#0071 もういちど (1)【綾視点】





 わたしはそのまま葵くんの家で夜を明かしてしまった。


 そして翌朝。

 わたしはいつもより早起きして、葵くんの家を出た。


 それは学校に置きっぱなしだった荷物を取りに行くためだった。



 あんなに激しかった嵐は落ち着きつつあった。

 空は鉛色の雲が低く覆っていて、涙を流すように雨が静かに降り続けていた。



 空はまるでわたしの心を映しているようだった。


 市内に戻るわたしの足取りは決して軽くなかったけど、気持ちはほんのすこしだけ回復していた。




 土曜日の朝の校内は人がまばらだった。


 静かな校内を歩いてひとまず職員室にいってみた。

 足立先生は来ていなかった。

 他クラスの先生を見つけて尋ねてみると、わたしの荷物は石野先生が預かってくれていることを教えてくれた。



 けれど保健室に石野先生はいなかった。



「あっ……」

「……粕谷、さん」


 わたしが保健室の引き扉を開くと、部屋の真ん中に置かれたソファに左沢さんがぽつんと座っていた。

 目が合ったわたしたちは固まってしまう。


 扉を閉めて中に入ってみる。

 左沢さんの他に誰もいないみたいだった。


 そして奥にある石野先生の机の上にわたしの通学鞄スクールバッグがあるのが目に入った。


 荷物は勝手に持っていって良いって言伝されていたけれど……



「……あの。左沢さん」


 昨日、わたしは誰にも何も言わずに病院を後にしてしまった。

 わたしは左沢さんと会って、もう一度話がしたかった。



「隣、良い?」

「あ……うん」


 左沢さんは目を合わせないままかすかにうなずいた。

 わたしはそれを見て、同じソファにそっと座った。



 葵くんの家で休んでいる間、考えていた。


 自分がどうしたいか。

 左沢さんになんて声をかけるか……


 正直、まだぜんぜん整理がついていなかった。



「身体は、平気?」

「うん。もう退院したし……」

「そっか」

「……」


 良かった、とは言えなかった。

 左沢さんの左手はまだギプスが装着されたままだ。


 左沢さんは俯いてしまう。

 わたしもつられて無言になってしまった。



 わたしたちはお互いに、かける言葉が見つけられないでいた。



「粕谷さん」


 左沢さんはぽつりと訊いた。



「粕谷さんが、わたしのかわりの伴奏をするって本当? 足立先生から聞いたんだけど、間違いだよね……?」


 掠れて震えた声だった。

 わたしは小さく首を振った。



「そんな。足立先生に言われたの? クラスから伴奏出さないと、賞とれないって」

「……うん」


 わたしが正直に言うと、左沢さんは蒼ざめた。



「本当に、ごめん……私のせいで」

「……わたしだって、左沢さんや、みんなの夏休みを使わせちゃった。わたしのほうが、たくさん迷惑かけちゃってる」

「でも……」


 左沢さんは肩を震わせていた。


 わたしはその右手にそっと触れた。



「お礼、言いたいの。左沢さんに」


 左沢さんはようやく目線をあげてくれた。


 わたしは昨日、葵くんから勇気をもらった。

 今度はわたしが左沢さんにそれを分けてあげたかった。



「わたし、左沢さんと一緒に練習するのが楽しかった。上手くなってるって言ってくれたのがとっても嬉しかったの。もっと頑張ろうって思った。ソプラノの子たちからも、発声とかフレーズとか、訊かれるようになったの。わたしひとりじゃできなかったから――」


 それはわたしの、心からの「ありがとう」だった。

 そして、わたしは左沢さんの右手をとった。



「わたしが伴奏することになったら……正直、みんなともう歌えないのは残念、だよ。わたしなんかが、上手く弾けるかもわかんないし」

「っ、……ごめん、粕谷さん」

「ううん。でもわたし、やってみようって思ってる。大変かもしれないけど……でも、挑戦してみたいの」


 左沢さんは驚いていた。

 なんで……? そんな困惑した目でわたしを見つめ返していた。



 自分でもなんでなのか、よく分からない。

 言葉にするのは難しかった。


 いまわたしは、左沢さんのかわりの伴奏をやってみようって思っている。

 自分の心からの気持ちだった。


 みんなへの謝罪とか責任感とか、そういう気持ちじゃないことは確かで……



「……想像してみたの。もし左沢さんのかわりを栞にお願いしたときのこと」


 ――昨日葵くんは、わたしに優しく言ってくれた。

 わたしはなにも悪くない、わたしが伴奏なんか引き受けなくてもいいって。


 もしかしたら本当に、そうなのかもしれない。



 でも、もし本当に栞に伴奏をお願いしたらどうなるのだろう。


 そこでわたしは何をするんだろう?

 たぶん、わたしは相変わらずソロを歌っている。



 ……じゃあ、左沢さんは?

 伴奏ができなくなった左沢さんの居場所は?


