐると涼しい空調の風が火照った身体に染み込んで、明るい木目の内装でできた開放的な吹き抜けの、その見上げる天井に真白な柱がいくつも伸びていた。
長いエスカレーターで登った上の階にある客席の入り口の奥に進むと、わたしたちの中学校の生徒数をゆうに超える数の客席が3つの階にわたって広がっていた。
こんな新しくて大きなホールで演奏をするんだ。
みんな声をあげて感嘆していた。
客席には保護者の人たちもちらほらと見かけて、そわそわとした気持ちが生まれた。
わたしたちの中学校の校内合唱コンクールは、開祭式とアトラクションを兼ねた午前の部と、クラス合唱の披露と審査をする午後の部に別れている。
午前の吹奏楽部と先生方の有志による華やかなステージが終わってお昼の休憩時間になると、生徒はこぞってお弁当をかきこんでクラスごとに集まっていた。
この新しい県民会館は1階のロビーだけじゃなく2階のホール前のホワイエにも広いスペースがとられていて、そのあちこちでどのクラスも練習に励んでいた。
わたしたち3年1組も、道路を見下ろす2階の一角で最後の確認をしていた。
そこかしこから絶え間なく聞こえてくる他のクラスの歌声は渾然一体になってわたしたちの歌を何度もかき消した。
……どのクラスもわたしたちよりもずっと上手く聞こえてしまって、わたしは不安がどんどん募っていた。
「――全体練習はこのくらいにしよう。あとは各自、休むなり自主練するなり好きに過ごしてくれ」
けれど嵯峨君はお昼休みがまだ残っているのに切り上げてしまった。
どうして、まだほんの少し出だしを確認しただけなのに……そんなわたしの困惑をあらかじめ分かっていたように、嵯峨君はわたしに言った。
「残りの時間は、委員長が自分のピアノを練習してほしい。たぶん今委員長が一番不安なはずだから。俺たちは大丈夫だ」
男の子たちも女の子たちも、みんなわたしのほうへ頷いてくれた。
わたしは胸がじんとしてしまった。
「……粕谷さん、大丈夫?」
みんながリラックスした様子で思い思いに過ごす中、左沢さんが心配してわたしのところに来てくれた。
わたしはひとりみんなから離れて、大きな窓のそばのベンチに置いたキーボードに無心で指を動かして、たった2小節……あの3度のフレーズだけを何度も弾き込んでいた。
昨日の夜葵くんの家で見てもらった後、今朝もうちにあるピアノに触ってそこだけを入念にチェックをしていた。
けれどまだ不安が残ったままで、鍵盤に触っていないと落ち着かなかった。
わたしはスカートが床につくのも気にせず、指の動かし方はもう体にしみ込んでいたから楽譜には目もくれなかった。
「もうちょっとだけ、練習、したくて……」
わたしは答えながら鍵盤から目を離せず、練習することに思考が引っ張られてフレーズの切れ目にとぎれとぎれにしか言葉を伝えられなかった。
「そんなに無理しなくてもいいのに……そこ、私もあまり上手く弾けなかったから」
躊躇いながらもアドバイスをくれる左沢さん。
でも今、わたしたちのクラスの合唱もレベルが高く仕上がっている。
みんなは最後の練習時間を削ってまでわたしが伴奏を確認する時間をくれたから、わたしひとりだけが妥協なんてしたくない。
そんな気持ちを左沢さんに伝える心の余裕なんてなくて、
「……うん」
わたしは鍵盤から目を離せなくて、左沢さんには簡単な返事しかできなかった。
罪悪感が胸の中で広がりつつも、いまは何よりも時間が惜しかった。
わたしの指は狂ってしまったように同じ動きを繰り返して、いつの間にか本来のテンポよりもかなり早く弾くようになっていた。
そのおかげか、重音のメロディも自然につながって聞こえるようになっていた。
10回連続で弾いたのに、一度も躓かなかった。
ようやくわたしは納得できた。
これならきっと本番で弾けるはず……!
「ご、ごめんっ! 左沢、さん……」
わたしは嬉しくて、肩で息をしながらはっと顔を上げた。
左沢さんはもうわたしの近くにはいなかった。
わたしの呼びかけは誰にも聞こえることなく寂しく消えてしまった。
気づけばお昼休みはもうほとんど終わってしまっていて、ロビーにいる生徒も遠くに片手で数えるほどしか見えなくなっていた。
その誰もが足早に、ホールの入り口のあるほうへと向かっていた。
……そうだ! 音楽の先生のところにキーボードを返しに行かないといけないんだった!
