#0077 ひみつ (3)





 ふたりの姿が廊下に消え、ふと、もしやおれの部屋に行くつもりじゃなかろうかという不安が頭をよぎる。

 でもこの間おれは栞を部屋に入れているわけで、今ここで止めるのもおかしな気がした。


 そして後に残ったのは、



「あはは……」

「……」


 グランドピアノの横で苦笑してしまうおれと、ソファで肩をすぼめている左沢さんのふたりだった。

 今日会ったばかりのおれたちは落ち着かない。



「紅茶か、コーヒーでも入れてこよっか」


 そう声をかけても左沢さんは無言で首を振った。



「……あの、葵さん」


 小さな声は掠れていた。



「ありがとう、ございました」


 重い口を開いた左沢さんは緊張していて、おれはすぐにその意味がつかめなかった。



「……私のために、譜面台まで用意していただいて」

「ああ、そのこと」


 おれは、左手がまだ不自由なままの左沢さんが練習に参加できるように、折りたたみ式の譜面台を新しく準備していたのだ。


 だけど、このくらいは引き受けて当たり前だと思う。

 会ったことのなかった相手の言い出したことに付き合わせてしまった上に、特に左沢さんには合唱部員だからと一番大変なパートを任せてしまっているのだから。



「粕谷さ……綾さんの伴奏は、どんな感じですか……?」


 左沢さんは心配そうに顔を上げた。


 思わず左沢さんの痛々しい左腕を見てしまう。

 自分が怪我をしてしまったせいで……そんな罪悪感があるのかもしれない。



「綾は……頑張ってるよ。すごく」


 あれから綾は毎日鍵盤に向き合いつづけている。


 それでもまだ本来のテンポで弾くまでには至っていない。

 だいぶ指を動かす勘は取り戻しているけれど、本番までに残された時間を考えたら楽観的な思考にはとてもなれない。



「不可能、ではないと思う。ゆっくりとだけど一応破綻なく弾けるようにはなってるよ。いずれ歌とも合わせられると思うけど……」

「やっぱり本番までは、難しいですか?」

「ごめん。わからない」

「そう、ですか……」


 綾の頑張り次第、という言い方はしたくない。

 それじゃまるで綾に丸投げしているみたいだ。


 でもやっぱり、おれにできることなんて少ししかないのだ。

 本番で弾くのは綾なのだから。



 左沢さんは肩を落としていた。


 おれは近くにあった書き物机のイスを持ってきて、意気消沈した様子の彼女と話すために腰をおろした。



「……綾は前、おれにこう言ったことがあるんだ。――"学校に友達がいない"、"まわりの子が仲良く話してるのを見るとちょっぴりうらやましい"って」

「粕谷さんがそう言ったんですか?」

「そう。でも、今日は左沢さんに会えてよかった。実際はこんなふうに心配してくれる人が近くにいるって知れたから」


 彼女は困惑して、静かにおれを見つめ返した。



「綾の友達なんだよね?」

「わ、わたしはただ、最近……」


 彼女の言葉は否定も肯定もできず、自信の無さと戸惑いだけを残して虚空へと消えた。



「……最近、粕谷さんは変わったんです。前までは、美人でみんなに優しくてなんでもできる、女神さまみたいな委員長だったんです。でも最近は、隙が多くなったっていうか、柔らかくなったっていうか……」


 左沢さんの呟きに、おれは最近ずっと見てきた綾の表情、声……それらを思い浮かべる。


 おれと彼女が抱いている綾のイメージは、一致していた。



「……とっても努力家だよね」

「そう、そうなんです。あんなにがんばり屋さんな粕谷さん、初めてだったんです。歌うのが楽しいって言ってくれて、とても熱心にわたしに質問してくれるんです」



 けれど綾は出会ったばかりの頃、おれに零したことがあった。


 ――"自分のやりたいことが分からない"


 学校でも家でも周囲から頼りにされるばかりで、からっぽの自分を綾は厭っていたのだ。

 でも、今は――



「うちに来て歌っていたときの綾も、誰かのためじゃなくて、自分が心から楽しんでたよ」

「……そう、ですね」

「それは左沢さんのおかげでもあると、おれは思うんだ」


 捨て猫のように見上げる左沢さんにおれはうなずいた。



「一部の男子とか先生にはあまり理解してもらえなかったようだけど……左沢さんとかほかの女の子たちは、綾の頑張りをちゃんと認めてくれてたんだよね?」

「それは……でも、わたしなんか」

「確かに綾はずっとうちに来てたけど、学校でも毎日クラスメイトたちと練習してたんだ。だって……合唱は、ひとりではできないから」

「…………」

「学校で、綾のいちばんそばにいたのが左沢さんなんだと思う。綾にアドバイスをして、そしてひどいことを言われた綾のために立ち向かてくれた」


 綾がおれのことを左沢さんに伝えていなかったように、おれも綾が学校で左沢さんとどんなふうに接しているかはよく知らない。

 だけど、今日はじめて話した左沢さんは――



 自分が怪我をしてしまったことへの罪悪感と、綾のことを心配する不安な気持ち。

 そして、綾の友達と即答できない引け目。


 彼女はそんな感情を胸に抱きながら、綾のために、おれや栞と同じ目的をもって今日ここにいる。


 そんな女の子が、綾と友達になれないわけがない。



「あの日、憔悴した綾におれはこう言ったんだ。『綾が本当に伴奏をやりたいならもちろん応援するけど、無理して引き受けようとしてるならやめても良い』って。おれは綾が本当にしたいことを尋ねたんだ」


 綾は、その答えをすぐには見つけらなかった。

 けれど、ほんのすこし休んだあと綾がおれに告げたのは……



 ――"左沢さんとクラスメイトが仲直りする手助けをしたい"



