#0080 緊張のステージへ (2)【綾視点】
舞台袖はホールの左前側からいったんロビーに出たすぐ右の鉄扉の向こう側だった。
扉の先はきらびやかな舞台上とは対照的で、薄暗い中にいろんな機材や使ってないピアノなんかが整然と置かれていて結構狭い。
午前中に演奏をした吹奏楽部の椅子もいくつも積み上げられていた。
栞のコンサートのアナウンス係をした時の、オホリホールの舞台裏を思い出した。
わたしたちは息をつめて出番を待っていた。
ステージ入口のすぐ前から男声パート、女声パート、指揮者、伴奏者の入場順につめて並んでいた。
そのすこし離れた後ろから担任の足立先生が腕を組んでわたしたちを眺めている。
けれど足立先生は本番のステージには上がらない。
わたしたちがここから出ていくのを見守っているだけだった。
「やべえ……緊張してる」
「俺も」
前の方で、いつも声の大きな男の子たちがひそひそ声で話し合っている。
女の子たちも身をぎゅっと縮めている。
わたしもみんなの一番うしろにいて、さっきから心臓の音が頭の中で鳴りっぱなしになっている。
深呼吸をしてもいっこうにおさまらない。
すぐそこに……舞台袖を仕切っている壁の切れ目から、ステージの光が筋になってこっちのほうにに伸びている。
あの壁のすぐ向こう側がもうステージなんだ……
手の震えが止まらなかった。
「綾、大丈夫?」
「う、うん」
すぐ隣の栞に心配そうに見つめられた。
わたしは返事をする声も震えてしまった。
その時、休憩時間の終わりを告げるチャイムが会場中に鳴りだして、何か言いたげだった栞は結局口を噤んでしまった。
クラスメイトたちもいよいよ張り詰めた面持ちになっていった。
会場アナウンスはもう3年生の部の開幕を告げている。
とうとう、始まるんだ……
いままでの練習は、たった今これからのためだったんだ。
わたしの心臓は張り裂けそうなほど強く打っている。
ふと見た目線の先に左沢さんの後ろ姿が見えた。
……そうだ。
わたしは小声で話しかけた。
「左沢さん。さっきはごめんね。返事、できなくて……」
もうだれもが集中して口を開こうとはしない中、左沢さんは少し驚いた様子で振り向いてくれた。
そして何も答えずに、引き締まった表情のまま再び前を向いた。
――ただ、わたしの左手を握ってくれた。
少し汗ばんだ手の感触と温かさがあった。
がんばろう――
わたしは手を握り返した。
これから立つステージに、左沢さんは……みんなは一緒に立ってくれる。
わたしたちの想いは重なっている。
そして、いよいよわたしたちのステージが始まった。
「こんにちは! 私たち3年1組はいつも賑やかな37人です。今日私たちは――」
クラスメイトの原田さんがクラス紹介の挨拶を始めると、わたしたちは整然とステージ上へ入場した。
頭の上から金色の光がわたしたちを強烈に照らしていた。
そのまぶしさと熱さに、非現実な浮遊感があった。
ついさっきまでいた場所と同じ空間ということが信じられない。
舞台の中央で客席を向いた。
たくさんの目がわたしを見ていた。
身体が粉々になってしまいそうだった。
怖い。
逃げ出したい……
だけどわたしの身体は逃げることも拒絶して、気づけば操り人形のように客席にお辞儀をしていた。
いよいよ演奏をしなければならないんだ。
わたしは泣きそうだった。
鍵盤の前に座ってみるだけでふらふらになりそうで、そして葵くんがくれたハンカチを握ったまま固まった。
……ピアノが、ヤマハだった。
葵くんのアドバイスと違う。
でもこれなら……そう、家にあるピアノもヤマハだし、何回も触ったことあるから、きっと大丈夫……
そう自分を言い聞かせて、持ってきた自分の楽譜を譜面台に広げて――
……わたし、どうやって弾いてたっけ。
ぞっとしてしまった。
何度も練習したはずの音符がいびつにゆがんで見えた。
思考が凍りついた。
あれ、あれ、どうしよう……
気持ちを落ち着けようと葵くんの書き込みの字を読もうとしても呼吸が速くなるばかりで、文字の意味がまったく頭に入ってこない。
――そうだ、昨日の夜からずっと、わたしは3度のところばかり練習していたんだ。
本番前なのに、楽譜をぜんぜん確認していなかった。
いまさらになってその過ちに気づいてしまった。
どうしよう。どうしよう……!