 左沢さんは、みんなにまじってアルトのパートを歌うんだ。



 伴奏者から立場が変わって、指揮の嵯峨くんと話しあうこともなくなってしまう。

 きっと、ほかの男の子たちともギクシャクしたままだ。



 ……そんな中、わたしだけが今まで通り自分のソロを、満足げに歌っているなんて。


 そんなの、嫌だった。

 だから――



「左沢さん。わたしのかわりに、ソロ、歌ってほしい」


 わたしが伴奏をして、左沢さんがソロを歌う。

 それが、わたしが思い描いたもうひとつの未来だった。



「わたしが、ソロ……?」


 左沢さんは目を見開いていた。

 わたしは頷いて、その手をぎゅっと握った。



「わたし、歌うのが好きになったの。でも左沢さんは、もっとずっと前から好きだったんだよね」


 本当はわたしも、自分のことで精一杯だったはずなのに。


 ……でも、どうしても。

 わたしは、大切な誰かのことを想わずにはいられない。



「左沢さんには、一番好きなことやってほしい。怪我をして、大変な目にあったから……これが、いまのわたしの気持ち」

「粕谷さん……」

「もしかして、嫌、だったかな」

「ううんっ……! そんなことないよ……!」


 もしかして、わたしの同情でかえって傷つけていないかって心配になってしまうと、左沢さんは首を振ってくれた。



「でも、それじゃ粕谷さんが」

「わたし、ようやく自分が楽しいって思えることが見つかったかもしれないの。だから、後悔したくないって思ったのかな。それに、やっぱりみんなの努力を無駄にしたくないよ」

「でも……」

「もしどうしてもできそうもないって思ったら、その時は栞に弾いてもらうつもり。栞なら一晩で完璧に弾いちゃうんだから。だから、安心しててよ」


 不安そうに見つ返す左沢さんに、わたしは自然と微笑んでいた。



「だから、左沢さんにやってほしいんだ。左沢さんが歌ってくれたら心強いよ」

「うん……わかった。わたしやる」


 左沢さんは何度も頷いてくれた。

 その頬には透明な涙が伝っていた。


 わたしの想いが左沢さんに通じて、胸がじんとした。



「わたしまで涙がでそうだよ」


 左沢さんは泣きながら笑ってくれる。

 その表情に、わたしはようやくほっとできたのだった。



「それとね……――」


 ……そして、もうひとつ気がかりなことを、まっすぐに伝える勇気がでてきた。



「わたし、左沢さんと嵯峨くんに仲直りしてほしいの」


 左沢さんの表情がすこし強張るのがわかった。


 ……けどそれは、きっと左沢さんも怖いから。

 わたしはそう信じたかった。



「昨日、男の子たちとあんなことがあって……嵯峨くんもきっと、ああいう形で気持ちを伝えたくなかったはずだよ」

「…………」

「おせっかいなことかもしれないけど、でも疎遠になっちゃうのは、やっぱり悲しいよ」


 昨日、嵯峨くんが病室を出ていったあと、左沢さんは泣いていた。

 わたしはそれをそばで見てしまっていた。


 曖昧な表情でいた左沢さんは、やがて肩を落としていた。



「……わたし、嫌いって言っちゃった。顔も見たくないって」

「それは……誰だって気が動転しちゃうことはあるよ。左沢さんは怪我をしたばかりだったし、いきなりだったんだもん。仕方ないよ」

「……」

「嵯峨くんだって、きっと分かってくれるよ」


 だって……ふたりは幼馴染なんだから。

 左沢さんも、分かっているはずだった。


 それでも左沢さんは、口を閉ざしてしまった。



「わたしのせいにしてよ」

「え……?」

「わたしの伴奏、きっと大変だから」


 わたしなんかの考えがうまくいくか、分からないけれど……


 でもきっと左沢さんは、嵯峨くんともう一度話してみる勇気と、理由が欲しいんだ。

 わたしに何か手助けができることがあれば、左沢さんの力になりたい。


 わたしは左沢さんの瞳を見つめた。



「もう歌えなくなったわたしのかわりに、左沢さんが、みんなの練習をみてあげてほしいの。わたしのソロにたくさんアドバイスくれた、今度はクラスのみんなに……できれば、男の子にも」

「……」


 クラスの男の子たち――あんなことがあったから、歌いたがらないかもしれない。


 でも、左沢さんやみんなが元通りのクラスメイトに戻ってほしかった。

 ……わたしも、みんなと仲直りしたい。



「わたしもみんなに、力を貸してほしいってお願いしてみる。左沢さんは……嵯峨くんとふたりで、みんなに教えるの」

「……うん。私やってみるよ」


 左沢さんはゆっくりと頷いてくれた。

 それから、涙をぬぐいながら笑ってくれた。



「粕谷さん……私のこと励ました後で、結構、手厳しいこと言うんだね」

「あっ。ごめん……」

「でも粕谷さんにお願いされたら、やらないわけにいかないよ。ありがとう」


 左沢さんはわたしの手を握り返してくれた。

 わたしは胸がじんわりとした。


 左沢さんがわたしの気持ちに答えてくれたのが、本当に嬉しかったんだ。



 ――こんなお願いをしておいて、「やっぱりダメでした」なんてかっこ悪い。

 伴奏、頑張らないと。


 あらためてそう思った。




















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