「……私にも、そう言いました。自分が歌っていたソロを譲るから、千尋と一緒にみんなをまとめてほしいって。あ、千尋っていうのは指揮で、私の幼馴染なんですけど」

「綾らしいよね」


 誰かのためにうんとがんばり屋になれる綾は、あの嵐の日にひどく傷ついて、けれどまた周りのために傷を癒やしてまた立ち直ったのだ。

 なんと優しくて心の強い女の子なんだろう。


 ……そして、綾が誰かに優しくするように、綾にも誰かからの優しさに浸してあげたい。



「綾が変わったって思うのは、たぶん、綾と左沢さんの距離が近づいたからだよ。ただの他人のためにあんな困難な方法はとれないよ。綾もきっと、左沢さんと仲良くなりたいって思ってるんだよ」

「……ありがとうございます。葵さん、優しいんですね」


 気づけば左沢さんは目に涙をためていた。



「4人で頑張って綾のことびっくりさせようよ」


 おれは座っていた椅子からそっと立ち上がり、手を差し伸べる気持ちで左沢さんに微笑んだ。


 他人想いで、心に強い芯があって、誰かのために落ち込むこともあって……


 左沢さんと綾は似ている。

 ふたりはきっと仲良くなれるはずだ。



「あの、葵さんは粕谷さんとどうやって仲良くなったんですか?」

「"友達になってくれませんか!" ――って綾に言われたよ」

「え……」

「面白いよね、あんなに他人想いなのに自分のことは不器用なんだよ」


 苦笑するおれに、左沢さんは唖然としていた。


 ……でも、今綾と親しく接しているのも、あの最初の一歩があったおかげだ。



「どんな言葉で伝えるかは、あんまり重要じゃないよ。左沢さんの気持ちはきっと綾に伝わると思うし、綾がそれを無碍になんてしないよ」


 おれの言葉に左沢さんは頷きながらもう一度感謝を伝えてくれたのだった。







 一通り話し終えた左沢さんをつれておれがリビングに入った時、栞と夏帆はソファに並んでおれの小学校の卒業アルバムを開いていた。



「……って、何してんの!?」


 事態を飲みこんだおれは早く取り上げようと詰め寄るけど、夏帆の手によってひょいと躱されてしまう。

 おれの腕は空を切って夏帆の脇腹を掠める。



「何するのよ変態!」

「こっちの台詞だよ! なんで人の卒アル勝手に見てるんだよ!」

「良いじゃない! うちにも同じのがあるんだから!」


 おれは夏帆が腕に抱えていた分厚い表紙をがっしり掴んで、引っぱりあいになる。

 だけどおれと夏帆の力は綱引きのように拮抗して一向に取り戻せない。


 こいつ……! どんだけ馬鹿力なんだ!



「待ってよ。ボクだって昔の葵のことを知りたいんだ」

「栞、でもこれはおれが恥ずかしいから……」


 そばで見てた栞がおれの腕にそっと触れる。

 おれが腕の力を抜くと均衡を失った夏帆はソファから転げ落ちていた。



「あなたねえ!」

「じゃ、じゃあ今度ボクのアルバムも見せてあげるよっ。それでもダメかな……?」


 栞の無自覚な上目遣いが……!


 心臓が止まる!

 お願いだからそんな可愛い顔でお願いしないでください!!



「……分かった。見ても良いけど、でも夏帆が変なこと言わないように見張ってる条件で」

「やった♪ ありがとう葵」

「……やっぱり変態じゃない」


 夏帆は黙っててよ!


 すると後ろに隠れていた左沢さんまでおずおずとやってくる。



「……私も、見ても良いんですか?」

「えっ、い、良いけど……そんなに面白くないと思うよ?」


 なんと4人でソファに並ぶことに。

 おれの隣には腕を絡ませて離そうとしない栞がいて、夏帆の隣には左沢さんがちょこんと腰を下ろしている。


 女の子の甘い匂いが混じりあって頭がくらくらしそうだ……



「うちの学校、生徒が少ないから学校行事の写真が大半なのよ。入学式に始まって林間学校に運動会、そして修学旅行まで」

「良いなあ。うちはみんなちょっとしか写ってないんだ」

「本物の天使がいます……! 小学生にしてなんですかこの完成度っ、おふたりともレベル高すぎますよ!」

「やめてくれ……」


 3人がはしゃぎはじめるのを見て早々おれは頭を抱えていた。

 恥ずかしくて死にそうだ!



「こっちもすっごく可愛いよ! この子は夏帆のお兄さん?」


 いつの間にか栞はページを捲っていて、遠足の時の写真を指さして黄色い声を上げていた。

 そこには、山道を手を繋いで歩いている夏帆と淳之介さん――夏帆の兄さんの姿が写っていた。


 夏帆が無邪気にカメラに向かってピースしている。

 こんなふうに素直な時代もあったんだ……



 ……ていうか、栞いつの間に夏帆を名前で呼ぶようになったんだろう。



「ええ、そうよ。私のおにい……兄の淳之介。いま高校2年生」

「……おふたりの髪の色が山道の風景に映えて、絵画みたいです」

「そんなふうに褒められるとくすぐったいわね。ありがとう」

「それにしても手を繋いで山登りなんて、よっぽど仲が良い兄妹なんだね」

「こ、このくらい普通よ。誰だって昔はこんなふうじゃないかしら」

「今だって淳之介さんと相思相愛のくせに……」

「……うちの小学校では毎年、遠足の時にみんなで俳句を詠んでいるのだけど」

「まてまてまて! 何言おうとしてるの!」

「この男が3年生の時に作った句は……」

「やめてってば! ごめん悪かったから!」


 おれが涙目で夏帆に懇願する様子に残りのふたりは大笑いしていた。
















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