どう弾いたらいいかわからないよ……!
必死に助けを求めて指揮の嵯峨君を見つめた。
目が合うと嵯峨君はゆっくりとうなずいて、両手をみんなの目線の先にあげて、って、ダメ!!
――演奏が始まってしまった。
頭が真っ白になった。
本当なら歌い出す前はピアノで音取りをするはずなのに……
嵯峨くんもみんなも緊張で忘れている。
そして『言葉にすれば』の出だしはアカペラだから、一度演奏が始まってしまったら伴奏のわたしにはどうすることもできなかった。
わたしは悲痛な気持ちのまま、ほとんど無意識のうちにフレーズの終わりに合わせて糸口を掴んでいた。
全身にぞわっと熱が籠もった。
……わたし、弾けている。
本当に奇跡だった。
わたしの指だけが次に押さえる鍵盤を覚えていた。
けれど、指を動かす感覚がまったく無い。
耳に聞こえてくるピアノの音も、自分が出している音だと認識できなかった。
定点カメラの映像みたいな視界の真ん中でただ指が勝手に動いていた。
ヤマハのロゴが燦々と金色の光を反射してわたしは目がくらみそうになって、わけがわからなくなったその時。
左沢さんのソロがきこえた。
それはいつもの気丈でまっすぐな声でわたしに届いた。
わたしははっとした。
左沢さんの旋律はわたしを優しく導いてくれた。
わたしの沸騰しかけていた頭の中も静まって、心臓の鼓動が鳴っているのがようやくまた分かるようになった。
けれど余裕なんてなかった。
指の動きを制御するので精一杯になる。
楽譜を見ることなんてとても、ましてや指揮の嵯峨君や、みんなのほうなんてとても見ていられない……
コーラスが再開する。
簡単なはずの拍を刻むだけがとてつもなく怖い。
足ががたがた震えて右足がペダルから踏み外しそうだった。
額ににじんだ汗が頬を伝っていくのを感じる。
せっかく葵くんに貰ったハンカチなのに使っていないことに今になって気づいてしまった。
ひらひらと舞うような八分音符も、両手を使って弾く十六分音符も、暗闇の中で綱渡りをしているみたいで。
……熱くて、意識が朦朧とする。
少しでも間違えたらもう、わたしは弾けなくなってしまう。
今もまた、難所で指がもつれて心臓がとまりかける。
たった2小節先が分からなくなる瞬間があって、その度に息ができなくなりなりなる。
それほどまでにか細い指の記憶をたよりに弾き続けるしかなかった。
顧みられなかった譜面が、何も言わずに見守ってくれている栞の手で捲られていった。
そしてあの3度のパッセージが着々と近づいていた。
どうしよう……
昨日から練習してきた右手、さっきはうまく弾けていた。
ここまでだって、練習してきた音符は指が覚えてくれた。
きっと、この難しい3度だって……
……本当? ほんとに弾けるの?
みんなの歌をわたしが壊すことなんて、絶対できないのに……
今もまだ怯えてパニックのままで、ここまで止まらずに弾けているのが信じられないのに。
ついさっき弾けるようになったばかりのメロディを今ここで披露する、なんて。
そんなの、怖すぎるよ……!
張り裂けそうな鼓動にせきたてられて、わたしはとっさに重音を単音に省略して弾き始めていた。
熱に浮かされているのに、気持ちが凪いでいくようだった。
自信があったはずのあの響きが頭の中から失われて、薄くなった音がコーラスの和声のなかで不自然に浮き上がって聞こえた。
ピアノは4小節の休符に入る。
わたしは自分の速くなった呼吸を聞いていた。
……結局、弾けなかった。
やっぱり、たった2日の付け焼刃じゃダメなんだ。
気持ちがつんとした。
楽譜通りの音が弾けなかった自分がいとわしくなる。
……ううん、きっとこれで良かったんだ。
音楽はまだ続いているんだもん、最後まで気を抜いちゃダメ……
そう言い聞かせて伴奏を再開した。
曲はいつの間にか終わりに向かっていた。
わたしはもう、目の前の1音1音を辿るのに懸命で、弾き終えた音のことはすべて忘れていた。
だけど、わずかな間の休止はわたしの頭の中をクリアにして、ピアノが歌に再会したとき、わたしの心は少しだけ緊張に立ち向かう勇気を持っていた。
ようやく嵯峨くんのほうに目を向けることができた。
嵯峨くんは汗を滴らせながら、わたしたちを鼓舞していた。
クラスのみんなは2群に別れてひとつの歌を歌い分けている。
わたしも左手のオクターブで
……何度も何度も練習した曲の終盤。
絶対に間違えたくない。
わたしは焦燥感に駆られてまともに呼吸ができなかった。
お願い、どうか、最後まで止まらないで……
神様……!
