#0078 前夜





 本番前夜――

 静かな緊張感がじわりと生じて部屋の空気はぴんと張り詰めていた。


 夏休み明けからほぼ毎日うちにやってきて鍵盤に向き合った綾も今日は言葉数が少なかった。


 綾の不安におれができることはほんの少しだけだった。

 たとえばこうして、気を紛らわそうと一人で鍵盤に向かい続ける綾に、温かいミルクティを淹れてあげること。


 どんなに願っても、祈っても、本番は綾が自分で弾くしかない。

 おれはステージの上で綾のそばにいてあげることもできないのだ。


 そして泣いても笑っても、明日の今頃にはすべてが終わっている。


 それを考えると……他人のおれでさえ震えそうになる。



 練習室に戻りそばにあった物書き机にそっとカップを置くと、気が付いた綾と目が合った。

 それまで絶えなく続いた和音の刻みがふと途切れ、窓外の虫の音が遠くから聞こえてきた。


 雫にゆらぐ瞳に見つめられていた。



「……よく、ここまで頑張ったよ。本当にすごい」


 おれは見上げる綾の肩にそっと触れた。



「最初、1回通して弾くだけでも大変だったのにね」


 綾は頬を赤らめながらも笑ってくれる。

 自信なさげに小さく頷いていた。


 おれはおもむろに机の前にあった椅子をもってきて、綾のとなりに座った。


 ……後ろ手にあるものを隠しつつ。



「緊張してる?」

「……うん」

「おれも本番前は、逃げてしまいたい気持ちになるよ」


 そうだ。

 怖いにきまってる。


 だって、今までの積み上げた練習の結末が、やり直しのきかないたった5分間で決まるのだ。



「……でも、失敗が恐怖に感じるのは、成功する可能性があって、それを信じているからだと思うんだ」


 そう思いたい。

 おれは綾に優しく言って聞かせる。


 これはあのときの綾が選んだ未来だ。

 少しでも前向きでいてほしい。

 


 ――もしあの時伴奏を断っていたら、きっと今、優しい綾は重い罪悪感に苛まれていたのかもしれなかった。



 綾は夏休みが明けてからほとんど毎日、放課後になるとおれのもとへやってきて食事も忘れるほどに基礎練習ハノンと『言葉にすれば』の伴奏に没頭していた。

 栞たちと集まっていた日や、おれの中学の合唱祭が本番を迎える期間はどうしても、与えた練習を一人でこなしてもらう必要もあったけれど、綾はそれも黙々とこなしてくれた。



 その甲斐あって、本来のテンポにはまだ少し及ばないながらも何とか形になったのが、いまから5日前。

 クラスとの合わせ練習も急ピッチで進めたらしい。


 テンポとかタイミングとか、決めておくことが沢山あるはずだ。

 練習の主戦場は放課後の学校へと移り変わって、それでもなお、おれのもとへ通うのを止めようとしなかった。


 数えきれないほど弾いて、間違えた音を鳴らした綾。



 ――そのひたむきな努力が、明日、実を結ぶのだ。



「……葵くん」


 おれは綾の手を取った。

 真っ白で細くて、巨大な楽器を鳴らすにはあまりに頼りない手だった。


 指の絡み合う感触。

 言葉もなく、ふたりぶんの視線がはかなく混じり合う。



 おれも綾も、一度触れ合っただけで離れられなくなってしまった。



「ん……」


 そっと頬を撫でると綾は心地よさそうに目を細めて、所在なさげだった手をゆっくりとおれの胸においた。


 おれは隣り合う綾の身体を抱きしめるのを堪えられなかった。



「最初、おれは綾が1カ月で弾けるようになるのは無理だって言ったね。……ごめん。綾のこと見くびっていたよ」


 綾はおれの腕の中で小さく驚いてからそっと手で背中に手を回した。

 心細い気持ちを上書きしようとして、おれから決して離れようとしない。



「ううん。葵くんのおかげだよ」

「実際に頑張って、弾けるようになったのは綾自身だ。だから胸を張って明日を迎えてほしい。もし……本番がうまくいかなくても、今まで綾の頑張りは、おれが一番知ってるよ」