わたしは慌てて立ち上がった。
キーボードと楽譜の入った鞄とを抱えてほとんど走るように1階への階段を下ると、入り口の自動ドアのところで壁に背を預けて立っている男の子と目が合った。
「あっ……」
「……」
丸山くん、だった。
踊り場にいたわたしは思わず足が止まってしまう。
まっすぐに見上げられて、すくみあがってしまったように身体が動かなかった。
丸山君は3秒くらいわたしのほうをじっと見た後、さっと目をそらしてエスカレーターのある奥へと去って行ってしまった。
わたしはひとり大きな荷物をかかえたまま取り残されていた。
……やっぱり丸山くんは、わたしから逃げているみたいだった。
結局丸山くんとはこの1か月、一度も言葉をかけられることも話しかけることもなかった。
わたしはもう気にしてないって、やっぱり伝えようと思ったこともあったけど……いつも刺々しい空気をまとっていて話しかけられなかった。
丸山君が何を考えているのか分からない。
もう、わたしと話したくないのかな……
1階の入口近くで待っていてくれた先生にキーボードを返しながら胸の中にもやもやと残った寂しい気持ちを、客席に戻るためには忘れないといけなかった。
午後の部、クラス合唱が始まると、午前中の盛り上がりとは一変したように会場は静かな緊張感に包まれていた。
ステージ上の発表を誰もが固唾をのんで見つめていた。
プログラムは1年生から順番だから、3年生のわたしたちは出番が着々と近づいてくるのにじりじりと焦燥感が高まっていた。
強張っていく気持ちをどうにか紛らわせようよ、わたしが1年生の頃に歌った懐かしい曲を演奏するクラスを聴きながら応援するようになっていた。
2年5組の出番の時わたしはぎょっとして、視線が舞台のまん中に釘付けになった。
涼しい表情で客席にお辞儀をする指揮者がなんと萌だった。
萌……たぶん、自分はあんまり歌いたくないからって楽そうな指揮に名乗り出たんだね。
淡々と腕を振ってテンポをとる萌は楽しくなさそうで、わたしは心のなかで苦笑してしまった。
……でも、わたしだって去年までは萌と変わらなかったのかもしれない。
わたしは委員長だから真面目に取り組んでいたと思うけど、今のわたしみたいに、どうしても成功させたいっていう切実な願いは持っていなかった。
わたしの中で今、何かが変わっている。
きっかけは、そう、夏休みの初めころにはじめて葵くんに出会ってから……
胸がドキドキと鳴っている。
わたしは胸に手をあてて緊張を鎮めた。
すぐそこまで迫った本番が怖いのも、葵くんとの日々があったからだ。
まだ2か月くらいしか知り合ってないのに、葵くんのおかげで、ほんの少し世界は変わって見えている。
萌のクラスの歌を聴きながら頭の中ではそんなことを考えていた。
2年生の発表が終わって15分の
ざわつくみんなが一斉に席を立っていく中で、わたしは不安な気持ちが急に沸騰していた。
いよいよだ……!
気づけば両手が震えだしていた。
呼吸が浅くなっていく中、誰かに縋りたい感情がおさえられなくなる。
鞄の中に入れていたスマートフォンに触れて、メッセージアプリを開いていた。
葵くんがいままでにくれたいろんなアドバイスを、最後にどうしても見ていたかった。
先生にみつからないかハラハラしながら鞄の中に入れたままの画面を食い入るように見ると、新着メッセージの通知に鼓動が跳ねた。
受信の時刻ははお昼休みの時間帯。
ついさっき、わたしがひとりで練習していた時だった。
葵『いよいよ本番だね。自信をもって、のびのびと弾いておいで』
葵『もしどうしても不安になっていたら、上手く弾こうとか、速く弾こうとかは考えないで。自分にできることだけを丁寧やろう。深呼吸して、焦らずにいつも通り、椅子の高さの調節と鍵盤を拭くのも忘れずにね。みんなを待たせるくらいがちょうどいいよ』
葵『新県民会館のピアノ、たぶん馴染みのあるのヤマハとかカワイじゃなくてスタインウェイっていうすごく良いピアノのはず。おれもこの間うちの中学の伴奏で弾いてきたけど、鍵盤がうんと軽くてブライトな音が鳴ったよ。いつもと違っても落ち着いて』
葵『あれだけ練習したんだから、あとは思いきりやるしかないよ。楽しんでおいで。good luck』
たくさんの言葉から目が離せなかった。
何度も読み直す。
……わたし今、このメッセージに気づかないまま舞台にあがるところだったんだ。
わたしは目を閉じて、言葉を胸の奥でかみしめた。
今まで過ごした日々、あのふんわり朗らかな笑みが、とても懐かしくて、頼もしかった。
……わたし、がんばらないと。
みんなのためにも、昨日遅くまで教えてくれた葵くんのためにも。
あの難しい3度だって、ぜったい成功させるんだ。
最後にもう一度、葵くんからのアドバイスに目を通す。
そして名残惜しい気持ちに区切りをつけてからスマホの電源を落とした。
わたしは葵くんからもらったハンカチと書き込みだらけの楽譜を手に、ホールの袖に出てゆくみんなの後ろに続いた。
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