わたしは必死に願っていた。
またピアノが沈黙する。これは楽譜通り。
いままで繰り返したポップスのリズムを最後に奏でるみんなのコーラスは、まるで伴奏というレールをはずれて大空に飛び立っていくようだった。
そしてわたしのピアノも勢いよく加わって、一瞬で曲を閉じた。
嵯峨君が静かに手をおろすと、会場から大きな拍手が聞こえてきて――
審査の結果、わたしたちは3年生の6クラス中3位の優秀賞だった。
最優秀賞は栞のいる2組。
栞は最優秀伴奏者にも選ばれていた。
……わたしは、なんとか最後まで止まらずに弾ききることができた。
正直、悔しさはあった。
ずっと練習してきた3度は結局弾けなかった。
終始平常心でいられなくて、練習での演奏からはほど遠かった。
それに、みんなと一緒に歌う楽しさもほとんど感じる余裕がなかった。
伴奏も歌の一部、って葵くんも教えてくれたのに、わたしは自分が失敗しないことしか考えられなかった。
もっと落ち着いて弾けなかったのかな……そんなことばかり思い浮かんでしまう。
だけどやっぱり、一番強く感じるのは無事終わったことへの安堵だった。
……この1か月、練習は本当に大変だった。
思うように指が動かなくて何度も心が折れかけた。
でも、わたしの苦労や不安だった気持ちは、舞台袖に捌けたあとクラスの女の子たちに囲まれて肩や背中をばしばし叩かれてもみくちゃにされたときに全部報われていたのだった。
わたしは今、表彰式が終わって生徒たちが一斉に帰途につく雑踏のなかにいた。
まだどこか夢見心地のまま栞と萌の姿を探していた。
「粕谷さん!」
会場の入口近くまでたどり着いたとき、背後からわたしを呼ぶ声が聞こえた。
振り返るとそこにいたのは左沢さんだった。
すこし後ろには最優秀指揮者のトロフィーをもった嵯峨くんもいた。
「よかった、まだ帰ってなかったんだ」
「うん。栞たちを探してて」
「ていうか、粕谷さんそっけないよ! すぐ帰ろうとしちゃうなんて」
「あっ、ごめん……」
あんなに不安だった本番が終わってしまったのがなんだか実感がわかなくて、わたしはあんまり周りが見えていなかったみたいだった。
「でも、どうしたの?」
「あのね、粕谷さん……私と」
左沢さんは右手をぎゅってにぎって、意を決して口を開いた。
「私と一緒に、写真に映ってほしいの……!」
わたしは呆気に取られてしまった。
だけどすぐに、甘酸っぱいものが胸の中に広がっていった。
「私、すごく大事な思い出ができた。今日、粕谷さんの伴奏で歌えたのがほんとうに嬉しかったの。だから、思い出を残しておきたくて……」
「うん。良いよ」
わたしは微笑んでいた。
だって……家族以外の誰かと写真を撮るなんて、ほとんどなかった。
なんとなくみんな、わたしと一緒に映りたがらないのも感じていた。
だけど左沢さんは、わたしにとって……
「ほんと……? いいの?」
左沢さんは目を見開いて、頬が紅潮していた。
「わたしなんかでよければ、だけど」
「粕谷さんが"なんか"って言うなら私はなんて言えばいいの! もう!」
わたしは左沢さんに手を引かれる。
左沢さんの瞳は輝いていた。
わたしたちは緑豊かな新県民会館の入り口にふたり並んで、嵯峨くんがスマートフォンでシャッターを切ってくれた。
左沢さんとこんなに仲良くなれて、嬉しくて、照れくさくて……
隣同士目を見てはどちらともなく笑いあった。
わたしたちの初々しい気持ちはまるで入学式の新入生みたいだった。
そうしているうちにクラスの女の子たちが何人かやってきて、栞と萌もやってきて、いつの間にか写真に映ってる人数はずっと多くなっていて。
人の輪はこんなににぎやかで、わたしはその真ん中にいた。
クラスメイトと過ごす時間がこんなに嬉しくて心が弾むんだ……
そんなことを、今日わたしははじめて知ったかもしれなかった。
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