 綾は熱っぽく頬を赤らめて、宝石のような瞳が潤んでいた。



「……綾に、プレゼントがあるんだ」


 いったん身体を離して、背後から綺麗な包装を取り出して見せると、綾は本当に思いがけない表情で受け取った。



「中、見ていいよ」


 おれは促して、綾に開封してもらう。

 その長い睫が瞬かれて、しきりにおれへと目くばせするのに、つい見惚れてしまう。


 中から出てきたのは、薄い桃色の――折りたたまれたタオル地のハンカチ。



 綾の瞳が見開かれたのが見えた。



「これって――」

「明日、おれは本番を見にいけないから、よければ使ってよ」


 ピアニストにとってのハンカチという道具。

 おれがそれを贈るとき、どんな想いを込めているのか。


 綾には以前、教えたことがあった。



 これは形代だ。



「……うん。絶対使う。ありがとう」


 綾の両手がおれを包んで、綾は嬉しそうだった。

 気持ちが混じりあって、もう一度、今度は綾から寄り添ってくれて、温かな体温が伝わりあった。


 その心からの感謝に、腕の中にいる綾の髪を撫でて応える。

 綾はおれに身体をあずけて柔らかに微笑む。


 永遠にこのふたりきりの幸福が続けばいいのにと思う。


 けれど悲しいことに、おれと綾にはもう時間が残されていなかった。



「……そろそろ、最後の練習をしよう」





 ミルクティーを飲んだあと、綾にはひたすら環境を変えて弾く練習をさせた。

 一度きりの本番を想定したものだ。


 本番のステージの沢山の照明が煌めくなか、大勢に見られながら、はじめて触る楽器でたった1曲を弾く難しさは、経験した人でなければ分からない。

 ほんのわずかな気の迷いも取り返しのつかない失敗の火種になる。



 だから、まずは椅子の高さを極端に変えた。

 次にピアノの大蓋を開け、譜面台を取り払って音の聞こえ方も変えさせた。

 椅子の場所や角度を変えて、楽譜の1オクターブ上で弾き始めさせることもした。

 最後には、鍵盤の軽さも跳ね返りも全く違うアップライトでも一回通してもらった。


 できうる限り条件を変え続けて、同じ条件では二度と弾きなおしはさせない。

 一回一回、本番のつもりで、何があっても絶対に止まらずに弾き切る。


 "一発勝負"の訓練。


 こんなことをしても気休めにしかならないかもしれない。


 けれど綾は、普段との違いに戸惑いつつもいつも以上の緊張感で臨んでくれて、一回も止まらずに弾きとおしていた。


 綾は驚くほど成長した。

 おれはもう、黙々と鍵盤に向かう後ろ姿を安心して見守っているだけで良かったのだ。



 そしてついに考えつく限りの手が尽きてしまう。


 けれども綾は、これで終わってしまうのが名残惜しく、どこか納得できていないようだった。



「緊張の対処なんて、正直おれもよく分からないよ。できることは結局、悔いのないように練習して、目の前の音に集中することだけだと思う」

「うん……」


 できるだけ綾の負担にならないように声をかける。

 綾はそれでも言い淀んでいて、おれがゆっくりと頭を撫でているとようやく口を開いた。



「……3度のところ。やっぱりちゃんと弾けるようになりたい」


 聡明な瞳は、まるでわがままを言って大人を困らせたくない子供のようだった。



  右手が3度の重音で上昇してゆく、曲中で一番難しい箇所。

 綾はそこだけがどうしても弾けなかった。


 練習のネックになっていたので、おれはやむなく内声部の音を省略して弾くよう助言していた。


 たった2小節だし、初めて聴く人ならまず気づかない。

 だけど綾は心のどこかで、楽譜通りに弾けていないことを後ろめたく思っていた。




「でも……本番は明日だし」

「良いよ。やろう」


 おれは綾の言葉を遮って微笑んだ。


 もう大分遅い時刻になっている。

 体力的にもう休んだ方が良いのかもしれない。


 でも、おれは綾の純真な願いを叶えると決めていた。



「今日でもう最後だよ。綾が後悔しないように付き合うよ」

「葵くん――」

「いつまでも、気のすむまで」


 そうして、おれたちはふたたび鍵盤に向かった。

 延長戦だ。



 おれたちは問題の箇所を一度バラバラにしてゆっくり弾くところからやり直した。


 幸い左手は単純に拍を刻むだけだから右手だけに集中すれば良い。

 指の関節ひとつひとつを意識させて、3度のフレーズだけを何度も繰り返した。

 力の弱い薬指と小指の動きを丹念に訓練してあげると、どうにか2小節だけ形になってきた。


 疲れるたびに休憩をはさみ、練習に没頭しているうちに、やがて玄関の開く音が聞こえてお迎えの里香さんがやってきたのが分かった。

 その頃にはその前後の小節までがぎこちないながらに通るようになっていた。



「あおいっ。それから綾も、調子はどう?」


 背後から聞こえた明るい声に思わず椅子を立って振りかえる。

 目が合った屈託のない笑みが空気を華やかにしていた。


 今日は栞も来てくれたんだ。


 綾は玄関から入ってくる靴の音にも気が付いてなくて、おれの背後で頬を赤らめて俯いてしまっていた。



「上々だよ。いま、難しいところをもう一度練習してたところ」

「ボクの出番は無さそうなんだ?」


 栞には綾が弾けなかった時のためのバックアップをお願いしていたけれど、その心配は杞憂に終わりそうだ。

 元々の予定通り、綾の譜めくりをしてもらうことになるだろう。


 と、栞がおれのそばにやってくる。


 ふふっと口角が上げていた。



「ねえ葵、ボクのことぎゅってしてよ」

「えっ」

「もう。ボクのこといっぱい抱きしめてくれるって約束したの、忘れたの?」

「……忘れて、ないけど」


 おれは歩み寄ってきた栞を両腕で受け止める。

 力いっぱい抱きしめてあげると、夏の夜の熱が残った栞への愛おしさがこみ上げる。



「葵、好き……♪」


 背中に腕を回すと柑橘のさわやかな香りがふわりと漂っていた。

 栞が心地よさそうにカラダを押しあてて、おれはどうしようもなく鼓動が跳ねる。



 栞のストレートな愛情表現。


 蚊帳の外にされた綾の寂しそうな、羨ましそうな視線を背中に感じた。


 いたたまれない気持ちにさせられながらも、おれの手は栞の髪に触れていた。



「ふうん。こんなふうに綾の頭もナデナデしてたんだ」

「…………」


 一瞬、おれにだけ聞こえた栞のつぶやきは虚空に溶けて消えてしまう。



「ねえ、綾もおいでよ」


 すると栞は一歩身を引いて、綾のそばへと歩み寄っていた。



「葵から勇気を貰わなきゃ、本番で綾の心臓は張り裂けちゃうよ」

「でも、わたしは……」

「明日の主役は綾なんだよ?」

「あ、栞……っ!」


 栞は綾の手を引いて椅子から立たせて、さらにおれのもとへと強く引き寄せた。



 ぽふ。


 そんな効果音とともに、バランスを崩しかけた綾をおれが受け止める。


 綾の体は、さっきふたりきりで抱きしめた時よりも熱くなっていた。




 直後、遅れて部屋に入ってきた里香さんに見つかって呆れた言葉をもらうのだった。

















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